ストレスと戦う「自律神経」とは何か?|高橋昌一郎【第16回】
「ストレス」に晒される人間
「見ればただ 何の苦もなき 水鳥の 足に暇なき 我が思いかな」という歌がある。「一見すると、水鳥は何の苦労もなく水面に浮いてスイスイと泳いでいるように映るが、水面下では足ヒレをひっきりなしに動かしている。それと同じように、私は気楽に生きているように映るかもしれないが、実は私は他人から見えない部分で苦労して生きているのだ」といった趣旨であろう。徳川家康の孫であり「水戸黄門」で知られる水戸藩主・水戸光圀の作と伝えられている。
興味深い観察だが、最後の部分は居酒屋で上司が部下に語るような自画自賛で、水戸光圀ほどの人物が詠んだ歌とは思えないような気もする。実際に、この歌は光圀の著作『常山詠草』と『常山文集抄』には収められていない。江戸時代の講談の歌を、東京女子大学初代学長・新渡戸稲造が紹介したのが初出らしい。
さて、本書によれば、体内で絶えず働き続ける「自律神経」は、この歌に登場する水鳥の足ヒレのように、見えない部分で生涯、ヒトの体内が順調であるように調整している。本書は「自律神経の科学」の詳細な解説書でありながら、この種の比喩や逸話がところどころに挿入されていて、楽しく読み進められる。
そもそもヒトの神経系は、「中枢神経系」(脳と脊髄)と「末梢神経系」(脳神経・脊髄神経と体性神経系・自律神経系)に分類される。「体性神経系」は、末梢から中枢へ情報を伝達する「求心性神経」(感覚神経)と、中枢から末梢へ情報を伝達する「遠心性神経」(運動神経)に分類される。たとえば、今読者が本を読んでいたら、文字の情報を感覚器官の目から脳に伝えるのが「感覚神経」であり、次のページをめくるように脳から指に指令するのが「運動神経」である。
「自律神経系」も、求心性神経(内臓求心性繊維)と遠心性神経(交感神経・副交感神経)に分類される。「内臓求心性繊維」は、「空腹になった」とか「腹が痛い」とか「気分が悪い」などの情報を内臓から脳に伝えているのである。
一方、脳から瞳孔・涙腺・唾液腺をはじめ、すべての臓器に情報を伝えるのが自律神経系の遠心性神経だが、その大きな特徴は「交感神経」と「副交感神経」の「二重支配」にある。たとえば、心臓には、その動きを強める交感神経と弱める副交感神経が繋がっていて、その両方が相反する「拮抗支配」をしている。
イヌとネコを同じ実験室に入れる。イヌが吠えると、ネコの瞳孔は開き、身体中の毛が逆立ち、心拍数と血圧と血糖値は上昇し、副腎からアドレナリンが分泌される。これが交感神経の活動が高まった状態である。一方、縁側で昼寝をしているネコの心臓はゆっくりと動き、血圧と血糖値も下がった状態だが、ここで胃腸は活発に消化活動を行う。これが副交感神経の活動が高まった状態である。動物は「興奮」と「鎮静」の自律神経のバランスに基づいて生きている。
本書で最も驚かされたのは、ヒトがストレスに晒されたとき、交感神経系が働くと、ストレスに立ち向かう「闘争(Fight)」か、ストレスから「逃避(Flight)」するかの二者択一になるが、副交感神経が働くと、諦めてストレスが消え去るのを待つ「すくみ(Freeze)」反応が生じるという解説である。ライオンから必死で逃げていたカモシカが、ついに捕まると、あっけなく命を投げ出す映像を観たことがある。動物は何かと闘うことも逃げることもできなくなると、副交感神経の働きによって平静に「死」を迎えるようにできているのかもしれない。