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伊藤亜紗『どもる体』|馬場紀衣の読書の森 vol.9

人間というのは、ほんとうによくしゃべる生き物だと思う。動物や昆虫も音を出すけれど、人間ほどではない。

言葉を飲みこむ、という表現がある。もちろん私も幾度となく経験があるけれど、その度に飲みこんだ言葉が胃のなかをぷかぷか浮いているのを想像して可笑しくなってしまう。飲みこんだ言葉は、その後どこへ行くのだろう。つまるところ、人は口を閉じていても、しゃべってはいるのだ。時には、夢のなかですら、しゃべっている。そして話すという行為は、じつは複雑な運動の結果でもある。

肺から出た空気は、声帯によって振動を与えられて音になり、それを声帯が加工し、修繕する。これをなめらかに微調整し続けることで、しゃべる運動が可能になる。こんなふうに説明すると、しゃべるという行為がなかなか複雑であることが伝わると思う。子どもの発達過程では、話し言葉が発達する時期には、歩行などその他の運動が一時的に停止すると言われている。それほど、しゃべることは複雑なのだ。

自分のものであるはずの体が、自分のものでないかのように勝手にしゃべりだしてしまう。不意に、こちらの意図を受けつけずに、体のコントロールが外れてしまう。最初の音を繰りかえす「連発」。特定の単語で音が出なくなる「難発」。本書で著者は、そんな「どもる体」がもたらす吃音的な「私」のあり方を探っていく。


伊藤亜紗『どもる体』、医学書院、2018年。


吃音は、しゃべるさなかで、自分の体を一時的にコントロールできなくなる状態です。オートマチックな制御に任せた結果、体にエラーが生じる。次の音に移行しきれず、生じるアイドリングが連発です。

こうした状態を緩和するには、リズムに身を任せたり、演技というパターンに当てはめたりすることが有効らしい。なんとも不思議なことだけれど、著者によれば、どもる体というのは、むしろ解放されすぎている状態にあるのだという。結果、制御されない体のどもりが、そのまま表れてしまう。

たとえばリズムにノっている状態は、しばしば「抑制の解放」として語られる。おなじ幅の単位が反復されていくリズムでは、一つのパターンを使い、応用することが可能になる。演技でも同じことが言えるかもしれない。すでに知っている、手もとにあるしゃべり方のパターンに当てはめて体から声を出すという行為は、法則に依存している状態にある。パターンに依存し、運動を部分的にアウトソーシングすることで、言葉につまったり、不安なくしゃべったりすることができるようになるのだ。

最初は難しく、異物のように感じられたある運動が、繰り返すうちに次第に私になじみ、私の一部となっていく。まさに運動によって体はつくられます。吃音において起こっているのも、ほかでもないこの生成のプロセスです。工夫が固着し、自動化して、最終的には生理的な反応のように感じられるまでになる。それはまさに、体が異質なものを自分の一部にしていくプロセスです。

吃音者のなかには、難発を乗り越えるために、ある言葉を言う代わりに、同じ意味のべつの言葉(あるいは表現)を使う「言い換え」で対処する人もいる。しかし、これは肯定派と否定派に分かれる、ということも言い添えておきたい。言い換える、とは当事者にとって、自分の体を裏切る行為とも捉えられかねないからだ。

自分の思いから切断されたままに動く体。どもる体は、自分という輪郭を揺るがし、曖昧にしてしまう。そうした恐怖を抱えて生きるということ。そもそも、私たちは自分の体の動作や発する言葉にどれほど自覚的だろうか。体のおもしろさを知ると同時に、もう一人の自分に触れた気がした。




紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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