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2:ブルースなんて、知らないよ——『教養としてのパンク・ロック』第23回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第3章:パンク・ロックの「ルーツ」と「レシピ」とは?

2:ブルースなんて、知らないよ

ガレージ・ロックの「二重屈折」構造

 『ナゲッツ』に収録されているバンド、あるいはそれ以外の60年代の「ガレージ」連中がお手本としたのは、まず最初にビートルズが先導した第一次ブリティッシュ・インヴェイジョン、つまりはマージー・ビート(日本で言うリヴァプール・サウンド)につらなる「UKのビート・バンドたち」だった。

 そして濃淡はあれど、その波のなかにあるかなり多数のイギリスのバンドがアメリカのロックンロールのみならず、ブルースやR&Bから直接的な影響を受けていた。ローリング・ストーンズやヤードバーズのように、黒人音楽に没頭し、学徒としての長い道のりを真面目に歩む(あるいは、歩もうと志す)バンドも、少なからずいた――のだが、とにもかくにも「アメリカのガレージ連中」は、そんなイギリス人バンドから影響を受けた、というわけなのだ。「本物のブルースやR&B」が、きっとずっと、身近にあり続けていたはずなのに。生き身の黒人アーティストによる「現物の」それが、ロック音楽のルーツから伸びてきた枝が、すぐ目の前にあったはずなのに。しかしそこには目もくれず、イギリスを経由して「希釈されて、黒っぽさが減衰した」ロックのほうを、ことさらに好んだ。

 この構造を、ジョン・サヴェージは「二重屈折」と呼んでいる。たとえば、元来は「アメリカ黒人による真正のR&B」だったナンバーを、ストーンズがカヴァーする(ここで一屈折)。そのヴァージョンをアメリカのガレージ・バンドが聴いて、これを「ネタ」に、自分たちのオリジナルらしき曲を、編み出そうとする(ふたつめの屈折)――つまり元来はあった「黒人音楽らしさ」というものが、幾重にも薄められたかのような、ほぼ別物となってしまったかのような、人工的で奇矯なロックンロールこそが「ガレージ」ロックの本質なのだ、との見方がこれだ。

 こうしたガレージ・ロックの特徴は、とても奇妙なものだと言うことができる。ロックはロックなのだが、しかし「黒人音楽そのもの」からは遠く遠く離れてしまう――というのは、不思議なことなのだ。なぜならば、大雑把に言うとロックンロール音楽とは、黒人によるブルースやR&Bと、白人のヒルビリー音楽(のちにカントリーとなるものの原型)の融合だ、とされているからだ。白人のエルヴィスが「まるで黒人のように」ブルース・ナンバーを歌ってみせた「その状態」こそがロックンロールの基本形となったという見方が世に強い。あるいは「白人のキッズに、とても受けがいい」ロック・ソングを量産した黒人アーティストのチャック・ベリーが、初期ロックンロール界最大級の偉人として、いつまでも称賛されているという事実がある。

 であるのに「黒人音楽から遠く離れた」かのような、しかし「シンプルな」ロックとは、これは、なんなのか? ごく普通に考えると、明らかなる失敗ではないのか?――いいや、そうではないんだよ、という意志こそが『ナゲッツ』を生んだ。出来が悪いものとして貶めるために、わざわざコンピレーション盤を編む者などいない。広い世間からは見過ごされていた「固有の価値」を発掘して正当なる評価を求める目的で、好事家が尽力したわけだ。そして反応する人は、少なからずいた。まるでこれは、ジャンク品の山から掘り出されてきたお宝じゃないか、として、60年代ガレージ・バンドの印象的なナンバーの数々を評価したのが、米ライターのレスター・バングスやデイヴ・マーシュだった。彼らもまた、こうした音楽に対して「パンク」の語を与えていた。

パンク・ロックの「三重屈折」構造

 だからラモーンズ以降のパンク・ロックとは、言うなれば「三重屈折」構造となっていたことになる。60年代のガレージ・ロックをさらに「ネタ」にしたのだから。つまりそのぶんだけ、より一層、ブルースやR&Bから遠ざかっていったことになる。

 その証拠をひとつ紹介しよう。60年代デビューのガレージ組でも、じつはストゥージズあたりは70年代に入るとブルース色濃いナンバーも出てくる。どろどろの、ぎとぎとの、油まみれ泥まみれのブルースと、イギー・ポップの野獣性は相性がよかったからだ。とくに70年発表のセカンド・アルバム『ファン・ハウス』(『名盤100』にランクイン)は「破れかぶれの」ブルース色がかなり全面に出ていた。しかしたとえば、前述のとおりセックス・ピストルズはストゥージズを好んではいても、彼らがカヴァーしたヴァージョンの「ノー・ファン」には、ブルースの粘り気など、影も形もない。

 だから逆に言うと、ワイルドなガレージ・ロックからブルース臭をどんどん抜いていくと、パンク・ロックにかぎりなく近づいていくのだ。それが「三重屈折」構造の要諦と言ってもいい。実際問題、ストゥージズも、サード・アルバムの『ロウ・パワー』(73年、『名盤100』にランクイン)となると、ブルース色は一気に減退する。そしてこのアルバムこそが「もはやほとんどパンク・ロック」だとして、「プロトパンク(Proto-Punk)」の名盤と呼ばれている。

「ブルースを聴きたくなくなるような」一大事件勃発

 それにしても、なぜアメリカの60年代ガレージ・バンドは(二重屈折)、さらにはラモーンズやセックス・ピストルズらパンク勢は(三重屈折)、ブルースやR&Bといった「ロックの始原風景」のひとつから、ことさらに遠ざかっていくようなメカニズムを得たのか? たとえば、白人による黒人への人種差別的動機などは、あったのか?――一部それは、あったのかもしれない。だがしかし、どちらかというと「文化の盗用を忌避したくなる」ような、ごくまっとうな皮膚感覚があったせいなのでは、と僕は見る。ある種の含羞のような精神の健全性が、どこかに、最初から内蔵されていたのではないか。

 というのも、パンクな魂を持つキッズにとって、しかもとくに、UKの若者たちにとっては「ブルースを聴きたくなくなるような」一大事件が、70年代のそのころに起きてしまったからだ。白人のくせに「ブルース最高」なんて真顔で言ってるオッサン、そもそもちょっとまずいんじゃないの、と思わず言いたくなってしまうような。

 この「事件」とは、エリック・クラプトンの有名な大放言のことだ。ときに76年8月5日、バーミンガムでの彼のライヴ中に、事件は起こった。そのとき明らかに泥酔していたクラプトンは、ステージ上でおぞましい人種差別発言を連発してしまうのだ。黒人やアラブ人への侮蔑語を口にしては「俺らの国から出て行け」と繰り返しののしり、「イギリスを黒い植民地にするな」とも主張。さらには元保守党の大物議員イノック・パウエルへの強い支持を表明する。パウエルとは、かつて同地バーミンガムで移民排斥を訴えた「血の川演説」(68年)で知られる、名うての人種差別主義者、排外主義者だ。そんな男を「首相にしよう」なんてクラプトンは言うのだ。あげくの果てには、当時の極右の代名詞・国民戦線のスローガンである「Keep Britain White!」なども口にして――もちろんこれら全部が、大問題となる。

 誰もが知る「イギリスにおけるブルース音楽の最も敬虔な信徒のひとり」であり、すでに功成り名を遂げたビッグなロックスターでもあったクラプトンが、人種偏見、排外主義、憎悪扇動といった醜態を、公衆の面前で堂々と開陳したことが世に与えた衝撃は、大きかった。事件のつい2年前にはボブ・マーリーの「アイ・ショット・ザ・シェリフ」をカヴァーして大ヒットさせたばかりだったのに……なのに「こうだった」というところに、とくに「年若きロック・ファン」は、大いに幻滅したのではないか、と僕は読む。クラプトンへの幻滅だけではない。「イギリス白人によるブルースなんて」と、そこに欺瞞を感じたとしても不思議はなかった、のではないか。もちろん、まともで誠実なホワイト・ブルース、ブルース・ロックは、世に多くある。クラプトンの作品だって、音楽的にはきわめてすぐれたものがいくらでもある。「しかし、にもかかわらず」人間的にこうでもあり得るとしたら……それはいかに表面を取り繕っていようが、結局のところは帝国主義的な、優越した立場からの文化の盗用の実例の、最たるもの――これ以外の意味って、ないんじゃないのか??

 こんな疑問が、パンクスやその予備軍の胸中に去来したとしても、誰も責められなかったはずだ。それほどまでに大きな、ロック史に残る醜聞がこの事件だった。事実まさに、ここまでに僕が幾度か触れた『ロック・アゲインスト・レイシズム(RAR)』は、クラプトンのこの大放言に対抗するところから運動を活発化させていったものだった(ちなみに、のちにクラプトンは、このときの発言について一応の謝罪はおこなっている)。

パンクの原点とは「ありとあらゆる差別に反対する」もの

 と、こういった事件なども影響して、とくにUKのパンクスは「ブルースを忌避する」心理的傾向が強くなったのではないか、というのが僕の見立てだ。ゆえに彼ら彼女らは、決して「教科書通り」のロックのルーツとして、ブルースに接近していくことはなかった、のかもしれない。つまりパンクスは、もっとふらふらと自己流の歩きかたをしたのだ。そのなかで「センスに合う」バンドを、楽曲を掘っていくうちに、前述の「屈折組」と出会ってしまう。そして気に入って、自らが「さらなる屈折」を重ねてしまい、「結果的に」黒っぽさがどんどん薄まっていった――といったような経緯を僕は想像する。

 そしてもちろん、重ねた屈折分だけ、全体のバランスは悪くなる。まっすぐ直立するのではなく、まるで与太者のように、背を丸めて上目づかいに相手を見上げては威嚇するような――そんな息吹が濃厚なガレージ・ソングやパンク・ソングが世に多く存在するのは、ひとつはそのせいだ。こうした「悪いバランス」に付け込むようにして、差別主義者や国粋主義者などが参入してくることもある。そんな順番で、ねじくれ曲がってしまった例もあった。しかし元来のパンク・ロックとは、その中心軸は、まったくもって人種差別的ではない。

 パンクの原点とは「ありとあらゆる差別に反対する」ものにほかならないからだ。路上のきわめて低い位置から発信される、抵抗者のための音楽なのだ。ザ・クラッシュの果敢な活動を引くまでもなく、この姿勢は、ロンドンだけでなくニューヨークでも顕著で、だからこそ「ポストパンク」の大隆盛へとつながっていった。

 詳しくはのちほど記すが、パンク・ロック爆発の直後から始まった「ポスト」パンク・ロックと分類されたその潮流は、ひとつ、異種混淆を旨とした。いろんな音楽と「合体」したのだが、その相手となった異種とは、おもに「黒人音楽」だった。クラッシュによるレゲエとパンクの合体を、さらに遠くまで延ばしていったような現象だと言っていい。ジョン・ライドンのPiLの音楽性が、レゲエの一形態である「ダブ」に最初から大きく依拠していたことも、この流れのなかにある。そのほかポストパンク界隈では、アフリカン・リズム、カリビアン、ブラジリアン、アメリカのファンク、もちろんソウルやR&B、よりエスニックな世界各地の民族音楽も……ほとんど「史上初めてではないか」といった例も多数の、ユニークな「結合」がおこなわれていった。次から次へと。念のために言っておくが、これらは剽窃や盗用では一切ない。異文化との「合体」だ。だから容易に逆コースもあった。とくにファンク音楽などを舞台に、黒人音楽側からの「パンクやポストパンク吸収」の流れも多くあった。ヒップホップの一部など、そのベクトルの最たるものだったとも言える。

 つまりブルース抜きの「悪いバランス」のもと、いたるところ「穴だらけ」だったパンク・ロックというシンプルな支柱には――なにしろ穴がいっぱいあっただけに――じつにいろいろなものを容易に「接続」することが、接ぎ木することができた、というわけなのだ。そして黒人音楽ほかの強靭なリズムを接続された、パンク由来のこれまた「シャープで新しい」音楽は、80年代、クラブ音楽やダンス音楽の基盤となるシーンが形成されていく時期に、大いなる文化的貢献を果たすことになる。

「若気の至り」がロックを前進させる

 まとめると、前述の二重と三重の屈折が生じた原因とは、「主流」や「権威者」への反発と呼ぶべき心理が影響したものだったのだと僕は考える。「そもそもロックンロールとは」といった、いわゆる正史への、「ありがたい歴史観」への、無条件なる反発心とでも言おうか(クラプトン事件という、最悪の実例もあったわけだし)。いかにそれが「正しそうな」ものでも、先公やオヤジやアニキ連中の言うことなんて、そもそも聞いてられるかよ!――というような、やっかいな心性のあらわれだと僕は読む。

 つまりは「若気の至り」というやつだ。その当時の大人の連中が「いい」と言うものだから、俺らは「いやだ」と。ただそれだけの、理由なき反抗だ。とにもかくにも「強者や権威者が決めた」規範から逸脱してはアウトサイダーを目指してしまうような、明日なき暴走を選ぶがごとき若者の態度が「ここではない」どこか遠くから発信された、奇妙な電波を受信して、そして「屈折を加えていった」というのが、ことの核心だったのではなかったか。

 二と三だけではない、屈折の一重め、つまりビートルズやストーンズらが「海の向こう」のロックンロールや黒人音楽に首根っ子を引っつかまれて、生涯を「ただ、そのことだけ」に費やすような病を若き日に得たのも、まったく同じ原因からだったはずだ。自分たちの目の前にある「いま現在」のありようが、しかし決して「現実のすべて」じゃないだろう!という、心の底から発信された血の叫びと地続きの「これ、いいじゃん」という無垢な反応がその原点だった、のではなかったか。

 ゆえにこれらの屈折こそが、ロック音楽の歴史に、経済用語で言うところの「リープフロッグ型発展(Leapfrogging)」を招来した。まるでカエル飛びしているみたいに、インフラとなる下地が「なかった」ところに、だからこそ突如として「まったく新しい」未来への道の入り口が生じることがある。固定電話網もなかった地域に、突如インターネット網やスマートフォンが爆発的に普及することがある。それと同様に、「大人の現状」を拒絶していた若者たちの度重なる屈折のたびに、ロック音楽は予想外に大きく「前進」していったのだ。

【今週の4曲】

The Sex Pistols - No Fun - 1/14/1978 - Winterland (Official)

セックス・ピストルズによる「ノー・ファン」をライヴ映像で。これぞオリジナル期の彼ら「最後の」演奏曲。なんのタメもグルーヴもない「ただ連続してタテに落ち続ける」このビートこそ、ストゥージズのオリジナルがパンクに化けたことの証明だ。

The Stooges - Dirt (2005 Remaster)

というストゥージズのブルースとは、こんな感じ。いみじくも『ファン・ハウス』と名付けたセカンド・アルバムで彼らがキメた「破れかぶれ」のブルース大曲(7分超え)。魔人イギーの淫力出まくり。

The Jon Spencer Blues Explosion - Bellbottoms (official video)

そんな両者の(パンクとガレージ・ブルースの)遺伝子を合体させたら引火爆発したのが「パンク・ブルース」。同サブジャンルの旗手として90年代に人気を得たジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンの初期代表曲がこちら。

The White Stripes - Icky Thump (Official Music Video)

そこからさらに誘爆して、ゼロ年代初頭に大きくブレイクしたホワイト・ストライプスもパンク・ブルースの発展に寄与。つまり「そもそものパンク・ロック」が徹底的にブルースを排除していたからこそ、のちにあらためて「接続」してみることが可能だったという実証実験の結果みたいなものが、このサブジャンルの成功へとつながった。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki 


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