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タイと日本の友好関係は愛憎の泥沼劇場のよう(第13回)

【お知らせ】本連載をまとめた書籍が発売されました!

本連載『「微笑みの国」タイの光と影』をベースにした書籍『だからタイはおもしろい』が2023年11月15日に発売されました。全32回の連載から大幅な加筆修正を施し、12の章にまとめられています。ぜひチェックしてみてください!

タイ在住20年のライター、高田胤臣がディープなタイ事情を綴る長期連載『「微笑みの国」タイの光と影』。
今回はタイと日本の外交関係を、第二次世界大戦時に遡って考えてみます。本連載では何度もタイ人の「したたかさ」に触れてきましたが、戦時の外交でも当然その巧みさが発揮されてきました。この時期とりわけ重要な役割を果たした政治家がふたりいるのですが、そのひとりは最終的に日本で亡くなっています。

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第二次世界大戦からもわかるタイ人の巧みな外交

国として日本とタイの関係は長く、2017年には日タイ修好条約が結ばれて130周年となった。1887年(明治20年)9月に結ばれた「日暹(にちせん)修好通商に関する宣言」から、日本とタイの国交は正式に開かれている。

とはいえこれは現王朝との国交の話だ。実際は条約が交わされる以前も日本とタイには深い関係があった。日本の室町時代には貿易船がタイに滞在しているし、江戸時代(タイではアユタヤ王朝のころ)には日本人村と呼ばれる集落もできたほど、多数の日本人が暮らしている。日本で戦がなくなって仕事にあぶれた侍たちが海外に傭兵として出稼ぎに来ていて、タイでも山田長政を始めとした日本人兵士が当時のビルマ軍と戦ったのだ。

山田長政は20代の時に朱印船で現在のタイに渡り日本人町の頭領として活躍した。史実的に明らかでないところも多いのだが、遠藤周作の小説『王国への道―山田長政―』でその姿が詳しく書かれている。ただ、このボクがこの作品で真の見どころだと思うのは、アユタヤの王族や政治家たちの狡猾な心理戦である。なぜなら、タイ人の中でも頭のいい人たちのことを実にうまく表しているからだ。

この小説にも描かれるタイ人の「巧みさ」は、タイの近代史を眺めてみるとよくわかる。外国人はよく「日本人は『はい』と『いいえ』が曖昧」と批判するが、タイ人の方がずっと深い裏がある。

日本の歴史の教科書では、第2次世界大戦の枢軸国として挙げられるのは日本、ドイツ、イタリアが中心だが(今は違うのかもしれないが、少なくともボクが小学生のころはそうだった)、実はタイも日本と同盟を組んでいた枢軸国の一員だった。ところが、歴史上ではタイは敗戦国とも言えない状態で終戦を迎えている。いったいなにが起こったのか。

まず、先にも述べたように、日本とタイは江戸時代から交流があり、明治に入って正式に修好条約が結ばれた。その後、世界規模の戦争がたびたび起こり、かつ東南アジアは欧州列強国の脅威にさらされることに。タイはミャンマーやマレーシアを押さえる英国や、カンボジアなどインドシナを統治するフランスに脅かされていた。しかし、巧みな交渉術でのらりくらりとかわし、タイは植民地化を免れてきた。

一方で、フランスとは何度か交戦もあり、特にインドシナ紛争と呼ばれる、タイとフランス領土の国境問題は大きかった。タイ側が現在のラオスのルアンパバンやカンボジアのシェムリアップなどを返還するように求めたがフランスが拒否し、両国間で武力衝突が起こったのだ。この仲裁に入ったのが日本だ。これによってタイとフランスで話し合いが行われ、ルアンパバンやシェムリアップ州などはタイ領土になった。シェムリアップはクメール王朝の遺跡であるアンコールワットで有名だが、ここは返還に含まれなかった。

ちなみに、今バンコクの中心地を走る高架電車BTSの戦勝記念塔駅にあるモニュメントはこのインドシナ紛争の記念碑である。武力衝突では終盤、タイは劣勢だったものの日本の仲裁によって要求がほぼすべてフランスに承諾されて領土を返還されたので、タイとしてはこの戦いを勝利としている。

この紛争は1941年のこと。そして同年12月8日、太平洋戦争開戦と同時に旧日本軍はタイ南部に侵攻した。日本はあくまでも許可をもらって通過するだけのつもりだった。ところが、当時のタイの首相であったプレーク・ピブンソンクラーム元帥が不在だったため、しばしの間タイ軍と日本が交戦し、双方数百人が死傷している。その後、姿を現したピブンソンクラーム元帥が日本と攻守同盟を締結した。

タイとしては第2次世界大戦に対して中立でいたかったようで、その前に国際連盟で行われた満州事変のリットン調査団報告書の合否裁定に関して、タイは投票を棄権している。しかし、タイは日本の戦争に加担することにし、それを知った英米が1942年1月にタイへの爆撃などを開始。タイ政府は正式に英米に宣戦布告した。

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英仏と戦うために海軍が設置した英国製152/32mmのW.G.アームストロング社製の大砲

その後、タイ国内では連合国側と大きな戦闘はなく、このころの物語としてよく知られるのはバンコクから西方の、ミャンマー国境にあるカンチャナブリ県の泰緬鉄道建設だろう。映画『戦場にかける橋』でも有名なクウェー川鉄橋を始め、山を切り開いてタイ国鉄の南部線支線をミャンマーまで通した。建設に際しては幾度となく連合国軍の空襲もあり、連合国の捕虜も使役されたことから、欧米では「死の鉄道」と呼ばれ、戦争犯罪の象徴とされている。旧日本軍の生き残りの証言ではまったくそんなことはないのだが、戦勝者の方が都合よく歴史を塗り替えてしまうということはよくあるものだ。

ちなみに、よく日本と中国の間で南京大虐殺が議論になるが、東南アジア各地でも日本軍の虐殺の話は存在する。マレーシアのペナン島でも中華系住民のレジスタンスに対する取り締まりで旧日本軍が虐殺をしたと言われている。そのため、マレーシア北部(タイとの国境付近)からペナン島にかけてのエリアでは今でも「日本人お断り」を掲げるホテルや飲食店がある。

そうして1945年8月がやってくる。同月15日に日本は終戦を迎えるが、当日、駐タイ日本大使が協力に感謝を述べる席で当時のタイの首相が米英への宣戦布告は無効だったとする意向を伝達。翌16日、国王陛下の名で当時の摂政だったプリディー・パノムヨン男爵が「英米への宣戦布告は日本に脅されて発出したもの」として、連合国側に無効を訴えた。

実は8月12日の時点で日本の駐タイ大使がタイ側にポツダム宣言受諾を通達している。攻守同盟条約にも盛り込まれていたためであるが、このときタイ政府は「言うのが遅い!」と激怒したとされる。しかし、実際にはその前日にはタイ側は把握していて、15日の無効宣言を準備していたという。無効宣言はすぐに連合国側に承諾されなかったが、結果的にタイは連合国側による裁きを免れ、いわゆる敗戦国の扱いを受けていない。この巧みさがタイを支配する人たちのすごさである。

タイが占領されずに済んだ背後にいるふたりの政敵

終戦当日まで日本と同盟していたのにもかかわらず、なぜ連合国側はタイを占領したり、統治したりしなかったのか。いくつか理由があるが、大きいのは前項で具体名を挙げたふたりの存在である。

まず、ピブンソンクラーム元帥だ。彼は日本と攻守同盟を結んだ当人だが、タイの近代史には欠かせない人物でもある。近代といっても現王朝のチャクリー王朝は1782年に始まっていて、それ以前の王朝はまた別の国(王国)と考えると、現在のタイの歴史は浅いのだけれども。

ピブンソンクラーム元帥は戦争に深く関わっていただけでなく、観光資源の活用など、現在タイ人が当たり前にやっていることを始めた人物でもある。たとえば、「タイ」という国名にしたのも元帥だ。その前は「サヤーム」という名称だった(日本人には「シャム」と聞こえた)が、これを「タイ」にした。また、戦時中には古米の流通や農家の収益を増やすために米粉麺のクイッティアオを意図的に国民食にしている。元は中華料理なので、今ほどタイ国内で浸透していなかったようだ。さらに、日本人が好きなタイの焼きそばと言われるパッタイは直訳すると「タイ炒め」で、これもピブンソンクラーム元帥のネーミングとされる。それから、戦後、国民の現金収入アップのために不定期開催の蚤の市を各地で開くことに決めた。これによって生まれたのが、世界最大規模の週末市「チャトチャック・ウィークエンドマーケット」だ。創設は1982年だが、チャトチャック公園に移設されたのがこの年で、それまでバンコクの週末市は王宮前広場で催されていた。

戦時中に話を戻すと、そんな元帥が日本寄りになり、日本と共に英米と戦う決心をした。英米に宣戦布告をしたのは、英国がいきなりバンコクを爆撃をしたからだとされる。このあたりの短気さもまたタイ人気質の特徴だ。タイ人はいわゆるキレたとき、前後の見境なく怒り狂う。もちろん、元帥はそこらの小市民のように激怒したのではなく、いろいろな目論見があったのは言うまでもないが。

前項でタイ国内で大きな戦闘はなかったと述べたが、それは地上戦の話。バンコクもまたかなりの回数、空襲されている。1944年1月から翌年1月まででも、タイ全土で250回もの空襲があったという。バンコクだと爆撃目標は鉄道駅や橋などで、バンコク港や製油所なども狙われたようだ。ただ、B29など高高度で飛ぶ爆撃機が襲来したため、日本軍もタイ軍もなす術はなく、戦闘というより一方的に攻撃されたのが実情だ。

なおピブンソンクラーム内閣は攻守同盟締結時、すでに独裁政権とも言われていたのだが、1943年に不信任案を突きつけられ、元帥は首相を辞任している。その後のことは後述したい。

もうひとりの主要人物はプリディー・パノムヨン男爵だ。彼はピブンソンクラーム元帥とは真逆の考え方だったと言える。このふたりは1932年に起こったタイの立憲革命の主要人物で、互いにフランス留学時代に知り合っていて、革命を起こした小さな政治党である人民党では当初良好な関係だった。しかし、元帥が日本と同盟を結んだことをきっかけに、男爵は抗日レジスタンスに加担する。

このグループは当時の駐米大使で、戦後首相になるセーニー・プラーモートが組織した「セーリー・タイ」、すなわちタイ自由運動という名で活動する反日地下組織だ。同盟国や欧米にいる反日組織と連絡を取り合い、大日本帝国の侵略に対抗。アメリカでは戦略諜報局に留学生が採用され、タイへ帰国後に5万人もの仲間を集めた。英国では英国兵と認められて特殊訓練まで受けている。この組織が英米で活躍したこともあり、タイが終戦後に敗戦国の扱いを受けずに済んだという点は大きい。ちなみに、タイ・シルクを世界的に有名にしたブランド『ジム・トンプソン』のジム・トンプソン氏は戦略諜報局バンコク支局長としてタイに来ていて、のちにシルク・ビジネスを展開した。

ところでタイが日本と攻守同盟を結んだ際、タイ政府内に実はひとりだけその場におらず、同意のサインをしていない人物がいた。それがパノムヨン男爵だ。連合国側に日本の強制だったという言い訳ができたのも、このサインがひとつ欠けていたことが理由だとも言われる。

頭のいいタイの偉い人たちだ。それまでも欧州列強国の植民地化を交渉でかわしてきた人たち。そんな人々の中で独裁者と呼ばれたピブンソンクラーム元帥が、ひとつサインが足りないことを見落とすだろうか。特に、関係が悪化しつつあった人物のサインがないとなれば、のちのち問題になる可能性があるのはわかりきっている。それでも攻守同盟を推し進めたのである。

また、日本に加担している以上、反日活動は政府への敵対行動であるし、首相だった元帥としては本来は潰したい組織である。それを押さえきれなかったことが、最終的に日本敗戦時には有効手段に成り代わった。連合国側、特に英国やフランスがタイへの態度を軟化させた一因とも言える。

結局、タイ政府はわざと中途半端なことをして、日本と手を繋ぎながらも、裏では連合国側とも手を組んでいたということになる。

タイに供与された日本の陸海空兵器の今

タイが英仏の植民地化を逃れてきた理由のひとつに、交渉材料としてタイ国鉄が使われたという説がある。物資輸送の手段を提供する代わりに占領させない。戦後にはフランスの攻撃もあったが、インドシナ紛争で取り返していたルアンパバンやシェムリアップなどをフランスに返還したのもまた、敗戦国扱いを免れた理由とされる。

終戦直後は英国もフランスも、日泰攻守同盟条約や英米への宣戦布告宣言が無効というタイからの訴えは到底容認できなかった。しかし、タイを後押ししたのはアメリカ政府だという。というのは、アメリカは戦後日本を占領したかったのだが、大混乱が予測された。特に食糧不足だ。そこで、タイ米を日本に持ってきて配給すればいいとアメリカは考えた。だから、タイを連合国側に引き寄せたい。

とはいえ、タイも戦争で疲弊している。そこで、アメリカはタイで押収した日本の資産の一部をタイに譲った。蒸気機関車や貨車だ。これをタイ東北部を中心に走らせ、バンコクに収穫したタイ米を集めて日本に送る。日本では外米として配給に出す。旧日本軍から取り上げた機関車だけでは足りないので、おそらくアメリカからの進言もあり、日本の工業復興も兼ねて蒸気機関車や貨車を日本の企業に製造させる。この場合はタイ国鉄が発注元になる。ただ、タイ政府にも機関車を買う資金がない。そこでタイ米と機関車や貨車を物々交換した。

こうして戦後も日本とタイの関係は続いた。実は1945年8月15日の時点でタイ側が条約無効を日本に伝達したことで本来は事実上の国交断絶になるはずだが、タイは日本に対して一時的な外交停止状態の姿勢を貫いた。1951年に国交を正式に回復するときにタイ側は日本に当時で10億ドルもの賠償請求(実際には日本がタイから借りた戦費の返還要求)をしているが、使節団が日本を訪問したときのあまりの惨状に2500万ドルまで引き下げてくれた。これもまたタイ人の優しい気質を表すひとつのエピソードだ。

ちなみに、戦後タイに納入された蒸気機関車は現在2両ほど可動状態で、年に数回、タイの祝日やタイ国鉄の記念日に特別列車として走行している。また、戦中に走っていた蒸気機関車はC56型が多く、『戦場にかける橋』の泰緬鉄道を走った第1号車は東京の靖国神社に併設される「遊就館」という博物館の入り口に展示されている。そのほかは国鉄駅のモニュメントになっていたり、2両は可動状態でたまにイベントで走行する。残念なことに先の2両、C56の2両はだんだん調子が悪くなっている。部品もすでに日本国内でさえ製造していないので手に入らず、動かせるのはあと何年か、という状態になっているようだ。

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バンコク駅を出発する、戦後に納入されたパシフィック型と呼ばれる日本製蒸気機関車

戦時中はほかにもたくさんの兵器などがタイ軍に供与されている。その一部は今、タイの観光資源にもなっている。たとえばドンムアン国際空港の旅客ターミナルと滑走路を挟んで反対側に空軍施設があり、そこの博物館には旧日本軍が引き渡した飛行機が展示されている。「立川 キ55 九九式高等練習機」という機体で、一見日本の博物館でもありそうだが、実は現存する機体が世界に2機しかない日本製航空機になる。その1機がタイにあるのだ。ちなみに、もう1機は中国北京市の中国人民革命軍事博物館にあるようだ。

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タイ王国空軍博物館にある世界で2機しか残っていない日本製航空機

海軍にも軍艦などが引き渡されている。チャオプラヤ河の河口西岸に、海軍基地に併設された公園がある。「ポム・プラジュンジョムクラオ」(プラジュンジョムクラオ要塞)と呼ばれる要塞跡地で、フランスや英国の侵攻に備えて1884年に作られた要塞が公園になっている。要塞内には英国製の砲台が展示されていたり、日本製の軍艦も置いてある。軍艦「メークロン号」で、1937年に浦賀造船所で建造された、タイではメークロン級、一般的にはスループと呼ばれるクラスの軍艦になる。タイ海軍が戦時中に発注したメークロン級は2隻で、もう1隻は終戦間際に連合国の攻撃で大破。残った方は戦後から1973年まで練習艦として使用された。

空軍や海軍の展示物はゼロ距離まで近づいて見られる。カンボジアのアンコールワットも2000年代初頭までは壁の彫刻が触り放題だったが、今は世界中の研究機関が来てロープを張られてしまっている。タイの博物館はまだだいぶ遅れていて、メークロン号は中にも入れるし、なんでも触っていい状態になっている。軍事マニアはきっと喜ぶ施設だ。

これもまたある意味ではタイ人気質、もしくは王朝あるいは王国の特徴でもあって、古いものに興味がないというか、大切にする気があまりないというか。タイの戦争の爪痕はこうして観光資源として生き残っているものの、おそらくそう長くないうちに見学者たちに壊されてしまうだろう。

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海軍の要塞跡地の公園に静態保存される日本製戦艦「メークロン号」

「親日」の根拠は存在しない?

戦争が終結し、タイは日本のように武力を取り上げられたり、占領されたりといったこともなく、敗戦国のような状態にならずに済んだ。その後、タイは連合国の一員のように、朝鮮戦争やベトナム戦争に兵士を派遣している。ベトナム戦争時は、タイ東部にあった小さな漁村でしかなかったパタヤが、米軍兵士の保養地として発展し、今や世界的に有名なビーチリゾートというか歓楽街になっているほどだ。

日本と同盟状態にありながらも敗戦国らしい扱いを受けなかったのは、前述の通りプリディー・パノムヨン男爵のサインがなかったことや、レジスタンスのセーリー・タイの存在も大きい。しかし、実際にはプレーク・ピブンソンクラーム元帥が一番関係していたのではないかとボクは思う。

ちょっと話が逸れるが、パノムヨン男爵はタイでも支持者の多い人物だ。高架電車のBTSプラカノン駅近くに大きな通りがあり、彼の名を取ってソイ・プリディーと呼ばれる。スクムビット通りというバンコクからカンボジアまで続いているような大きな通りの71番目の小路なのだが、1999年に男爵の名前がつけられた。この通りはおよそ3キロほどで、今はタイで働く日本人現地採用者に人気のある住宅地になっている。反日派だった人の名前が冠された通りが日本人に人気というのはなんだか不思議だ。

それから、セーリー・タイをアメリカで組織したセーニー・プラーモートは戦後すぐに首相になっていて、弟のククリット・プラーモートもまた70年代に第18代首相になっている。このククリット元首相は『サヤーム・ラット』という、現存するタイ最古の日刊新聞社(今も発行されている)を1950年に設立したことでも知られる。

ククリット元首相の記事は日本で議論にあがったことがある。『12月8日』と題されたコラムは、日本のことを「母親」と表現し、東南アジア各国は日本のおかげで独立した、という内容になっている。こうした話は、東南アジア各国が韓国や中国と違い、戦後日本に対して反日感情を口にしない理由として長きに渡って日本で紹介されてきた。しかし実は、この記事は存在しないとされる。日本の大学教授が書いたものが日本語訳で初出とされるが、出典が明記されていないのだ。

これに関してボク自身は強く言える立場ではないのだが、実在していない方に賛成である。なぜなら、ボクはある作家に依頼されて調べたことがあるのだ(それもあって、調査結果を公には言えないのだ)。自ら国立図書館に向かい、1950年の創刊直後こそ欠けているものがあったが、『サヤーム・ラット』のかなりの発行号を、実際の紙面で確認した。しかし、同様のタイトルどころか似た記事さえなかった。あるいは日本を母とするようなニュアンスの記事もない。ククリット元首相は小説家でもあり、エッセイなども多数書いている。その中で日本に関係した書籍もあり、それもタイ語で読んだが、『12月8日』に相当する話はなかった。

そもそも、タイは英仏日米のいずれにも加担したくなかったのに日本と同盟を結び、混乱した国だ。そんな国に生きた頭のいい人が日本寄りの記事を書くだろうか。だいたい、兄は反日派の元首相である。なおのことククリット元首相が親日派とは考えにくい。あるいは、親日派だったとしても、人間関係が複雑なタイにおいて兄に配慮せずにそんな記事を書けるだろうか。

タイは親日国とも呼ばれ、明治時代から国交も続き、タイ人も日本好きが少なくない。しかし、実際にはタイ人自身が親日を掲げているわけではなく、あくまでも本質部分で彼らは国や自分たちの利益になる方を優先する。「タイは親日国」というイメージは、そもそも日本人が勝手に抱いているだけなのだ。

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ドンムアン空港から北の方にある陸軍の博物館は、海軍空軍の博物館と違い抗日の歴史も展示されている

最後の地に日本を選んだ元帥

攻守同盟の同意時にパノムヨン男爵がその場におらず署名していないこと、それをピブンソンクラーム元帥が見落とすだろうか、と先に書いた。この「その場にいない」という手法は元帥自身も使っているのだから、なおのこと見落としは不自然だ。首相在任中に東条英機がタイに来たそうだが、体調不良を理由に元帥は顔を合わせていない。なにより、それ以前の太平洋戦争開戦時に旧日本軍がタイ南部に侵攻したとき、元帥がいなかったことが理由ですぐに通過する約束を日本は取りつけられなかったことはすでに書いたわけだが、実はこのときも元帥は「わざと」姿を消していたとされる。英仏と日本のどちらの側にも立ちたくなかったので、わざといないことにして日本に侵攻させたのだ。

これによって、もし日本が負けたとしても終戦時に言い訳が立つ。当初は、あくまでも通過のみに協定を結ぶつもりで、実質的植民地化の恐れがあった攻守同盟を元帥は結ぶ気がなかったとされる。しかし、条項に日本軍がマレーシアの失地回復(歴史上かつてタイの領土だった地域を取り戻す)に協力するという一文があって、元帥はそれに魅力を感じたのかもしれない。その直前にはインドシナ紛争で日本の仲裁によりラオスとカンボジアの領土を取り戻していたことも頭にあっただろう。ところが、攻守同盟では失地回復の部分は削除した上でサインしている。この文章があると、後々の場合によっては不利になると、締結時点ですでに考えていたのだと言われる。「後々の場合」とは、その時点ですでに日本の敗戦も想定していて、英国領のマレーシアの失地回復に目がくらんだと判断されては、日本が負けたときに英国に対する言い訳ができないからだ。同時に、攻守同盟条約に対するプリディー・パノムヨン男爵の同意サインもない。元帥はむしろ最初から日本の敗戦の可能性を感じ、保険をかけていたに違いない。

反日レジスタンスのセーリー・タイも、本来はタイが日本と同盟を結んでいる間は敵と同じ存在だ。アメリカの諜報局の訓練で帰国したタイ人の元留学生たちが5万人もの同志を集めたとされるが、規模の大きさからすれば、タイ政府や治安当局がその存在を把握していないわけがない。結局、反日組織を取り締まりきれなかったのではなく、わざと黙認していたとされる。これもまた、日本の敗戦時の連合側への交渉材料として利用できるからだ。

だから、敗戦という混乱からタイを守り、日本をしたたかに利用したのはやっぱりピブンソンクラーム元帥なのではないかとボクは見ている。とはいえ、政敵であるパノムヨン男爵などから一時的に政界を追われ、かつ終戦後は戦犯として投獄されてはいるのだが。しかし、うまい具合に戦犯は取り消され、さらにちゃっかりと政界に戻り、元帥は戦前を合わせて実に8回もタイの首相に就任している。

プリディー・パノムヨン男爵は1949年に海軍と共にクーデターを起こし失敗。中国に亡命して20年を過ごし、フランスで亡くなっている。一方、ピブンソンクラーム元帥は1957年にクーデターを起こされ失脚。カンボジアに亡命後、日本は神奈川県相模原市で1964年に亡くなった。

元帥自身は親日派だったにしても、ああいった形で戦争は終わっている。それでも友人が多かったこともあって、亡命生活の先を日本に選んだ。日本人だと「いやあ、裏切ったしなあ、頼れないよなあ」と考えてしまいそうだが、ちゃんとそうはならないよう考え抜いた上での人間関係構築だったのだろう。そう考えると、やっぱりタイ人というのは頭がいいのだなと思うのである。

高田さんプロフィール

書き手:高田胤臣(たかだたねおみ)
1977年5月24日生まれ。2002年からタイ在住。合計滞在年数は18年超。妻はタイ人。主な著書に『バンコク 裏の歩き方』(皿井タレー氏との共著)『東南アジア 裏の歩き方』『タイ 裏の歩き方』『ベトナム 裏の歩き方』(以上彩図社)、『バンコクアソビ』(イーストプレス)、『亜細亜熱帯怪談』(晶文社)。「ハーバービジネスオンライン」「ダイアモンド・オンライン」などでも執筆中。渋谷のタイ料理店でバイト経験があり、タイ料理も少し詳しい。ガパオライスが日本で人気だが、ガパオのチャーハン版「ガパオ・クルックカーウ」をいろいろなところで薦めている。

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