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岡田尊司『死に至る病』|馬場紀衣の読書の森 vol.22

記憶というのは曖昧で、覚えていることよりも、覚えていないことのほうがよっぽどおおい。infantインフアント(子ども)の語源は「語らぬもの」を意味するラテン語 infansインフアンス なのだという。語ることのできない、この小さな生きものは、語ることができないために、ないがしろにされることがある。どうせ子どものときのことだから忘れているだろう、と大人は思うかもしれないけれど、人はしっかり覚えている。愛された、という記憶を。そして、愛されている、という事実は栄養となって子どもの全身を(精神的な意味でも)血液のようにめぐるのだ。

人に喜びを与えてくれる仕組みは、たった3つしかないのだという。一つは、生理的な充足感と深くかかわる物質で、たとえばお腹いっぱい食べたりすることで生じるエンドルフィン。二つめは、神経伝達物質を介して働くドーパミン。これは通常、困難な目的を達成したときに放出される。三つめは、この本のテーマそのものといっていい。愛着だ。

愛着はオキシトシンの働きによるもので、愛する人の顔を見たり、触れたりすることで「安らぎに満ちた喜びが湧き起こる」。人はたった3つの仕組みで幸せになれる。いいかえれば、そのほかは辛いことばかりというわけで、とするなら、大袈裟な言いかたかもしれないけれど、人が幸せに生きるためには、この3つのうちのどれか一つでも欠けてはいけないということになる。

愛着システムは、無条件に与えられる満足だ。なんの行為も努力も必要ない、ありのままの自分でいるだけで与えられる満足感なので、基本的安心感と呼ばれることもある。オキシトシンがうまく働かないと、人はべつの欲望でバランスをとろうとする。たとえば過食やセックスなどで心のすき間を埋めようとする。究極的には、死へと人を向かわせることにもなる。だから、本書のタイトルは『死に至る病』。

岡田尊司『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』、光文社新書、2019年。


オキシトシンは、もともと授乳や分娩を引き起こすホルモンとして知られていた。(中略)ところが、二十世紀も終わり頃になって、オキシトシンの意外な働きが次々と解明される。その一つは、育児や世話といった母性本能に関わるだけでなく、絆を維持することに必須の役割を果たしているということだった。オキシトシンがうまく働かないと、特別な結びつきは失われ、つがい関係が壊れたり、育児放棄をしたりするということが起きるのである。さらには、オキシトシンには、ストレスや不安を和らげる作用があることがわかってきた。

愛する人と触れあうことで活性化し、喜びを享受することで自分と、それから家族を守ることができるシステム、と聞くとなんだかとても都合のいいものに思えてくる。一方で、愛着が不安定だと幸福感が下がり、ストレスを感じ、心身を壊してしまう。オキシトシンは免疫系や成長ホルモンの働きにも関係しているので、発達障害でよく知られる多動や衝動性、ADHDや自閉症に似た状態が起こりやすくなる。そのほかにも感染症にかかりやすくなり、自己免疫疾患やアレルギー疾患を引き起こしやすくなるのだという。

愛情は人を育て、命を守り、生存率を高める。愛着は、世話をする仕組みそのものと言えるかもしれない。「世話を介して、世話をする者にも、される者にも、安心と信頼の絆」を生むからだ。著者はさらにこのように語る。

愛着の希薄化が進行すると、人は誰の世話もせず、誰の世話にもならず、自分のためだけに生きるようになる。しかし、それでは愛着システムは正常に働かず、生きる喜びも意味も得られない

愛されなかったという事実は、体に傷跡のように残りつづける。傷跡にすぐに効く薬はないけれど、愛着障害を克服する方法ならある。それは筋肉をトレーニングするみたいに、ゆっくりと、気力と忍耐の求められる作業になるけれど、そんな人たちに寄り添うために、この本は書かれたのではないだろうか。



紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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