見出し画像

思想家、革命家、作家、冒険家たちの素顔に触れる――【第8回】自伝文学の読書論:トロツキー、福澤諭吉、内村鑑三、ミル、トウェイン…etc.|駒井稔

著者に寄り添い、あるいは対峙しつつも、読者と同じ立ち位置の存在でもある編集者ならではの気取らぬ読書論を、雑誌編集者として、また古典新訳文庫の編集者として長年活躍してきた駒井稔が、エッセイ風に綴ります。

「8歳から80歳までの本好きの方々に贈る、とっておきのブックガイド」

話題は日本だけでなく、海外の書店や出版社、編集者、作品へと縦横無尽に広がる予定です。肩の力を抜いてどうぞお楽しみください。

【第8回】自伝文学の読書論


自伝を読む楽しみ――歴史に残る傑作を紹介


誰でも本が一冊書けるとは、よくいわれます。それは自分史、つまり自伝です。今回はその中でも歴史に残る傑作をご紹介しましょう。

私自身がなによりも、自伝を読むのが一番の楽しみなのです。革命家や思想家、そしてもちろん文学者などの自伝を読むと、とっつきにくいなと感じていた著作も、急に親しみを覚えたりするのが不思議です。些細なエピソードに思えることが、固いイメージの思想家の回想に出てくると、不思議と親近感が湧いてきます。

皆さんにもそんな経験があると思います。編集者としても、難しい内容の本を編集する時のいい意味での息抜きに、自伝を読むことがあります。癒されるんですよね。

ということで、今回も革命家から始めることにしましょう。

最高傑作、トロツキーの『わが生涯』


革命家の名前はトロツキー(1879~1940)。今の若い世代には馴染みがないかもしれませんが、ロシア革命をレーニンと共に成功に導いた革命家です。

トロツキー(1924年、45歳ごろ)

少し前までは、トロツキーは政治的な文脈で語られることが多くありました。しかし、21世紀も20年を過ぎ、ロシア革命から100年という時間を経た現在では、これは古典といってもいい書物でしょう。それどころか、自伝文学として、最高傑作の一つだと個人的には思っています。

20世紀最大の出来事はロシア革命であると思います。そのことを理解することなく、21世紀の現在を考えることはできないのではないでしょうか。この本は上下巻で1000ページを超す大著です。しかし、ひるむことはありません。トロツキーの筆はまったく遅滞することなく、自らの出自から49歳までの革命のために生きた歴史を、雄弁に語って倦(う)むこと知りません。スピード感あふれる文体の魅力は、この翻訳から十分に伝わってきます。

ちなみにこの『わが生涯』の上巻を新訳した森田成也さんは、古典新訳文庫でトロツキーの著作を4作、新訳しています。『レーニン』『永続革命論』『ニーチェからスターリンへ――トロツキー人物論集【1900-1939】』『ロシア革命とは何か――トロツキー革命論集』がそれです。

いずれもとても読みやすい新訳ですので、この紹介を読んでご興味をお持ちになったら、是非手に取ってみてください。

私自身もソ連に2回旅行しています。1988年の春と冬です。最近亡くなったゴルバチョフが、ペレストロイカを掲げて颯爽と登場したころです。トロツキーに関しては、古典的な名著といわれるアイザック・ドイッチャーのトロツキーの評伝三部作は、すでに読んでいましたので、いろいろと感慨深い旅になりました。

ソ連崩壊後の1992年の夏にも、ロシア人の家にホームステイしました。経済が崩壊した余波を受けて、百貨店の出口で困窮した若者たちが、それぞれに自分の靴や日用品などを売るために長蛇の列を作っているのを見て、痛々しく思ったことをよく覚えています。そしてあちこちに引き倒されたレーニン像がありました。

ロシア革命のために流刑地から脱走


さて、トロツキーの話に戻りましょう。南ウクライナのそれなりに豊かな家庭に生まれたトロツキーの父は、農民でした。後には大規模な自営農となりましたが、父母は文字通り働きづめの生涯を送りました。

トロツキー自身が序文で書いている自分の人生の要約を引用しましょう。

 本書が出版される頃には私は五〇歳になっている。私の誕生日は十月革命の日と同じである。(中略)九歳になるまで私は辺鄙(ルビ:へんぴ)な田舎から一歩も出なかった。八年間、中学校で学んだ。初めて逮捕されたのは、中学を卒業して一年後のことであった。多くの同輩者と同じく、私にとっても、大学としての役割を果たしたのは、監獄、流刑、亡命であった。ツァーリの監獄に私は二度投獄され、約四年間拘禁された。ツァーリによる流刑は最初が約二年間、二度目は数週間であった。二度ともシベリアから脱走した。亡命者としては、二度にわたって、約一二年間、ヨーロッパ各国やアメリカで過ごした。すなわち一九〇五年革命の前に二年間、その崩壊後に約一〇年間である。(中略)私は一九〇五年の革命と一九一七年の革命に参加し、一九〇五年とその後一九一七年にペテルブルク代表ソヴィエトの議長となった。私は十月革命に直接参加し、ソヴィエト政府の一員となった。

筋金入りの革命家というイメージを抱くのも当然です。その通りなのですから。しかし、このトロツキーの人間臭いエピソードには、初読の時から私を強く魅了した部分があります。

最初の流刑でトロツキーは女性革命家と結婚するのですが、革命のために脱走をしなければならないと決心します。その時すでに二人の娘がいました。しかも下の娘は生後4カ月です。

トロツキーと最初の娘ニーナ(1915年)

シベリアでの生活は過酷です。脱走すれば、妻に過重な負担がかかることは当然予想されます。しかし、彼女はたった一言でこの問題に結論を出します。

「行くべきよ。」
 彼女にとって革命的義務は、他のあらゆる考慮を、何よりも個人的なそれを圧倒していた。私たちが新しい大きな課題を自覚したとき、私の脱走という考えを最初に言いだしたのは彼女の方だった。この選択を前にして生じたさまざまな懸念を、彼女はすべて取りのぞいてくれた。

今日の目から見ると、トロツキーの男のわがままのように思えるかもしれませんが、当時のロシアの革命家たちの理想主義とはこういうものだったのでしょう。人間がこのような気高い振る舞いをする可能性を、ロシア革命の歴史を学んでいると痛感させられることがあります。それは極めて文学的な理解かもしれませんが、とても重要なことだと思います。

トロツキーはその後、二度目の結婚をしますが、最初の妻との思想的なつながりと友情はずっと続いていくことになるのです。


トロツキーの方向音痴――人間臭いエピソード


1902年10月にロンドンに着いたトロツキーは、さっそくレーニンのアパートを訪ねます。ドアを開けてくれたのはレーニンの妻・クルプスカヤでした。

クルプスカヤの書いた『レーニンの思い出』という本にも、トロツキーの来訪について触れている部分があります。ちなみにこの本も、妻の目から見たレーニンという革命家の実像を描いたとても興味深い内容ですので、お勧めの一冊です。

トロツキーがレーニンのアパートを訪れたとき、レーニンはまだベッドの中にいました。レーニンとの最初の会見はこのような状況で行われたのです。それから二人は様々な問題について語り合う日々が続くのですが、私が感銘を受けたのは、もっと些細なエピソードです。

 社会民主主義者の教会から戻ると、私たちは、二部屋しかないアパートの小さなダイニングキッチンで昼食をとった。いつも二人(*引用者注:レーニンとクルプスカヤのこと)は、私が一人で自分のアパートに帰り着くことができるかなと言ってからかった。というのは、私は道を覚えるのが非常に苦手だったからである。私はこの自分の欠陥を「地形学的クレチン病」と命名した(私には、こういう大げさな言い回しをするくせがあった)。後年、この方面でずいぶん成長したが、そこまでになるのは容易ではなかった。

ここを読んだときの私の驚きと共感は大きなものでした。じつは私も方向感覚がまるでないのです。いまだに道に迷うことが多くてよく笑われます。筋金入りの革命家であるトロツキーが道に迷っている姿は印象的です。

個人的には、こういうところが、自伝文学の読みどころではないかと思うのです。その人物の書いた理論的著作や文学作品にはない人間らしさに、親しみを覚えるのです。『永続革命論』を書いたトロツキーが方向音痴なんて、誰が想像するでしょうか。それをレーニン夫妻がからかう図もいいではないですか。

第15章の「裁判、流刑、脱走」という章では、1905年12月に逮捕されたあとに、同房にいた同志が「トロツキーの監房はすぐに一種の書庫と化した」と書いたような生活を送ります。

 気晴らしに私はヨーロッパ文学の古典を読んだ。私は房内のベッドに寝ころがって、あたかも美食家が上等のワインを味わったり馥郁(ルビ:ふくいく)たる葉巻をくゆらせたりするときのような肉体的快感を感じながらそれらの著作を読んだ。それは最も楽しいひとときだった。こうした古典文学の勉強は、この時期の私のあらゆる政治評論の中に、題字(ルビ:エピグラフ)や引用としてその痕跡をとどめている。フランス長篇小説の大御所(ルビ:グラン・セニョール)たちに原書で親しむようになったのもこのときが初めてである。物語芸術は何よりもフランスの芸術である。

このような文学的素養のある革命家はそうそういるものではありません。トロツキーが『文学と革命』という本を書いたのもうなずけます。この自伝も、古典文学の影響を受けていることは間違いないと思います。


古参の職員に払った敬意――革命家の優れた人間性


そういう意味で、非常に文学的かつ印象的なエピソードを、最後にもうひとつご紹介しましょう。1917年の革命が成功した後のことです。クレムリン宮殿で働いていた古参の職員たちには、何代もの皇帝に仕えた老人もいました。そのなかでストゥピシンという男性がいたのです。

彼は足をひきずりながら廊下を倦(ルビ:う)むことなく歩き回り、ひじ掛け椅子を決まった場所に置き、埃(ルビ:ほこり)を払って、以前の秩序の外見を維持しようとしていた。昼食には、薄いキャベツ・スープとソバ粥が、鷲の紋章のついた宮廷用の皿に出された。「あの人、何やってるの。見て」とセリョージャ(*引用者注:トロツキ―の息子)が母親にささやいた。老人は、椅子の後ろを影のように動きながら、皿の向きを少しあちらに変えたりこちらに変えたりしていた。セリョージャが最初にこれに気づいた。つまり、皿の縁に描かれた双頭の鷲が、会食者の真向かいになければならないのであった。

双頭の鷲とはもちろん、革命で打倒されたロシア帝国の紋章です。クレムリン宮殿が革命政権のものになっても、長年皇帝に仕えてきた老人はその習慣を変えようとはしません。

ロマノフ王朝時代のやり方に固執する彼の態度に、狭量な革命家ならさっそく叱るところでしょう。しかし、レーニンもトロツキーもその老人を排除しないのです。

老人は最初にレーニンに強い共感を抱きますが、レーニンが別の建物に移ってからは、トロツキ―とその妻にその愛着を移しました。トロツキ―夫妻が秩序を重んじ、彼の努力に敬意を払っていたからです。

こういうエピソードは、じつに重要なものだと思います。老人の仕事は、皇帝や大公をもてなすことから、共産主義インターナショナルにつかえることに変わったのですが、その誠実な仕事ぶりは変わりません。トロツキーの家にもしばしば訪ねてきたと言います。

老人は1926年に病院で亡くなりますが、トロツキーの妻がお見舞いの品を贈ると、感謝の涙を流したと書かれています。皇帝の老僕が革命家たちと新しい関係を結ぶことができたのは、レーニンとトロツキーの深い人間性を象徴していると思えてなりません。

さて、トロツキーの運命は、1924年にレーニンが死ぬと暗転して、国内流刑に処せられ、挙句はソ連邦から追放されてしまいます。すべては権力を手にしたスターリンの策謀です。最後はメキシコのコヨアカンという場所で、スターリンの放った刺客にピッケルで頭を割られて死んでしまいます。この自伝が書かれて10年後のことです。

亡命地でのトロツキー(1937年、58歳ごろ)

悲劇的な死を遂げた革命家として記憶されていますが、この自伝を読むと、じつに人間味のある、しかも優れた人間だったことが分かると思います。

引用したエピソードは、どれも些細なもののように思えるかもしれませんが、こういうものこそ、自伝を読むうえで一番大切なものだと私は考えています。


豪快で痛快な『福翁自伝』――おすすめは現代語訳


さて、次は日本人の自伝です。じつに豪快な自伝なのですが、読んだ人はあまり多くないと思います。かくいう私も、齋藤孝さんの編訳による『現代語訳 福翁自伝』を読むまでは、『福翁自伝』は本棚に置いてはいたものの、ほとんど開いたことがありませんでした。たぶん、文語体が苦手だったことと、「福翁」の翁の字が、お爺さんの書いた上品な回顧録を連想させたからです。

ところがこの口語訳を読んで本当にびっくりしました。福澤諭吉(1835~1901)って、こんなにお茶目でチャーミングな人だったの、という驚きでした。齋藤孝さんも「はじめに」で、『福翁自伝』を読んでいる人が非常に少ないことを指摘しています。その理由として、「偉人の伝記」だという先入観を挙げています。

ところがその「はじめに」で齋藤さんが紹介するエピソードだけを読んでも、ひっくり返るほど驚いてしまうのです。

「便所でお札を踏み、神社のご神体を勝手に捨ててしまう」「人をだまして河豚(ルビ:ふぐ)を食わせてみる」「遊女のニセ手紙を書く」「子どもの頃からの大酒のみ」などなどのエピソードを福澤のざっくりとした語り口で読むのは無類に痛快です。

最初にこの文章を読んで、ホントかなと思いながら読み進むと、福澤諭吉という人が「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉を残した聖人君子のような人間ではなく、極めて人間的に面白い人物だということが分かって、痛快な読み物を読んでいる快感に酔うことができます。


幼少期から飲んでいた――福澤諭吉の飲酒の歴史


福澤諭吉の故郷は九州の中津(現・大分県中津市)でしたが、田舎であるため窮屈に思い、1854年(19歳のとき)に、兄について長崎に行き、蘭学の修行をします。当時のことですから、オランダ語をひたすらに勉強するのです。

やがていろいろな事情が重なり江戸を目指して出奔します。この道中が、また抱腹絶倒の面白さです。やがて大阪に着いて兄に会います。そこで兄に勧められ、緒方洪庵のところで蘭学を学び始めるのですが、その後、中津に戻った兄が急に亡くなり、家を継ぐことになります。

しかし、蘭学を極めたいという願いを母に伝えると、思い切りよく「うむ。よろしい」といわれ、再び大阪の緒方塾に戻っていきます。江戸時代の末期とはいえ、まだ儒教思想の強い時代に、母も思い切りがいいですね。

若かりし日の福澤諭吉(1962年、27歳ごろ)

その緒方塾での学生たちは、皆とても優秀ではありますが、反面、なかなか個性的な人間ばかりであったようです。福澤諭吉は「その中に私が飛び込んで活発に乱暴を働いた」と率直に語っています。

その第一に挙げているのが酒です。

 まず第一に私の悪いことを言えば、生まれつき酒を嗜(ルビ:たしな)むというのが一大欠点。成長した後には自らその悪いことを知っても、悪い習慣がすでに性質になってしまって、禁酒できなかったということも、あえて包み隠さず明白に自首します。自分の悪いことを公(ルビ:おおやけ)にするのはあまり面白くもないが、本当のことを言わねば事実談にならぬから、まず一とおり幼少以来の飲酒の歴史を語りましょう。
 そもそも私の酒癖は、成長するにしたがって飲み覚え、飲み慣れたというのではなくして、物心のついた時から自然に好きでした。
 今に記憶していることを言えば、幼少のころ、月代(ルビ:さかやき)を剃(ルビ:そ)るとき、頭の盆の窪のところを剃ると痛いから嫌がる。すると剃ってくれる母が「酒を飲ませるからここを剃らせろ」と言う。その酒が飲みたいばかりに、痛いのを我慢して泣かずに剃らせていたことはかすかに覚えています。天性の悪癖、まことに恥ずべきことです。

その後二十歳になるまで酒に目のない少年であったことを告白しています。あの福澤諭吉がそんなに酒が好きで、小さなころから飲んでいたなんてと驚いてしまいます。

これ以外にも、酒のエピソードは何回も出てきます。しかし、酒癖は悪くなかったようで、陽気な酒だったと自分で言っています。やがて緒方塾の塾長になりますが、その収入も酒代になったと告白しています。

塾生宛てに遊女が書いたように見せかけた手紙を偽造するエピソードも、抱腹絶倒の面白さですが、あの福澤諭吉がこんなことをしていたなんて、と、ちょっと信じられない気もしてくるほどです。

ただ、その勉強ぶりも凄まじいもので、兄の元にいた一年の間、読書に熱中して、眠くなれば机の上で突っ伏して寝るか、床の間の床側を枕にして寝るかしていたので、布団でまともに寝たことが一度もなかったことを書いています。それも福澤諭吉だけでなく、塾生も同じだったそうですから、当時の青年たちの蘭学に対する情熱はすさまじいものがあったのです。

緒方洪庵の塾(適塾)の建物(2008年撮影)
Photo by Reggaeman, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3826346による


こうして生まれた『西洋事情』――アメリカで受けた衝撃


しかしその後、福澤諭吉が江戸に行き一年が経ったころ、開港したばかりの横浜に行って衝撃を受けます。オランダ語を死に物狂いで勉強してきたけれど、横浜に暮らす外国人たちが話す言葉はまったく分からず、看板も読めない。これがどんなにショックだったかは容易に想像がつきます。すべてが英語かフランス語のようなのです。

彼は英語を学ぶ決心をします。しかし、蘭学を捨て英学に移る覚悟を決めてのち、オランダ語を学んだことは英語の学習に役に立つことに気づくのです。

やがて1860年に咸臨丸に乗ってアメリカに行くことになります。37日かかってサンフランシスコに着いた咸臨丸は、大歓迎されます。日本人はといえば、馬車を見ても初めてですから、驚くばかり。

 日本を出るまでは天下独歩、眼中人なし怖い者なしといばっていた豪快学生も、初めてアメリカに来て花嫁のように小さくなってしまったのは、自分でもおかしかった。

あの福澤諭吉でも、当時の日本からアメリカに行くと、すべての勝手が違うので萎縮してしまったのは、なんともおかしい話ではありませんか。アメリカに住むオランダ人の医者の家に招かれた福澤諭吉は、目を瞠(みは)ります。

そこでいかにも不審なことは、おかみさんが出て来て座敷にすわり込んでしきりに客の相手をする一方、ご亭主があれこれと走り回っている。これはおかしい。まるで日本とアベコベなことをしている。

男尊女卑の風習の中で育った当時の日本の青年にとって、これがどれほど衝撃的だったかはよく分かります。そしてこういうことから西洋というものを学んでいったこともよく理解できます。

江戸幕府の使節としてベルリン滞在中の福澤諭吉(1862年)

1861年から1862年にかけて、福澤諭吉は今度はヨーロッパに出かけました。大変な長旅でしたが、珍妙な出来事が次から次へと起きました。パリのホテルに滞在中の出来事です。

 またあるときに三使節中の一人が便所に行くのに、家来がボンボリを持ってお供をして、便所の二重の戸をあけっぱなしにして、殿様が奥の方で日本流に用をたすその間、家来は袴着用、殿様の腰の刀を持って、便所の外の廊下にひらき直ってちゃんと番をしている。けれども、その廊下は旅館中の公道で、人々が頻繁に行き来して、便所の内も外もガスの灯(ルビ:あか)りが昼より明るいというからたまらない。

通りかかった福澤諭吉は、驚きのあまり茫然として、まず戸を閉めてから、その家来に事情を説明するという、なんとも笑えないエピソードを書き残しています。そのころ福澤諭吉は、すでに英語で読むことも話すこともできるようになっていましたし、習慣の違いについても敏感になっていたのでしょう。

1862年、オランダにて(右から2番目が福澤諭吉)

この旅行中に、本だけでは調べられないことを学び、それを土台にして、帰国してから『西洋事情』を書くことになります。銀行や病院の仕組み、徴兵令、選挙法など、日本にいて原書を読んでいるだけではよく分からなかったことを、時間をかけて理解したことが役に立ちました。

さらには、現在まで続く慶応義塾を慶應4年に創立したときに、日本で初めて「授業料」を生徒一人一人から取り立てることにしたのです。これは当時としては画期的なことだったといいます。

まだまだ『福翁自伝』は続くのですが、ハイライトはこの辺で終わります。是非読んで欲しい自伝です。無理をすることなく現代語訳から入ると、面白さに圧倒されます。

この本は抄訳ですので、一部カットされている部分があります。ご興味が湧いた方は、原本も何種類もありますので、どうぞ手に取ってみてください。個人的には講談社学術文庫版がお勧めです。

そして同じように齋藤孝さんが手がけた『現代語訳 学問のすすめ』と『現代語訳 文明論之概略』を続けて読むことをお勧めします。自伝を読んでからこの二冊を読むと、理解が深くなることは間違いありません。

いろいろなエピソードを思い出しながら読むと、明治という時代を考え、現在の意味を問いなおす味わい深い読書になると思います。


「聖地アメリカ」の理想と現実――内村鑑三『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』


もう一つ、日本人の自伝をご紹介しましょう。古典新訳文庫の内村鑑三(1861~1930)の『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』がそれです。

既訳はもっと固いタイトルでしたが、若いころに内村鑑三が英語で書いた自叙伝なので、思い切って一人称を「ぼく」に変えました。ちなみに原題は『How I Became a Christian』です。ですからタイトルは直訳ですね。


じつは本書も、私自身、編集者として新訳の仕事で初めて通読したのですが、抜群に面白い内容でした。

武士の家に生まれた内村鑑三が、進学した札幌農学校で、半ば強制されるようにしてキリスト教に入信します。やがて真のキリスト教国を実際に見るためにアメリカに旅立ちます。

札幌農学校の校舎(1880年ごろ)

ちなみに内村鑑三は福澤諭吉と違って絶対禁酒主義者です。対照的な二人ですね。年齢は福澤諭吉の方が20歳以上も上ですが、幕末から明治という時代を生きたそれぞれの軌跡は大変に個性的です。

ただ内村鑑三の方が、よりアメリカを崇拝していたともいえます。まさに「ぼくはアメリカに聖地(傍点あり)のイメージを抱いていたのだ」という一節が、その頃の心情をよく表しています。

ところがサンフランシスコに到着してすぐに、仲間が財布をすられるという事態に直面します。シカゴでは駅のレストランで食事をすると、黒人のウェイターに話かけられ、教会の執事に紹介されます。日本でのキリスト教信仰について話すと、黒人の執事は興味深く聞いて、いろいろと世話を焼いてくれました。出発する時間がくると、彼は内村たちの旅行鞄を肩に担いで改札まで運んでくれます。

手を伸ばして荷物を受けとろうとすると、メソジストの執事は荷物を渡そうとせず、こちらに黒い手を差し出して言った。
「いくらかくださいよ」。

機関車のベルが鳴っているので仕方なく、50セント硬貨を渡して荷物を取り戻し、「ここでは親切でさえ売り買いされるのか」と皆で顔を見合わせて言ったことが書かれています。理想のアメリカ像が崩れていくのがよく伝わってきます。

しかし人間はこうやって大人になっていくのでしょう。私には、このエピソードが本書では一番忘れられないものとなりました。

米国アマースト大学在学中の内村鑑三(1887年、26歳ごろ)

その後のアメリカ滞在で、内村はキリスト教国のありのままを十分知って、日本に帰国します。本書を読むと、明治の青年が人生や宗教について深く考え、苦悩した軌跡がよく分かると思います。

本書が書かれたのは内村が31歳のときでしたが、その後もキリスト者としての活動は続きました。本書を読んでから、『代表的日本人』『後世への最大遺物・デンマルク国の話』を読むことをお勧めします。前者は英語で書かれ、「代表的日本人」に西郷隆盛や二宮尊徳、日蓮など、5人の人間を挙げています。

いま日本は大きな変化にさらされながら、方向性を見失っているように思えます。明治維新以来の西洋崇拝だけでは上手くやっていけないことに、すでにほとんどの人が気づいているのです。そういう時代に敢えて、これらの明治に書かれた自伝を読むことは、私たちのこれからと原点を考える上でも大切なことではないかと思います。


女子高生と『自由論』――自由の本当の意味に思いを致す


さて、先日、古典新訳文庫をたくさん置いている大きな書店に行くと、その棚から一冊の本をさっと抜き出して、女子高生がレジに向かいました。私は思わずタイトルを見てしまったのですが、それはミルの『自由論』でした。

こんなに若い世代が読んでくれるのだと思って、とてもうれしくなりました。それとともに、この国では「自由」という言葉はあっても、いまだに自由の意味をあまりにも考えないことに改めて残念に思いました。

柳父章(やなぶあきら)が書いた『翻訳語成立事情』という興味深い本があります。社会、個人、近代、自然、権利、自由、恋愛などの翻訳語を俎上(そじょう)に上げて、どのような経緯でこれらの言葉が世に流通するようになったのかを分析した優れた本です。

どれも翻訳語として成立した言葉であるわけですから、どの概念も本質的には日本にはなかったことになります。つまり近代以前は、「恋」と「愛」はあっても、「恋愛」はなかったということです。

「自由」という言葉自体は古くからあったようですが、西洋における重要な概念である「Liberty」や「freedom」の西欧語が、なぜ「自由」という翻訳後として定着したのか。

福澤諭吉は、「Liberty」の翻訳語として、「自由」はあまりよくない訳語だといいながらも、この語を使用したのです。それは「自由」という言葉がすでに民衆の中に流通していたことが理由でした。

この「自由」の項をぜひお読みいただきたいと思います。それを理解した上で『自由論』を読んでいただくと、いろいろと収穫の大きな読書になることと思います。

『ミル自伝』――『自由論』執筆時の妻との二人三脚


さて、『ミル自伝』には、この本が成立するまでの、じつに意外なエピソードが語られています。ちなみに『ミル自伝』は、みすず書房から刊行されている新訳が読みやすいのでお勧めです。

ミル(1816~1873)は、父親から猛烈な早期教育を受けています。3歳でギリシャ語を始め、8歳でラテン語を始めました。ですから、幼いころから信じられないくらいたくさんの古典を読んでいるのです。

そんなミルは、1851年に妻と結婚しました。妻には死亡した前夫があり、子どももありました。しかし、妻とは以前から長い交友関係があり、その夫の死後2年を経て結婚しています。

ジョン・スチュアート・ミル

長い交友関係というのが、本当はどういうものだったのかは分かりません。しかしそんなことは大きな問題ではないでしょう。妻の突然の死で、結婚生活そのものは7年半で終わりになりますが、ミルは妻の支えなしに『自由論』は完成しなかったと書いています。

 東インド会社を辞めるまでの二年間、私たちは二人で『自由論』に取り組んでいた。最初は短い論文にするつもりで、一八五四年に書き上げた。だが翌五五年の一月に考えを変える。古代ローマ遺跡カピトリーノの丘の石段を登っているとき、しっかりした書物にまとめようという気になったのだった。私は注意深く構成を考え入念に推敲を重ねたが、あれほど丁寧にやった著作はほかにない。いつものように二度書いた後、私たちはいつも原稿をそばに置き、暇さえあれば取り出して一字一句を子細に検討し批評を加えるというふうにして、全体を始めから練り直したものである。

そしてこんな風に、『自由論』執筆における妻の役割を評価しています。

妻はあらゆる考えを具体的な形で捉え、現実に応用する場面を想定できる。そして人間が実際にどう感じどう行動するかをよく知っているので、実行不能な考えの欠陥を見逃すことはまずなかった。
『自由論』は、私の名前で出版した著作の中で二人の協力が最も直接的に行われた、文字通り二人の共同作品である。一言半句にいたるまで二人で何度も読み返し、さまざまな角度から検討し、思想でも表現でも誤りを発見しては注意深く取り除いた。(中略)
『自由論』は、私の著作のどれよりも長く読まれ続けるのではないかと思う(ひょっとすると『論理学体系』はもっと長寿かも知れないが)。

亡き妻に対する思いが溢(あふ)れて、多少誇張があると感じるかもしれません。しかし、このような過程を経て、あの『自由論』が書かれたのだということを知るのは、とても興味深いと思います。

ミルには『女性の解放』という、今日に先駆けてフェミニズムを論じた著作もありますので、こちらもお勧めです。


登場人物の黒人奴隷や少年にはモデルがいた――裏話もたっぷりの『マーク・トウェイン自伝』


さて、次にご紹介するのは、あのマーク・トウェイン(1835~1910)の自伝の完訳です(『マーク・トウェイン自伝』)。これも読み始めたら止まりません。抱腹絶倒の面白さといっても過言ではありません。

なにせ作家の文章ですから、その筆使いのうまいこと。とても長い自伝ではありますが、訳者の勝浦吉雄さんが書いているように、どこからでも読むことが可能です。

私を一番魅了したのは、『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』のような有名な作品の、いわば裏話というべきものです。ちなみにこの二冊は古典新訳文庫で、土屋京子さんの大人向けの優れた新訳で読むことができますので、子どものころに読んだ方も、完全版でもう一度味読することをお勧めします。

トウェインは4歳のときにミズーリ州のハンニバルという小さな町に移りましたが、11~12歳になるまで、フロリダの田舎にある叔父の農場で、毎年2~3カ月を過ごしていたといいます。ここには黒人奴隷も20人近くいました。

 黒人たちはみんな僕ら白人の友達であり、同じ年頃の少年たちは、事実上、僕らの仲間だった。(中略)僕ら子供たちは、忠実で愛情深い親友・味方・相談相手として、中年奴隷の「アンクル・ダヌル」を尊敬していた。彼は黒人仲間で一番頭がよく、物わかりもよく、包容力に富み、気取るということがなく、実直そのものだった。私が小説を書く上で、彼は長い間、大いに協力してくれた。もう半世紀以上も会っていないが、その間も、心の中では実によく付き合ってきた。時には本名で、また、時には「ジム」という名前で彼を活躍させ、あちらこちらと引きずり回してきた――ハンニバルに連れて行ったり、筏でミシシッピ河を下らせてみたり、サハラ砂漠を気球に乗せて越えさせたりした。彼は生れつき忍耐力があり、友情に厚く、忠誠心に富んでいたので、こういう無理な要求にも耐えてくれた。

『ハックルベリー・フィンの冒険』に出てくるジムには、実際のモデルがいたのです。これを知ったときは、なるほどと思いました。そしてジムの描き方に込められたトウェインの共感と優しさも理解することができました。

黒人たちにもすぐれた資質があることを知り、深い愛情を抱くようになったのは、幼いころ叔父の農場で一緒に過ごしたからである。以来、六十年以上もの長い間、黒人に対する感情と評価は時の試練を経てきたが、いささかも色あせることがなく、黒人を信頼する私の気持は今も昔も全く同じで、彼らとの交際を歓迎している。

子どものころ、奴隷制度が当たり前だった時代に、これはとても率直な告白だと思います。

トウェインの家にいたサンデーという奴隷少年が、一日中口笛を吹いたり歌を歌ったり笑ったりするのに業を煮やしたトウェインが、母に抗議すると、母は眼に涙を浮かべて唇を震わせながら、こういう言います。

「かわいそうに、あの子がああやって歌ってる時はね、つらいこと悲しいことを忘れてるんだよ。そう思うと、母さんはホッとしてんの。(後略)」

この母は、『トム・ソーヤーの冒険』のポリー伯母さんのように、何度も作品に登場させたと告白しています。同じように、このサンデーという黒人奴隷の少年にも、それこそ『トム・ソーヤーの冒険』で塀を白ペンキで塗らせようとしましたが、うまくいかなかったと書いています。『トム・ソーヤーの冒険』の縮約版は小学生の時の愛読書でしたので、ここを読んだときは、そうだったのかと思いました。

岩波少年文庫版『トム・ソーヤーの冒険(上)』の表紙


そして、『トム・ソーヤーの冒険』のあのインジャン・ジョーも実在したのです。実在の方のインジャン・ジョーは、洞窟のなかで道に迷い、蝙蝠(こうもり)がいなかったら餓死していたかもしれない状況に置かれたことがありました。彼はそのときのことをトウェインに残らず話しました。

『トム・ソーヤーの冒険』の中では、彼を餓死させましたが、それはあくまで小説の中の出来事で、現実にあったことではないとトウェインは書いています。これもとても興味深いエピソードです。

「ハックルベリー・フィン」にもモデルがいたことが分かります。トム・ブランケンシップという少年です。

『ハックルベリ・フィンの冒険』ではトム・ブランケンシップをあるがままに描いたつもりである。彼は無知な少年で、風呂に入ったこともなければ腹いっぱい食べたこともなかった。だが、誰にも負けないぐらい素晴らしい心を持っていた。


『トム・ソーヤーの冒険』は2年も執筆がストップしていた


この自伝にはもちろん、マーク・トウェインの波乱に満ちた人生も克明に描かれています。

1847年、12歳のころに父に死なれると、一家の生活は苦しくなります。すぐに学校をやめさせられて、印刷所の住み込み見習工に出されます。衣食付きで無給という待遇でした。

15歳のころのマーク・トウェイン

それから水先案内人の資格を取り、1858年には定期船の舵手(だしゅ)を勤めています。なんとその後は、西部のゴールドラッシュの熱気に当てられて銀鉱を掘り当てようとしたりと、かなり起伏の多い人生を歩んだことがこの自伝には率直に書かれています。

作家としても出版のトラブルに見舞われ、1866年には講演家としてスタートを切ります。当時は「文化講演会」というのが大はやりしていたらしいのです。第45章では、何度も投機に失敗したことも率直に書いています。

小説家として19世紀アメリカ文学を代表する存在でありながら、なかなか波乱万丈の生き方を変えられないのがトウェインの面白いところです。

後半部分で『トム・ソーヤーの冒険』について意外なエピソードが書かれています。

『トム・ソーヤーの冒険』のちょうど真ん中あたりを書いている時だった。原稿で四百ページまでくると、物語は突如断固として歩みを止め、その先は一歩も進もうとしない。来る日も来る日も頑として進もうとしない。がっかりするやら悲しくなるやら茫然とするばかり。(中略)そのわけはいたって簡単だった――私のタンクが干上がって空っぽだった。材料の貯えが尽きたのだ。物語は材料がなくては先へ進めない。何もないのに動かせないというわけだった。
 その原稿は二年ほど机の抽出しに入れておいたあと、ある日取り出して、最後に書いた一章に眼を通してみて大発見をした。タンクが枯渇している時は、放っておけばやがてまた一杯になる。眠っている間に――別の仕事に取り組んでいる間にも、知らないうちに有益な脳作用が進むのである。今や書く材料はたくさんあり、物語はどんどん進んで、何の苦もなく仕上がってしまった。

これを読んで「へー、そうだったんだ」と思うのは私だけではないでしょう。これは大変率直な告白だと思います。あの『トム・ソーヤーの冒険』が2年も遅滞していたなんて。編集者が私なら、きっと催促を重ねていただろうななどと思ってしまいます。

しかし、一気に書かれた作品とばかり思っていた私は、意外の感に打たれました。そして率直にこういうことを書くトウェインの姿勢に好感を持ちました。それでいてトゥエインは、書くことは仕事ではない。楽しいので気晴らしにやるビリヤードのようなものだと、堂々と宣言しています。

1867年、32歳ごろのマーク・トウェイン

しかし、家族のたび重なる死に打ちのめされてもいます。最初に長男を1年10か月で失い、後には病気で長女をなくし、最愛の妻オリヴィアも失います。三女も病のために亡くなります。残ったのはヨーロッパに暮らす次女だけでした。

この三女の死でこの自伝は終わります。最晩年の作品は、マーク・トウェインらしくない厭世的な作風だとよくいわれますが、それもこのように続いた家族の死を思えば、仕方がないのかなとも思います。


ヘレン・ケラーの自伝に登場するトゥエイン


さて、トウェインは『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』に登場します。この自伝自体もとても深い内容を持った作品で、是非一読をお勧めしたいと思います。あのヘレン・ケラー(1880~1968)かと、分かった気にならずに読んでほしい本です。

この本に登場するマーク・トウェインをご紹介して、この回を終わりにしましょう。ヘレン・ケラーは、作家の友達がたくさんいた親友夫妻からトウェインを紹介されたのです。

マーク・トウェイン氏の口に触れさせてもらい、唇から直接、面白い話を一つ二つ読ませてもらったこともある。彼の考え、話し方、行動は、すべてトウェイン流の独自のものだ。私はトウェイン氏と握手をすると、その目の輝きを手に感じる。そしてなんとも言えないとぼけた声で皮肉な思想を語っている時でさえ、やさしさと思いやりの心を失わない人なのである。

自伝では様々な自己韜晦(とうかい)を書き連ねているトウェインですが、ヘレン・ケラーが描いたトウェイン像こそ本物なのでしょう。


・・・・・・・・・・

第8回の読書ガイド


『レーニン』トロツキー著、森田成也訳、光文社古典新訳文庫
『永続革命論』トロツキー著、森田成也訳、光文社古典新訳文庫
『ニーチェからスターリンへ――トロツキー人物論集 1900-1939』トロツキー著、森田成也訳、光文社古典新訳文庫
『ロシア革命とは何か――ロシア革命論集』トロツキー著、森田成也訳、光文社古典新訳文庫
『武装せる予言者・トロツキー』アイザック・ドイッチャー著、田中西二郎・橋本福夫・山西英一訳、新潮社
『武力なき予言者・トロツキー』アイザック・ドイッチャー著、田中西二郎・橋本福夫・山西英一訳、新潮社
『追放された予言者・トロツキー』アイザック・ドイッチャー著、山西英一訳、新潮社
『わが生涯 上・下』トロツキ―著、上・森田成也訳、下・志田昇訳、岩波文庫
『レーニンの思い出』クルプスカヤ著、松本滋・藤川覚訳、大月書店
『現代語訳 福翁自伝』福澤諭吉著、齋藤孝編訳、ちくま新書
『現代語訳 学問のすすめ』福澤諭吉著、齋藤孝訳、ちくま新書
『現代語訳 文明論之概略』福澤諭吉著、齋藤孝訳、ちくま文庫
『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』内村鑑三著、河野純治訳、光文社古典新訳文庫
『代表的日本人』内村鑑三著、鈴木範久訳、岩波文庫
『後世への最大遺物・デンマルク国の話』内村鑑三著、岩波文庫
『自由論』ミル著、斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫
『翻訳語成立事情』柳父章著、岩波新書
『ミル自伝』ミル著、村井章子訳、みすず書房
『女性の解放』J.S.ミル著、大内兵衛・大内節子訳、岩波文庫
『マーク・トウェイン自伝』マーク・トウェイン著、勝浦吉雄訳、筑摩書房
『ハックルベリー・フィンの冒険』トウェイン著、土屋京子訳、光文社古典新訳文庫
『トム・ソーヤーの冒険 上・下』トウェイン著、土屋京子訳、光文社古典新訳文庫
『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』ヘレン・ケラー著、小倉慶郎訳、新潮文庫

・・・・・・・・・・

【著者プロフィール】

駒井 稔(こまい・みのる)
1956 年横浜生まれ。慶應義塾大学文学部卒。'79 年光文社入社。広告部勤務を経て、'81 年「週刊宝石」創刊に参加。ニュースから連載物まで、さまざまなジャンルの記事を担当する。'97 年に翻訳編集部に異動。2004 年に編集長。2 年の準備期間を経て'06 年9 月に古典新訳文庫を創刊。10 年にわたり編集長を務めた。著書に『いま、息をしている言葉で。――「光文社古典新訳文庫」誕生秘話』(而立書房)、編著に『文学こそ最高の教養である』(光文社新書)、『私が本からもらったもの――翻訳者の読書論』(書肆侃侃房)がある。現在、ひとり出版社「合同会社駒井組」代表。

・・・・・・・・・・

前回はこちら

バックナンバーはこちら


光文社新書ではTwitterで毎日情報を発信しています。ぜひフォローしてみてください!