思想家、革命家、作家、冒険家たちの素顔に触れる――【第8回】自伝文学の読書論:トロツキー、福澤諭吉、内村鑑三、ミル、トウェイン…etc.|駒井稔
【第8回】自伝文学の読書論
自伝を読む楽しみ――歴史に残る傑作を紹介
誰でも本が一冊書けるとは、よくいわれます。それは自分史、つまり自伝です。今回はその中でも歴史に残る傑作をご紹介しましょう。
私自身がなによりも、自伝を読むのが一番の楽しみなのです。革命家や思想家、そしてもちろん文学者などの自伝を読むと、とっつきにくいなと感じていた著作も、急に親しみを覚えたりするのが不思議です。些細なエピソードに思えることが、固いイメージの思想家の回想に出てくると、不思議と親近感が湧いてきます。
皆さんにもそんな経験があると思います。編集者としても、難しい内容の本を編集する時のいい意味での息抜きに、自伝を読むことがあります。癒されるんですよね。
ということで、今回も革命家から始めることにしましょう。
最高傑作、トロツキーの『わが生涯』
革命家の名前はトロツキー(1879~1940)。今の若い世代には馴染みがないかもしれませんが、ロシア革命をレーニンと共に成功に導いた革命家です。
少し前までは、トロツキーは政治的な文脈で語られることが多くありました。しかし、21世紀も20年を過ぎ、ロシア革命から100年という時間を経た現在では、これは古典といってもいい書物でしょう。それどころか、自伝文学として、最高傑作の一つだと個人的には思っています。
20世紀最大の出来事はロシア革命であると思います。そのことを理解することなく、21世紀の現在を考えることはできないのではないでしょうか。この本は上下巻で1000ページを超す大著です。しかし、ひるむことはありません。トロツキーの筆はまったく遅滞することなく、自らの出自から49歳までの革命のために生きた歴史を、雄弁に語って倦(う)むこと知りません。スピード感あふれる文体の魅力は、この翻訳から十分に伝わってきます。
ちなみにこの『わが生涯』の上巻を新訳した森田成也さんは、古典新訳文庫でトロツキーの著作を4作、新訳しています。『レーニン』『永続革命論』『ニーチェからスターリンへ――トロツキー人物論集【1900-1939】』『ロシア革命とは何か――トロツキー革命論集』がそれです。
いずれもとても読みやすい新訳ですので、この紹介を読んでご興味をお持ちになったら、是非手に取ってみてください。
私自身もソ連に2回旅行しています。1988年の春と冬です。最近亡くなったゴルバチョフが、ペレストロイカを掲げて颯爽と登場したころです。トロツキーに関しては、古典的な名著といわれるアイザック・ドイッチャーのトロツキーの評伝三部作は、すでに読んでいましたので、いろいろと感慨深い旅になりました。
ソ連崩壊後の1992年の夏にも、ロシア人の家にホームステイしました。経済が崩壊した余波を受けて、百貨店の出口で困窮した若者たちが、それぞれに自分の靴や日用品などを売るために長蛇の列を作っているのを見て、痛々しく思ったことをよく覚えています。そしてあちこちに引き倒されたレーニン像がありました。
ロシア革命のために流刑地から脱走
さて、トロツキーの話に戻りましょう。南ウクライナのそれなりに豊かな家庭に生まれたトロツキーの父は、農民でした。後には大規模な自営農となりましたが、父母は文字通り働きづめの生涯を送りました。
トロツキー自身が序文で書いている自分の人生の要約を引用しましょう。
筋金入りの革命家というイメージを抱くのも当然です。その通りなのですから。しかし、このトロツキーの人間臭いエピソードには、初読の時から私を強く魅了した部分があります。
最初の流刑でトロツキーは女性革命家と結婚するのですが、革命のために脱走をしなければならないと決心します。その時すでに二人の娘がいました。しかも下の娘は生後4カ月です。
シベリアでの生活は過酷です。脱走すれば、妻に過重な負担がかかることは当然予想されます。しかし、彼女はたった一言でこの問題に結論を出します。
今日の目から見ると、トロツキーの男のわがままのように思えるかもしれませんが、当時のロシアの革命家たちの理想主義とはこういうものだったのでしょう。人間がこのような気高い振る舞いをする可能性を、ロシア革命の歴史を学んでいると痛感させられることがあります。それは極めて文学的な理解かもしれませんが、とても重要なことだと思います。
トロツキーはその後、二度目の結婚をしますが、最初の妻との思想的なつながりと友情はずっと続いていくことになるのです。
トロツキーの方向音痴――人間臭いエピソード
1902年10月にロンドンに着いたトロツキーは、さっそくレーニンのアパートを訪ねます。ドアを開けてくれたのはレーニンの妻・クルプスカヤでした。
クルプスカヤの書いた『レーニンの思い出』という本にも、トロツキーの来訪について触れている部分があります。ちなみにこの本も、妻の目から見たレーニンという革命家の実像を描いたとても興味深い内容ですので、お勧めの一冊です。
トロツキーがレーニンのアパートを訪れたとき、レーニンはまだベッドの中にいました。レーニンとの最初の会見はこのような状況で行われたのです。それから二人は様々な問題について語り合う日々が続くのですが、私が感銘を受けたのは、もっと些細なエピソードです。
ここを読んだときの私の驚きと共感は大きなものでした。じつは私も方向感覚がまるでないのです。いまだに道に迷うことが多くてよく笑われます。筋金入りの革命家であるトロツキーが道に迷っている姿は印象的です。
個人的には、こういうところが、自伝文学の読みどころではないかと思うのです。その人物の書いた理論的著作や文学作品にはない人間らしさに、親しみを覚えるのです。『永続革命論』を書いたトロツキーが方向音痴なんて、誰が想像するでしょうか。それをレーニン夫妻がからかう図もいいではないですか。
第15章の「裁判、流刑、脱走」という章では、1905年12月に逮捕されたあとに、同房にいた同志が「トロツキーの監房はすぐに一種の書庫と化した」と書いたような生活を送ります。
このような文学的素養のある革命家はそうそういるものではありません。トロツキーが『文学と革命』という本を書いたのもうなずけます。この自伝も、古典文学の影響を受けていることは間違いないと思います。
古参の職員に払った敬意――革命家の優れた人間性
そういう意味で、非常に文学的かつ印象的なエピソードを、最後にもうひとつご紹介しましょう。1917年の革命が成功した後のことです。クレムリン宮殿で働いていた古参の職員たちには、何代もの皇帝に仕えた老人もいました。そのなかでストゥピシンという男性がいたのです。
双頭の鷲とはもちろん、革命で打倒されたロシア帝国の紋章です。クレムリン宮殿が革命政権のものになっても、長年皇帝に仕えてきた老人はその習慣を変えようとはしません。
ロマノフ王朝時代のやり方に固執する彼の態度に、狭量な革命家ならさっそく叱るところでしょう。しかし、レーニンもトロツキーもその老人を排除しないのです。
老人は最初にレーニンに強い共感を抱きますが、レーニンが別の建物に移ってからは、トロツキ―とその妻にその愛着を移しました。トロツキ―夫妻が秩序を重んじ、彼の努力に敬意を払っていたからです。
こういうエピソードは、じつに重要なものだと思います。老人の仕事は、皇帝や大公をもてなすことから、共産主義インターナショナルにつかえることに変わったのですが、その誠実な仕事ぶりは変わりません。トロツキーの家にもしばしば訪ねてきたと言います。
老人は1926年に病院で亡くなりますが、トロツキーの妻がお見舞いの品を贈ると、感謝の涙を流したと書かれています。皇帝の老僕が革命家たちと新しい関係を結ぶことができたのは、レーニンとトロツキーの深い人間性を象徴していると思えてなりません。
さて、トロツキーの運命は、1924年にレーニンが死ぬと暗転して、国内流刑に処せられ、挙句はソ連邦から追放されてしまいます。すべては権力を手にしたスターリンの策謀です。最後はメキシコのコヨアカンという場所で、スターリンの放った刺客にピッケルで頭を割られて死んでしまいます。この自伝が書かれて10年後のことです。
悲劇的な死を遂げた革命家として記憶されていますが、この自伝を読むと、じつに人間味のある、しかも優れた人間だったことが分かると思います。
引用したエピソードは、どれも些細なもののように思えるかもしれませんが、こういうものこそ、自伝を読むうえで一番大切なものだと私は考えています。
豪快で痛快な『福翁自伝』――おすすめは現代語訳
さて、次は日本人の自伝です。じつに豪快な自伝なのですが、読んだ人はあまり多くないと思います。かくいう私も、齋藤孝さんの編訳による『現代語訳 福翁自伝』を読むまでは、『福翁自伝』は本棚に置いてはいたものの、ほとんど開いたことがありませんでした。たぶん、文語体が苦手だったことと、「福翁」の翁の字が、お爺さんの書いた上品な回顧録を連想させたからです。
ところがこの口語訳を読んで本当にびっくりしました。福澤諭吉(1835~1901)って、こんなにお茶目でチャーミングな人だったの、という驚きでした。齋藤孝さんも「はじめに」で、『福翁自伝』を読んでいる人が非常に少ないことを指摘しています。その理由として、「偉人の伝記」だという先入観を挙げています。
ところがその「はじめに」で齋藤さんが紹介するエピソードだけを読んでも、ひっくり返るほど驚いてしまうのです。
最初にこの文章を読んで、ホントかなと思いながら読み進むと、福澤諭吉という人が「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉を残した聖人君子のような人間ではなく、極めて人間的に面白い人物だということが分かって、痛快な読み物を読んでいる快感に酔うことができます。
幼少期から飲んでいた――福澤諭吉の飲酒の歴史
福澤諭吉の故郷は九州の中津(現・大分県中津市)でしたが、田舎であるため窮屈に思い、1854年(19歳のとき)に、兄について長崎に行き、蘭学の修行をします。当時のことですから、オランダ語をひたすらに勉強するのです。
やがていろいろな事情が重なり江戸を目指して出奔します。この道中が、また抱腹絶倒の面白さです。やがて大阪に着いて兄に会います。そこで兄に勧められ、緒方洪庵のところで蘭学を学び始めるのですが、その後、中津に戻った兄が急に亡くなり、家を継ぐことになります。
しかし、蘭学を極めたいという願いを母に伝えると、思い切りよく「うむ。よろしい」といわれ、再び大阪の緒方塾に戻っていきます。江戸時代の末期とはいえ、まだ儒教思想の強い時代に、母も思い切りがいいですね。
その緒方塾での学生たちは、皆とても優秀ではありますが、反面、なかなか個性的な人間ばかりであったようです。福澤諭吉は「その中に私が飛び込んで活発に乱暴を働いた」と率直に語っています。
その第一に挙げているのが酒です。
その後二十歳になるまで酒に目のない少年であったことを告白しています。あの福澤諭吉がそんなに酒が好きで、小さなころから飲んでいたなんてと驚いてしまいます。
これ以外にも、酒のエピソードは何回も出てきます。しかし、酒癖は悪くなかったようで、陽気な酒だったと自分で言っています。やがて緒方塾の塾長になりますが、その収入も酒代になったと告白しています。
塾生宛てに遊女が書いたように見せかけた手紙を偽造するエピソードも、抱腹絶倒の面白さですが、あの福澤諭吉がこんなことをしていたなんて、と、ちょっと信じられない気もしてくるほどです。
ただ、その勉強ぶりも凄まじいもので、兄の元にいた一年の間、読書に熱中して、眠くなれば机の上で突っ伏して寝るか、床の間の床側を枕にして寝るかしていたので、布団でまともに寝たことが一度もなかったことを書いています。それも福澤諭吉だけでなく、塾生も同じだったそうですから、当時の青年たちの蘭学に対する情熱はすさまじいものがあったのです。
こうして生まれた『西洋事情』――アメリカで受けた衝撃
しかしその後、福澤諭吉が江戸に行き一年が経ったころ、開港したばかりの横浜に行って衝撃を受けます。オランダ語を死に物狂いで勉強してきたけれど、横浜に暮らす外国人たちが話す言葉はまったく分からず、看板も読めない。これがどんなにショックだったかは容易に想像がつきます。すべてが英語かフランス語のようなのです。
彼は英語を学ぶ決心をします。しかし、蘭学を捨て英学に移る覚悟を決めてのち、オランダ語を学んだことは英語の学習に役に立つことに気づくのです。
やがて1860年に咸臨丸に乗ってアメリカに行くことになります。37日かかってサンフランシスコに着いた咸臨丸は、大歓迎されます。日本人はといえば、馬車を見ても初めてですから、驚くばかり。
あの福澤諭吉でも、当時の日本からアメリカに行くと、すべての勝手が違うので萎縮してしまったのは、なんともおかしい話ではありませんか。アメリカに住むオランダ人の医者の家に招かれた福澤諭吉は、目を瞠(みは)ります。
男尊女卑の風習の中で育った当時の日本の青年にとって、これがどれほど衝撃的だったかはよく分かります。そしてこういうことから西洋というものを学んでいったこともよく理解できます。
1861年から1862年にかけて、福澤諭吉は今度はヨーロッパに出かけました。大変な長旅でしたが、珍妙な出来事が次から次へと起きました。パリのホテルに滞在中の出来事です。
通りかかった福澤諭吉は、驚きのあまり茫然として、まず戸を閉めてから、その家来に事情を説明するという、なんとも笑えないエピソードを書き残しています。そのころ福澤諭吉は、すでに英語で読むことも話すこともできるようになっていましたし、習慣の違いについても敏感になっていたのでしょう。
この旅行中に、本だけでは調べられないことを学び、それを土台にして、帰国してから『西洋事情』を書くことになります。銀行や病院の仕組み、徴兵令、選挙法など、日本にいて原書を読んでいるだけではよく分からなかったことを、時間をかけて理解したことが役に立ちました。
さらには、現在まで続く慶応義塾を慶應4年に創立したときに、日本で初めて「授業料」を生徒一人一人から取り立てることにしたのです。これは当時としては画期的なことだったといいます。
まだまだ『福翁自伝』は続くのですが、ハイライトはこの辺で終わります。是非読んで欲しい自伝です。無理をすることなく現代語訳から入ると、面白さに圧倒されます。
この本は抄訳ですので、一部カットされている部分があります。ご興味が湧いた方は、原本も何種類もありますので、どうぞ手に取ってみてください。個人的には講談社学術文庫版がお勧めです。
そして同じように齋藤孝さんが手がけた『現代語訳 学問のすすめ』と『現代語訳 文明論之概略』を続けて読むことをお勧めします。自伝を読んでからこの二冊を読むと、理解が深くなることは間違いありません。
いろいろなエピソードを思い出しながら読むと、明治という時代を考え、現在の意味を問いなおす味わい深い読書になると思います。
「聖地アメリカ」の理想と現実――内村鑑三『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』
もう一つ、日本人の自伝をご紹介しましょう。古典新訳文庫の内村鑑三(1861~1930)の『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』がそれです。
既訳はもっと固いタイトルでしたが、若いころに内村鑑三が英語で書いた自叙伝なので、思い切って一人称を「ぼく」に変えました。ちなみに原題は『How I Became a Christian』です。ですからタイトルは直訳ですね。
じつは本書も、私自身、編集者として新訳の仕事で初めて通読したのですが、抜群に面白い内容でした。
武士の家に生まれた内村鑑三が、進学した札幌農学校で、半ば強制されるようにしてキリスト教に入信します。やがて真のキリスト教国を実際に見るためにアメリカに旅立ちます。
ちなみに内村鑑三は福澤諭吉と違って絶対禁酒主義者です。対照的な二人ですね。年齢は福澤諭吉の方が20歳以上も上ですが、幕末から明治という時代を生きたそれぞれの軌跡は大変に個性的です。
ただ内村鑑三の方が、よりアメリカを崇拝していたともいえます。まさに「ぼくはアメリカに聖地(傍点あり)のイメージを抱いていたのだ」という一節が、その頃の心情をよく表しています。
ところがサンフランシスコに到着してすぐに、仲間が財布をすられるという事態に直面します。シカゴでは駅のレストランで食事をすると、黒人のウェイターに話かけられ、教会の執事に紹介されます。日本でのキリスト教信仰について話すと、黒人の執事は興味深く聞いて、いろいろと世話を焼いてくれました。出発する時間がくると、彼は内村たちの旅行鞄を肩に担いで改札まで運んでくれます。
機関車のベルが鳴っているので仕方なく、50セント硬貨を渡して荷物を取り戻し、「ここでは親切でさえ売り買いされるのか」と皆で顔を見合わせて言ったことが書かれています。理想のアメリカ像が崩れていくのがよく伝わってきます。
しかし人間はこうやって大人になっていくのでしょう。私には、このエピソードが本書では一番忘れられないものとなりました。
その後のアメリカ滞在で、内村はキリスト教国のありのままを十分知って、日本に帰国します。本書を読むと、明治の青年が人生や宗教について深く考え、苦悩した軌跡がよく分かると思います。
本書が書かれたのは内村が31歳のときでしたが、その後もキリスト者としての活動は続きました。本書を読んでから、『代表的日本人』『後世への最大遺物・デンマルク国の話』を読むことをお勧めします。前者は英語で書かれ、「代表的日本人」に西郷隆盛や二宮尊徳、日蓮など、5人の人間を挙げています。
いま日本は大きな変化にさらされながら、方向性を見失っているように思えます。明治維新以来の西洋崇拝だけでは上手くやっていけないことに、すでにほとんどの人が気づいているのです。そういう時代に敢えて、これらの明治に書かれた自伝を読むことは、私たちのこれからと原点を考える上でも大切なことではないかと思います。
女子高生と『自由論』――自由の本当の意味に思いを致す
さて、先日、古典新訳文庫をたくさん置いている大きな書店に行くと、その棚から一冊の本をさっと抜き出して、女子高生がレジに向かいました。私は思わずタイトルを見てしまったのですが、それはミルの『自由論』でした。
こんなに若い世代が読んでくれるのだと思って、とてもうれしくなりました。それとともに、この国では「自由」という言葉はあっても、いまだに自由の意味をあまりにも考えないことに改めて残念に思いました。
柳父章(やなぶあきら)が書いた『翻訳語成立事情』という興味深い本があります。社会、個人、近代、自然、権利、自由、恋愛などの翻訳語を俎上(そじょう)に上げて、どのような経緯でこれらの言葉が世に流通するようになったのかを分析した優れた本です。
どれも翻訳語として成立した言葉であるわけですから、どの概念も本質的には日本にはなかったことになります。つまり近代以前は、「恋」と「愛」はあっても、「恋愛」はなかったということです。
「自由」という言葉自体は古くからあったようですが、西洋における重要な概念である「Liberty」や「freedom」の西欧語が、なぜ「自由」という翻訳後として定着したのか。
福澤諭吉は、「Liberty」の翻訳語として、「自由」はあまりよくない訳語だといいながらも、この語を使用したのです。それは「自由」という言葉がすでに民衆の中に流通していたことが理由でした。
この「自由」の項をぜひお読みいただきたいと思います。それを理解した上で『自由論』を読んでいただくと、いろいろと収穫の大きな読書になることと思います。
『ミル自伝』――『自由論』執筆時の妻との二人三脚
さて、『ミル自伝』には、この本が成立するまでの、じつに意外なエピソードが語られています。ちなみに『ミル自伝』は、みすず書房から刊行されている新訳が読みやすいのでお勧めです。
ミル(1816~1873)は、父親から猛烈な早期教育を受けています。3歳でギリシャ語を始め、8歳でラテン語を始めました。ですから、幼いころから信じられないくらいたくさんの古典を読んでいるのです。
そんなミルは、1851年に妻と結婚しました。妻には死亡した前夫があり、子どももありました。しかし、妻とは以前から長い交友関係があり、その夫の死後2年を経て結婚しています。
長い交友関係というのが、本当はどういうものだったのかは分かりません。しかしそんなことは大きな問題ではないでしょう。妻の突然の死で、結婚生活そのものは7年半で終わりになりますが、ミルは妻の支えなしに『自由論』は完成しなかったと書いています。
そしてこんな風に、『自由論』執筆における妻の役割を評価しています。
亡き妻に対する思いが溢(あふ)れて、多少誇張があると感じるかもしれません。しかし、このような過程を経て、あの『自由論』が書かれたのだということを知るのは、とても興味深いと思います。
ミルには『女性の解放』という、今日に先駆けてフェミニズムを論じた著作もありますので、こちらもお勧めです。
登場人物の黒人奴隷や少年にはモデルがいた――裏話もたっぷりの『マーク・トウェイン自伝』
さて、次にご紹介するのは、あのマーク・トウェイン(1835~1910)の自伝の完訳です(『マーク・トウェイン自伝』)。これも読み始めたら止まりません。抱腹絶倒の面白さといっても過言ではありません。
なにせ作家の文章ですから、その筆使いのうまいこと。とても長い自伝ではありますが、訳者の勝浦吉雄さんが書いているように、どこからでも読むことが可能です。
私を一番魅了したのは、『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』のような有名な作品の、いわば裏話というべきものです。ちなみにこの二冊は古典新訳文庫で、土屋京子さんの大人向けの優れた新訳で読むことができますので、子どものころに読んだ方も、完全版でもう一度味読することをお勧めします。
トウェインは4歳のときにミズーリ州のハンニバルという小さな町に移りましたが、11~12歳になるまで、フロリダの田舎にある叔父の農場で、毎年2~3カ月を過ごしていたといいます。ここには黒人奴隷も20人近くいました。
『ハックルベリー・フィンの冒険』に出てくるジムには、実際のモデルがいたのです。これを知ったときは、なるほどと思いました。そしてジムの描き方に込められたトウェインの共感と優しさも理解することができました。
子どものころ、奴隷制度が当たり前だった時代に、これはとても率直な告白だと思います。
トウェインの家にいたサンデーという奴隷少年が、一日中口笛を吹いたり歌を歌ったり笑ったりするのに業を煮やしたトウェインが、母に抗議すると、母は眼に涙を浮かべて唇を震わせながら、こういう言います。
この母は、『トム・ソーヤーの冒険』のポリー伯母さんのように、何度も作品に登場させたと告白しています。同じように、このサンデーという黒人奴隷の少年にも、それこそ『トム・ソーヤーの冒険』で塀を白ペンキで塗らせようとしましたが、うまくいかなかったと書いています。『トム・ソーヤーの冒険』の縮約版は小学生の時の愛読書でしたので、ここを読んだときは、そうだったのかと思いました。
そして、『トム・ソーヤーの冒険』のあのインジャン・ジョーも実在したのです。実在の方のインジャン・ジョーは、洞窟のなかで道に迷い、蝙蝠(こうもり)がいなかったら餓死していたかもしれない状況に置かれたことがありました。彼はそのときのことをトウェインに残らず話しました。
『トム・ソーヤーの冒険』の中では、彼を餓死させましたが、それはあくまで小説の中の出来事で、現実にあったことではないとトウェインは書いています。これもとても興味深いエピソードです。
「ハックルベリー・フィン」にもモデルがいたことが分かります。トム・ブランケンシップという少年です。
『トム・ソーヤーの冒険』は2年も執筆がストップしていた
この自伝にはもちろん、マーク・トウェインの波乱に満ちた人生も克明に描かれています。
1847年、12歳のころに父に死なれると、一家の生活は苦しくなります。すぐに学校をやめさせられて、印刷所の住み込み見習工に出されます。衣食付きで無給という待遇でした。
それから水先案内人の資格を取り、1858年には定期船の舵手(だしゅ)を勤めています。なんとその後は、西部のゴールドラッシュの熱気に当てられて銀鉱を掘り当てようとしたりと、かなり起伏の多い人生を歩んだことがこの自伝には率直に書かれています。
作家としても出版のトラブルに見舞われ、1866年には講演家としてスタートを切ります。当時は「文化講演会」というのが大はやりしていたらしいのです。第45章では、何度も投機に失敗したことも率直に書いています。
小説家として19世紀アメリカ文学を代表する存在でありながら、なかなか波乱万丈の生き方を変えられないのがトウェインの面白いところです。
後半部分で『トム・ソーヤーの冒険』について意外なエピソードが書かれています。
これを読んで「へー、そうだったんだ」と思うのは私だけではないでしょう。これは大変率直な告白だと思います。あの『トム・ソーヤーの冒険』が2年も遅滞していたなんて。編集者が私なら、きっと催促を重ねていただろうななどと思ってしまいます。
しかし、一気に書かれた作品とばかり思っていた私は、意外の感に打たれました。そして率直にこういうことを書くトウェインの姿勢に好感を持ちました。それでいてトゥエインは、書くことは仕事ではない。楽しいので気晴らしにやるビリヤードのようなものだと、堂々と宣言しています。
しかし、家族のたび重なる死に打ちのめされてもいます。最初に長男を1年10か月で失い、後には病気で長女をなくし、最愛の妻オリヴィアも失います。三女も病のために亡くなります。残ったのはヨーロッパに暮らす次女だけでした。
この三女の死でこの自伝は終わります。最晩年の作品は、マーク・トウェインらしくない厭世的な作風だとよくいわれますが、それもこのように続いた家族の死を思えば、仕方がないのかなとも思います。
ヘレン・ケラーの自伝に登場するトゥエイン
さて、トウェインは『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』に登場します。この自伝自体もとても深い内容を持った作品で、是非一読をお勧めしたいと思います。あのヘレン・ケラー(1880~1968)かと、分かった気にならずに読んでほしい本です。
この本に登場するマーク・トウェインをご紹介して、この回を終わりにしましょう。ヘレン・ケラーは、作家の友達がたくさんいた親友夫妻からトウェインを紹介されたのです。
自伝では様々な自己韜晦(とうかい)を書き連ねているトウェインですが、ヘレン・ケラーが描いたトウェイン像こそ本物なのでしょう。
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第8回の読書ガイド
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【著者プロフィール】
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