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耕作放棄よりもよほど重大な「農地転用」

【連載】農家はもっと減っていい:大淘汰時代の小さくて強い農業⑦

㈱久松農園代表 久松達央

久松 達央(Tatsuo HISAMATSU)
株式会社久松農園代表。1970年茨城県生まれ。慶応義塾大学経済学部卒業後,帝人株式会社を経て,1998年に茨城県土浦市で脱サラ就農。年間100種類以上の野菜を有機栽培し,個人消費者や飲食店に直接販売している。補助金や大組織に頼らずに自立できる「小さくて強い農業」を模索している。他農場の経営サポートや自治体と連携した人材育成も行う。著書に『キレイゴトぬきの農業論』(新潮新書)、『小さくて強い農業をつくる』(晶文社)。

高度成長期以降の日本の都市近郊農家は、工業の地方分散化政策によって、農村に住み続けたまま勤め先を確保できるようになりました。農業の安定兼業化といういびつな形で「農村の発展」が図られた影で、大量の農地が農業以外の用途に転用されてきました。耕作放棄の問題は取り沙汰されますが、その6倍もの農地が都市的な利用に転用され、農家の懐を潤してきた事実はあまり広く語られていません。

農業の兼業化の裏には、あまり語られない農家の「不都合な真実」があります。それが農地の転用問題です。食糧増産をスローガンに戦後農地開発が進み、耕地面積はピーク時の1961年には609万haに達しています。その後公共事業でさらに110万haもの農地が造成されているにもかかわらず、耕地面積は減り続けて現在は440万haです。

差し引き280万haもの農地がなくなった計算になります。その中には、耕作放棄地もありますが、その面積はせいぜい40万ha程度です。農地解放で小作人の手に渡った193万haを上回る農地が消えてしまったのです。

消えた農地の多くは、宅地や工場や道路など、都市的な利用のために転用されたと考えられます。特に都市近郊では、現在でも不動産収入が主の「農家」が多数存在します。農業委員会による農地の規制は、特に地元民の転用に関しては「柔軟な」運用がされています。

産業としての農業は衰退し、都市化が進んでしまった農村地域では、農地を持っているが農業はしていない「農家」がたくさんいます。その人たちは、もし子供が地元に帰ってきたら家を建てるかもしれないし、そうでなかったら誰かに宅地として売ればいい、という「出口戦略」を持っています。いざとなれば宅地に化ける権利があるがゆえに、農地が農業の生産手段として有効に利用されずに塩漬けになることを制度が後押ししてしまったわけです。

欧州を鉄道で移動すると、農村と都市の境目がはっきりしていて、街を抜けると風景ががらりと変わります。一方、日本では、都市部を離れても、いつまでも建物が続く風景が特徴的です。このように、都心部から郊外へ無秩序に開発が拡散することをスプロール現象と呼びます。1968年の新都市計画法は、このような無計画な都市の発展を防ぐ目的で制定されましたが、都市計画区域の決定や、その後の土地利用規制の運用は極めて「弾力的」に行われ、農地が無秩序に都市化することに歯止めはかかりませんでした。

現在でも、道路や工場の開発計画が持ち上がると、住民も行政もしっぽを振って農地を差し出す構造はあまり変わっていません。「地方の工業化」は、農地の集約を妨げて競争力のある強い農業が育つことを阻んだだけではなく、国土の秩序ある発展を阻害した大きな要因でもあります。

農地法が農地の売買賃貸を制限しているのは、そもそもは耕作者が安定して農業を続ける権利を保護するためです。しかし、結果としてこの制度が、農家が既得権として安いコストで農地を長期間保有し、都市的利用のために転用する際にはその利益を丸々享受することを可能にしてしまっています。

これは明らかに農地法の立法趣旨の逸脱です。が、このことを正面から問題にしている学者はごく一部です。農家もまた、すねに傷があるせいか、積極的に議論する人は多くありません。農水省は、2015年に農地流動化の促進の観点からの転用規制のあり方に関する検討会を開きましたが、明確な結論は出せませんでした。

米騒動を発端として、社会政策として自作農主義が始まってから100年。時代状況が大きく変わっても日本の農業に影を落とし続けているこの「耕作者主義の呪い」は、長期的な土地利用制度設計の失敗例として歴史的に検証されるべきだと考えます。(続く)

※本連載は今夏に刊行予定の新書からの抜粋記事です。

久松さんと弘兼さんの対談が掲載されています。


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