なぜ倫理学は「つなわたり」になってしまうのか?|高橋昌一郎【第24回】
現代社会に「徳倫理」は可能か?
哲学を創始したソクラテスは、人生において最も重要なことは「魂の健康」だと主張した。そのために彼が何よりも必要だと考えたのが「徳(アレテー)」である。よく生きるためには、「徳」で「魂」を磨かなければならない。そして、よく死ぬために、よく生きることが大切だとソクラテスは結論づけた(古代ギリシャ哲学については拙著『自己分析論』(光文社新書)をご参照いただきたい)。
ソクラテスにとって、世俗的な人間が最も求める優れた容姿や豊富な財産、仕事上の成功や身体の健康と長寿でさえ、重要ではなかった。彼は「醜男」な退役軍人で、貧しかった。ろくに家事も手伝わず「問答」ばかりしていたから、常に妻のクサンティッペから怒鳴られ、頭の上から水をかけられたこともある。
彼の「問答」が「若者を堕落させる」というバカげた罪状で訴えられ、死刑判決が出たが、親友クリトンや弟子たちが牢獄の門番を買収していたから、ソクラテスは容易に逃げ出して、国外で暮らすこともできた。しかし彼は「悪法も法である」と宣言して、紀元前399年、自ら毒杯を飲み干した。死の間際、クサンティッペが「無実の罪で死ぬなんて」と嘆くのを聞いて、ソクラテスは「それじゃあ、おまえは私が真の有罪で死ぬ方がよいのかね」と笑ったという。
「人はいかに生きるべきか」「善とは何か」「正義とは何か」などを問う倫理学は、プラトンに引き継がれ、アリストテレスの息子ニコマコスが全10巻の『ニコマコス倫理学』に纏めた。そこでアリストテレスが「最高善」と定めたのが「幸福」であり、幸福に到達するためには「中庸の徳」が必要とみなされた。
しかし、アリストテレスの倫理学はキリスト教に組み込まれ、中世の暗黒時代では「神や法王や国王に従うことが善である」と為政者に都合よく歪められた。ルネサンスを経て18世紀、ベンサムは「最大多数の最大幸福」を目指す「功利主義」こそが宗教的権威に代わる新しい道徳だと考えた。カントは「~すべきである」「~してはならない」という「義務倫理」を集大成した。非常に大雑把に言うと、現代倫理学は「功利主義」か「義務倫理」のどちらかに区分できる。
さて、本書の著者・村松聡氏は、この2つの大きな潮流に対して、アリストテレスの唱えた「徳倫理」への回帰を呼びかける。たとえば、現代の生命倫理の代表的な問題である「ヒト・クローン」を考えてみよう。功利主義は「ヒト・クローンは人類に最大多数の最大幸福をもたらすか」と問い、義務倫理は「ヒト・クローンは人類の普遍的道徳に照らして作られるべきか」のように問う。
ところが、村松氏の「徳倫理」は「そもそもヒト・クローンを私たちは作りたいのか」を問う。本書では、幸福、安楽死、妊娠中絶、格差原理、テロリズム、拷問、嘘と戦略、第3世界の貧困援助、臨床試験、公平、世界の衛生環境、動物の権利、潜在力などの論争が明快に整理され、新たな展望が考察される。
本書で最も驚かされたのは、「したいことをしよう」「適当にしよう」「よいことをしようと思うな、悪いことをしよう」「誠実に嘘をつこう」「不平等を実践しよう」「人間的に考えるのをやめよう」という各章のタイトルである。これらのタイトルから浮かび上がるのは、現代社会の多種多様な倫理的問題に単一の解は見出せないという諦観である。だからといって独断論や相対論に陥るのではなく、「つなわたり」のように「徳倫理」を追求したいというのが、村松氏の立場である。果たして現代人に「徳」を見出せるのか、再考を促す意欲作である!