なぜ「法の番人」が腐敗してしまうのか?|高橋昌一郎【第19回】
警察・検察・法務省・裁判所の腐敗
日本で新たに警察職員となった者は、次の宣誓書を任免権者に提出しなければならない。「宣誓書 私は、日本国憲法及び法律を忠実に擁護し、命令を遵守し、警察職務に優先してその規律に従うべきことを要求する団体又は組織に加入せず、何ものにもとらわれず、何ものをも恐れず、何ものをも憎まず、良心のみに従い、不偏不党かつ公平中正に警察職務の遂行に当たることを固く誓います」(国家公安委員会規則第7号『警察職員の服務の宣誓に関する規則』)
それに対して、「金銭にまつわる上層警察官僚の貪欲」が「警察の責務および警察官の原点を忘れさせ、あの感銘深い宣誓書の心を汚濁にまみれさせてきた」と厳しく批判するのが、松橋忠光氏である。この人は、「いわゆる『二重帳簿』方式の予算経理による裏ガネづくりが、中央からすべての都道府県にわたる全警察組織において行われている」と内部告発したことで知られる(松橋忠光『わが罪はつねにわが前にあり』社会思想社(現代教養文庫)、1994年)。
松橋氏は、警察大学校初任幹部科第一期生である。卒業後は警部補任官を務め、27歳の若さで秋田県本部警務部長に就任した。その後、愛知県本部警備部警備第一課長、警察庁警視、警視正を経て、アメリカに留学しCIAから情報活動研修も受けている。帰国後、福岡県警察本部警備部長、警察庁警備局理事官、内閣調査室第六部主管、警視長を経て、1975年に50歳で警視監となったが、警察内部の不正行為の加担に耐えられなくなり、依願退職して告発したのである。
月給6万円程度の警察本部警備部長時代には、一般警察官の「カラ出張」や「領収証偽造」で捻出された裏金50万円が部長の「使途自由」経費として毎月渡された。内閣調査室を離任する際には200万円の餞別を受け取った。この松橋氏の告発に対して、警察庁は無視し、検察庁も会計検査院も調査した形跡はない。
「裏金・公金横領・公文書偽造」と聞くと、日本の腐敗しきった一部の政治家を思い浮かべるが、それらを取り締まるべき警察・検察・法務省・裁判所の内部にまで「腐敗」が浸透していることを、本書の著者・鮎川氏は綿密に分析し明らかにする。
本書で最も驚かされたのは、「犯罪が発生するから取り締まる」という一般常識に反して、犯罪学では「取り締まるから犯罪が発生する」とみなすという鮎川氏の指摘である。ある行為が犯罪になるか否かは、警察・検察・法務省・裁判所といった「社会統制機関」の対応によって決まる。この見解は、「存在するから認識する」のか「認識するから存在する」のかという哲学の認識論論争を想い起させる。犯罪学では、社会統制機関の認識が優先されるわけである。
そこで注意しなければならないのが、「社会統制機関は完璧ではない」という鮎川氏の警告である。哲学論争は人畜無害だが、犯罪は人生に大きな利害を及ぼす。警察は、犯罪を行っていない人物を逮捕する可能性があり、検察は、それを誤認逮捕とは認識せずに起訴する場合がある。さらに裁判所は、無罪であるにもかかわらず「死刑」や「無期懲役」のような重刑の判決を下すこともある。
順調に出世して裏金も自由に扱えるキャリア官僚の松橋氏が、それ以上の私利私欲に走らなかったのは、クリスチャンとして自分の行動を恥じたからだった。最終的に腐敗するか否かは、個人の良心に依存する。逆に言えば、根本的に良心の欠如した人間の腐敗を食い止めることは、残念ながら期待できないだろう。