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第1回 どうして男は“男”をこわがるのか? 忘れられた橋本治の問い|三宅香帆

光文社新書

『蓮と刀』は今こそ読まれるべき

「 “おじさん”社会に敢然と立ち向い、開かれたコミュニケーションをめざした痛烈評論!」。

こんなふうに紹介される文庫本を、今回は紹介したい。

本連載に登場するということはつまり、絶版本なわけだけれども。上に挙げた紹介文、なんとも、今っぽくないだろうか?

まず「“おじさん”社会」という言葉。最近よく聞く「ホモソーシャル」を指す言葉っぽい。ざっくり説明すると、女性を排除して男性たちだけで社会を構築し、男たちの群れのなかでの付き合いによって権力を得る構造、という意味だ。そして、開かれたコミュニケーションを目指すぞと言っている。分断を避け、できるだけコミュニケーションを開いてゆく……これはまさに今のところ令和のテーマではないか。ほら、今っぽくないですか。

しかし本書の初版が発売されたのは1982年。今から40年前、もうすこしで半世紀も前のことである。

絶版になるには仕方ない年月かもしれないが、それにしたって、40年前のゴリゴリ昭和の時代の本だと思えない。テーマがあまりにも「今」すぎる。

今回紹介するのは、そんな今から40年も前に出版された、橋本治による著作『蓮と刀』(河出文庫)である。

時代を先取りしていた作家、橋本治

橋本治は、時代にものすごく敏感な作家であるように見えて、一方で時代とものすごく離れた価値観を持っている作家だったと、一読者として思う。

バブルを、氷河期を、リーマンショックを。昭和を、平成を。それらの時代を冷たい目で批評しながら、俯瞰して見ようとしている。それはつまり、時代に取り込まれすぎることがなかなかできない性分だったからじゃないか? と思える。

ものすごく時代に合わせた著作を出しているように見えて、当時橋本治が書いていたことややっている仕事を心底理解した人はどれくらいいるのだろう? 時代が俯瞰で見えすぎて、逆に同時代の人には理解されなかったんじゃないか? と、著作を読むと感じてしまうのだ。

まあ、もしかしたらリアルタイムに著作を読めなかった橋本治ファン(=私)による、「誰も彼のことをちゃんとわかってない! わかるのは時代を遅れて読んだ私だけ!」という妄言かもしれない。しかしそれにしたって、彼の著作は本当に今読むと面白いのだ。もちろん当時の時代を反映した「今ならこういう呼称は使わないよな」と思う部分もあるけれど。それでも、書いてある内容そのものについては、むしろ今こそ読まれてくれ、と叫びたくなる。

彼は、恋愛論を語るときは同性愛について語り、文芸批評をやるときはまず少女漫画について語り、古典を訳すときは暗におじさんの言葉で女子高生を批評することの滑稽さについて語り、そして誰よりも先に「どうして男は男をこわがるのか?」なんて身も蓋もない問いをタイトルにつけてしまった。

ルッキズムもホモソーシャルもホモフォビアも、私は概念の名前を知るよりも前に、橋本治の著作のなかでその存在を知った。

橋本治は昭和を代表する書き手にのように言われることがあるが、扱っているテーマは思いっきり令和である。というか令和になってようやくみんなが橋本治に追いついたのかもしれない。

とくに男性の内側にある男性に対する欲望と抑圧については、橋本治が日本で最初に批評した人物ではないだろうか。『蓮と刀』を読むと、そう感じる。

ホモソーシャルとホモフォビアの関係

本書のなかで橋本治は、フロイトの精神分析学や、土居健郎どいたけおの『「甘え」の構造』を徹底的に批判する。なぜなら、フロイトや土居が、橋本が嫌悪する「おじさん」の論理の使い手でだったからだ。

彼の言う、概念としてのおじさんとは何か。それは、同性愛を忌避し、女性にまるで母親のように甘え、それでいて自分を抑圧し、しかもその抑圧を自覚していない存在のこと。

おじさんは、無理しておじさんになったふりをする。だから我慢を重ねる。でも自分だけ我慢するのは嫌だから、他人にも我慢を求めるようになる。そんなふうに接していくと、おじさんの周りの人は、おじさんから逃げ出すか、同じようにおじさんになるか、どちらかを選ばなくてはいけない。その結果、社会で、今でいうホモソーシャルが形成されてゆく。

ここでいう「おじさん」とは、決して年齢・性別によって定義されるものではなく、そのようになってしまった存在のことだ。

たしかに、おじさんはおじさんのフリをしなければならない、という社会の抑圧は存在しているように見える。それは同性愛嫌悪――男性が男性と寝ることへの忌避にもつながってゆくのだと、橋本治は言う。

いまよりもずっと同性愛への風当たりは強い時代だっただろう。しかし本書では同性愛という観点を用いた批評、今でいうところのクィア批評が存分になされる。

もっとも見所となるのは、夏目漱石の『こころ』を同性愛的視点で読み解いた箇所だ。

“私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、、、、淋しい今の私を我慢したいのです”なんて、漱石先生は平然と書くけどサ、どうして“代りに”なんてことが成立すんのか、俺なんか全然分んないね。これはもう歴然と“代りに”ではなく“覚悟で”がホントだもんね。“代りに”なんてのは、“覚悟で”なんて言ったりするとつらさがドーンとのしかかって来るのが分っちゃうから、ちょっと逃げてみましたっていう、言葉の綾でしかないんだからねェ。こういう誤魔化しかたする人キライ。僕にはもっと明るい明日があるからって、俺は平気で「つまんなァーい!!」って言っちゃうの。
 一体なんだって又、こういう情ない発言が“近代文学”の中には出て来てしまうんだろうか? って話ね。               

(『蓮と刀』P.228、河出文庫)

日本の近代文学と、男性の同性愛的欲望への抑圧は、密接に結びついている。橋本治はそれを『こころ』から読み解くのだ。

――これ、読んでいてちょっと驚くのが、やっていることはほぼ、かの有名なイヴ・セジウィックによる『男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―』と同じであること!

説明すると、大変著名な文学研究者のセジウィックは、家父長制社会におけるホモソーシャルな体制には、ホモフォビア(同性愛恐怖)とミソジニー(女性嫌悪)がセットでついてくることを指摘した。ようは、男性同士が仲良く作り上げる社会は、男性同士で性的な関係を持つことを怖がり、さらに女性を嫌悪して排除することによって強固になっているのですねー、という理論。「ホモセクシュアル」と「ホモソーシャル」の概念の違いは、日本にもこの人によってもたらされたとか言われている。

しかし橋本治。文学研究者を当時は名乗っていなかったが、ほぼ同じことを言ってるのだ。『こころ』はまさに、同じ構図……とくに同性愛的欲望の抑圧という補助線を持ち出すと、きれいに読み解ける本なのだ、と。

ほぼ同じ時代、橋本治は夏目漱石を使ってそれを指摘し、セジウィックはディケンズやシェイクスピアを使ってそれを指摘していたのだ。

ちなみに出版されたのは、『男同士の絆』が1985年、『蓮と刀』がなんと1982年。橋本治のほうが3年もはやいのだった。すごくないですか。

セジウィックの理論は翻訳されてこうやって他の国にも伝わっている一方で、同じこと言ってる橋本治の著作は絶版だと。いやはや、解せませんよ私はっ。

男性は性に罪悪感を持っている?

さらに、本書は「ではなぜ男性が自分の性欲に向き合おうとしないのか」という問いにまで至る。

一見、そうなのか? と首を捻る。女性よりも男性向けのほうがよっぽどAVも風俗も多いし、性欲と向き合ってないという指摘は、よく分からなかった。

しかし橋本治は、男性は自分の性欲に対して罪悪感を覚えていることが多い、と言う。

男の子の性欲ってのも、あんまり祝福はされなかったりするのね、家庭の中じゃ。だもんだから、良識ある男の子ってのは、自分のセックスをあんまり祝福しないで、あるんだかないんだか分んないようにすんのね。

(『蓮と刀』P.278)

私はけっこうこれを読んでハッとしたのである。いや、一般的に女性の方が性欲を抑圧しているように見える(たとえば下ネタなんかも男性の方が言いやすい傾向にあるわけで)。でも考えてみれば、男性ってよく「ほんと中学生男子は(性欲ばっかりあって)バカだから!」みたいな言い方をする。それって、結局自分への罪悪感から来ているわけで。

男の人にとっての性は、「ないほうがいいけどあってしまう」ことへの罪悪感が付随するもの、社会から否定されてるのに自分の中で渦巻いて発露させてしまうもの、なんじゃないか……と本書を読んでまざまざと思ったわけである。

逆に、だからこそ男性は女性の積極的な性欲もあんまり認めたくない、そんなもんあるなんて信じたくないんじゃないだろうか。女性はあくまで「自分の性欲(罪)を誘惑する側」に立っててほしくて、自分が女性の性欲(罪)を誘惑する側になるなんて、考えたくない。

アイドルが露出高めな格好してたら「けしからん」って言う文化があるけど、あれは自分の性欲に罪悪感もってないとできない言説だよな、とかね。

まあ、こういう言説はどこまでいっても全ては主語が大きい、「男性は~女性は~」みたいな話になってしまうのだけど。みんながみんなそうってわけでは、もちろん、ない。橋本治もそれは分かったうえで書いている。

ちなみに今でいう「草食系男子」の予言も本書ではなされている。やっぱりはやいよこの人、バブルな1982年に書ける文章じゃないよ、と私は読み返すたびに驚いてしまう。

橋本治の言葉なら、男性の欲望について語ることができた

さてここまで紹介した内容に興味が出てきた方は、ぜひ本書を読んでみてほしい。早めに忠告しておくと、もしかすると、橋本治特有の文体が読みづらいと感じる人もいるかもしれない。

しかしそれは問題ない。最後まで読むと、橋本治がこの文体を使っている意味がわかってくるのだ。

橋本治は、男らしい文体――つまり、こういう「である」とか「だ」とか、そういう言葉を使ってしまうと、男性が「自分自身の」欲望を真正面から語ることがものすごく困難であることを知っていたのだと思う。どうやら男性の言葉は、男性の欲望を、語りづらい。だから、まっとうに男性の性や関係について語るには、ちょっとふざけた文体にするしかなかった。

橋本治ですら、大人の男の人、つまりおじさんの文体では、自分(たち)の性を解体することはできなかったのだ。

彼の文体が、なにより罪悪感なく男性が欲望を語ることの難しさを表現していたのだと、私は思う。

男性の生きづらさや、男性学が注目される昨今だけれど。まずは橋本治を読むところから始めてはどうなんだろうか。まずは彼から始まっている。セーターを編んで、家事を語り、同性愛批評を行い、文芸評論と小説執筆と人生相談と古典翻訳と、その他膨大な仕事を昭和と平成の歴史に遺して去っていった橋本治から、始まっている。

男性自身がもっと男性のことを考えよう。俺とまずは寝よう。そう言い切った橋本治の仕事は、もっともっと、今読まれるべきじゃないだろうか。

今回の絶版本

前回はこちら

著者プロフィール

三宅香帆

みやけかほ/1994年、高知県生まれ。書評家。京都大学文学部卒業、同大学院人間・環境学研究科修士課程修了。2017年、『人生を狂わす名著50』でデビュー。おもな著書に、『文芸オタクの私が教える バズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『妄想とツッコミでよむ万葉集』(だいわ文庫)、『女の子の謎を解く』(笠間書院)、ほか多数。最新刊は、自伝的なエッセイ集『それを読むたび思い出す』(青土社)。

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