第二次世界大戦はどうすれば止められたのか?―未来は決まっており、自分の意志など存在しない。
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第二次世界大戦はどうすれば止められたのか?―未来は決まっており、自分の意志など存在しない。

心理学的決定論とは?

こんにちは/こんばんは。光文社新書編集部の三宅です。3月に刊行しました妹尾武治さんの『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。』はたいへん好評で、すぐに増刷が決まりました。その勢いは衰えず、アマゾンにも続々とレビューがついています(刊行から一月半で51個)。もちろん、星5つの高評価だけでなく、星1つの低評価もありますが、138億年前から決まっていたことに対して、どうこう言っても仕方ありません。

担当編集としてましては、本書をもっと多くの方に広めたく、妹尾さんにご相談のうえ、第二回目の本文公開を行うことにしました。

ちなみに、最初の本文公開は下の記事です。今回の記事をこの続きになりますので、まずは下の記事を読まれることを強くお勧めします。今回はサブカル濃度が高めですよ。

1‐5 決定論が正しいのか? ※1-4までは上の記事をご覧ください。

 枯葉が落ちる、ナメクジが光の方とは逆に這っていく(負の走光性)、猫が顔を洗う、あなたがこの本を読む。意志があるのはどこからだろうか?

 多くの人は、枯葉が落ちることに枯葉の意志を感じない。そしてほぼ全ての人は、自分の意志でこの本を読んでいると思っている。猫の行為については、意志があると思う人がおそらく多数派になるだろう。そして、ナメクジの例はその中間に位置しているといえるだろう。

 では、意志の有無の線引きはどこにすればいいのだろうか。どこに線引きをしたとしても、人間としての自分の恣意性が生まれるのではないだろうか。人間の行動だけに意志があると考えるのもおかしいし、猫に意志があるかどうかを恣意性なく、決めることなどできない。
 
 アインシュタインはE = mc2で有名な、光速度不変の法則という物理法則を提唱した。この世界の全てに当てはまるからこその物理法則である(物理法則の完全性、自然・世界の数式化の徹底、そして完全性への過信は科学至上主義ではある。しかし、ここでは一旦完全なる数式物理法則が世界を統〈す〉べているという前提で話を進めたい)。

 では人間の持つ(ひいては万物が持っていることになるのだが)意識や意志にも、このような説明可能な物理法則はあるのだろうか?

 現時点での科学は、この物理法則を定義できない。しかし、いつの日かそれが生まれたとしよう。その時この物理法則は、世界の全てに当てはまるはずである。光速度不変の法則と同じである。

 であれば、意識や意志は世界の始まりである「ビッグバン」と同時に生まれたはずとなる。人間が生まれた段階で、急にこの物理法則が世界に事後的に追加されたと考えるのは変だからである(例えば、ゲームアプリに課金して機能をアドインするかのように)。世界の全てに当てはまる法則であるならば、それは世界の誕生と同時に機能し始めるべきだ。

 アインシュタイン以前から光速度不変の法則がこの世界にはあった。これと全く同じで、人間が意識や意志に気がつくよりも前から、意識と意志の法則は世界にあったはずだ。
 
 このように考えると、枯葉が落ちる「行為」にもなんらかの意識や意志の法則は成り立つのではないだろうか? 実は、意識とは段階的なものであり、人間特有のものではないのではないか?

 枯葉が落ちるのも、あなたが本を読むのも、意識のある行動であり、そこには質的な違いはない。ただし、なんらかの意識の量的な違いはありそうだ。

 後章で説明するが、最新の心理学では、枯葉の意識と人間の意識の違いとは、情報の変換の複雑さの違いでしかないのでは? という考え方がなされている。

 魚には痛覚がないなどと考え、魚だけは食べるという菜食主義の方たちを「ペスカタリアン」と呼ぶが、我々日本人のように魚に愛着を強く持つ人種から見ると、彼らの線引きはなんだか恣意性が高く違和感を覚える。

 最新の心理学の見地からすれば、「どこから食べる」という線引き自体が恣意性を含んでいることになる。なぜなら万物にはレベルの違いこそあれ、意識があるからである。
 
 人間にだけ意識と意志の法則が成り立つと考えるのはおかしい。意識の法則は万物に成り立つ必要があり、それならばビッグバンからその法則はあったはずだ。そうであれば、先ほどの線引きは、線を引くこと自体がおこがましく、間違っていることになる。線引きをしないことで、人間の恣意性は消え、より客観的で正しい見方ができるのだ。

 意志や意識には脳が関係していると考えるのは止めよう。「意識は万物にある」。本書の思想(心理学的決定論)の大事な要素であるので覚えておいて欲しい。

 人間だけが自分の行動を意志や意識で制御していると考えるのは間違いなのだ。それを痛感する例として「脳の暴走としての犯罪」について次章で考えてみたい。我々は脳から自由になれない、そして決定論からも自由になれないのだ。
 
 本書では、まずリベットの実験を通してこの心理学的決定論を提案したのだが、これ以降、心理学のみでなく脳科学、生理学、AI、哲学、アート、文学を横断的に見る中で、この発想の相似形を繰り返し提示していきたい。
「確からしい結論」としてこの説を受け止めざるを得ない状態にまで皆さんを追い込みたい。

余談 過去へのタイムスリップは不可能?

 タイムマシンのパラドクスに「親殺しのパラドクス」というものがある。タイムマシンで自分が生まれる前の時代に行き、自分の親を殺せば、自分はこの世に生まれてこない。そうなれば、過去に戻った自分の存在が消えてしまう。であれば、親を殺すことも成就しない――。こういうパラドクスである。

 大好きな映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、過去に戻った主人公マーティが20代の頃の自分の母親から恋こがれられてしまい、父親との恋愛が始まらず、マーティの存在が消えかけるというようにストーリーが展開する。つまり親殺しのパラドクスを主軸に据えたストーリーになっているのだ。
 
 実は自由意志がない、世界は事前に全てが決まっているという決定論は、この親殺しのパラドクスを解決してくれる。つまり、過去は変えられない、過去へのタイムスリップはできない。全ては決定していることだから、過去を変えられるという前提がそもそも間違っているのである。

 未来へのタイムスリップは、それ自体が決定論で決められていたことと考えれば、決定論との矛盾は起こさない。それと同じで、決定論がこの世の絶対法則ならば、過去への時間旅行は絶対にできないという結論が論理的に正しくなるのではないだろうか。
 
 アインシュタインの相対性理論では、未来への時間旅行は論理的に可能であることが示されている。具体的には、光速に近い速さで移動できれば未来へ行ける。ないしは、ものすごい重力下で時間を過ごしても未来に行けることが科学的に証明されている。

 例えば、ブラックホールの近辺をグルグルと回ることができれば、はるかな未来へと行ける。また、光速で1時間移動して、地球とどこか遠い架空の惑星を往復できたとする。光速で移動すると、流れる時間がとても遅くなる。そのため、1時間の移動中に、地球上では何倍もの時間が過ぎている。わかりやすくするために、地球上では1年の月日が経っていたことにすると、この場合、惑星への旅行者は、1年後の未来の地球に戻ってきたことになる。1時間で1年後の未来に到達できるとは、タイムマシンと同義なのだ。
 
 一方で、相対性理論では過去へのタイムスリップは証明されていない。むしろ、現状の科学的な結論では、それは無理だとされている。これはもしかすると、世の全てのことは事前に決められているとする決定論が正しいことを示唆しているのかもしれない。
 
 過去を改変しようとしても、結局同じ運命に収束するという考え方は、アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』でとても秀逸に描かれている。主人公の死という未来を改変しようとして、過去を改変しても結局一つの運命に収束し、変えることができないというテーゼがこのアニメでは描かれている。

「世界線」という概念がある。この世には、複数の世界線がパラレルに存在している。ある世界線では死んでしまう人物であっても、別の世界線の上では生き残っていることがある。フィクションの世界では、過去を改変することで別の世界線に自分の人生を移すことができる。

『ドラえもん のび太の魔界大冒険』では、「もしもボックス」によって、現実世界とパラレルに存在する魔法が使えるという世界線に移行する。

 後半に、のび太とドラえもんはもしもボックスで世界線を元に戻すことで自分たちの平和を手にするのだが、魔法が使える世界の世界線での平和も取り戻す必要があることに気がつく。ドラえもんとのび太は、二つの世界線における平和を求めて、大魔王を倒すことを目指すのだ。
 
 ちなみに、ドラえもんでは、のび太の子孫セワシが、のび太の結婚相手をジャイ子からしずかちゃんに変えるために未来からやってくるという第一話が有名だ。しかし、結婚相手が変わることで、セワシは生まれなくなってしまうので、セワシは自分を消すために、未来から来たことになってしまうというパラドクスが存在する。

 セワシは「東京から大阪に行く方法は、一つではないから、結婚相手を変えても、結局は同じ場所(大阪)に行き着くから、自分は消えない」のような説明をするのだが、ずいぶん無茶なことをいっているように思える。この辺りから、セワシはなんらかの事実を隠蔽しつつ、のび太を騙していると考える学派もあるようだ。
 
 そもそも、ジャイ子は剛田武のあだ名であるジャイアンの「ジャイ」を使った名を、なぜか正式な名前とされている。本名は萌子だとする説もあるが、原作には明記されていない。ジャイ子が本名だとすれば、ジャイアンの方が実は後から決まった可能性が指摘できる。「ジャイ子のアンちゃん=ジャイアン」説である。

 一見すると地味な存在である、ジャイ子。ジャイ、という名前にはありえない音、そしてなぜか妹の名前をベースに兄のあだ名が決まっている。そもそもセワシが未来から来たのもジャイ子との結婚をなかったことにするため。全ての始まりに存在するジャイ子。このようにジャイ子の周辺は、非常に香ばしい。
 
 ゲーム、アニメの『STEINS;GATE(シュタインズ・ ゲート)』はこの世界線の概念を用いた作品の最高峰である。この作品では、過去を改変し、世界線を移ろわせ、全方向的なハッピーエンドという正しい世界線を目指して、過去を右往左往する主人公が描かれる。主人公(プレーヤー)としての、ヒロイン(恋愛対象)の選択と世界線の選択が同時に起こることで、ゲーム性を高めた手法は特筆に値するだろう。未見の方はぜひ見てもらいたい(世界線の選択とヒロイン選択を重ね合わせた初出の作品は『涼宮ハルヒの消失』〈2010〉における長門ルートと涼宮ルートの主人公による選択なのかな? と思っているが、正確にはわからないので、今後研究したい。非常に秀逸な映画なのでこちらもぜひご覧いただきたい)。

 ちなみに、「世界線」という言葉は長年一部のアニメヲタクのみに定着した言葉であったが、2019年にOfficial髭男dismが〝Pretender〟内で歌詞として用い、多くのおじさんとおばさんを混乱させていたことが記憶に新しい。今や、市民権を得た言葉であると思われる。

第二次世界大戦は止められたのか?

 第二次世界大戦はどうすれば止められたのか? と考えたことはないだろうか? 例えば、東條英機がいなかったら戦争は止まっていたのか。2.26事件を未然に防いでいたら、大戦を止められたのか。第二次世界大戦のない世界線にはどこのタイミングで何をすれば、移行可能だったのだろうか。
 
 司馬遼太郎が日露戦争を描いた『坂の上の雲』では、まさにその坂の上の雲という表現で、日露戦争、ひいては第二次世界大戦に向かわざるを得なくなる、日本の歴史的な流れを端的に表現している。

 坂の上の雲とは、実在しない何らかの理想国家のことだった。坂を上ることでつかめると思っていたが、当然ながら雲はつかめないものである。一等国の仲間入りをして、ある意味で坂を上りきったことで、日本は「雲」(何らかの圧倒的な理想国家)はつかめないというその事実に直面した。そして、日本は軍国化していき、大東亜共栄圏という行き過ぎた理想をつかもうとする。

 司馬遼太郎が描いた歴史の流れは、ある種不可避的・不可変的であり、一個人、例えば東條英機がいなかったくらいでは、変わったとは私には到底思えない(*3)。

3 司馬遼太郎の歴史観には現在では多くの疑問や批判がある。彼の作品はあくまでもフィクションであり、歴史学とは区別して認識されるべきである。過剰にフィクションをノンフィクション扱いし、司馬遼太郎の歴史観こそが正しいという態度は取るべきではないだろう。

 歴史とは不可避で不可変な流れであり、やはりある種の決定論ではないのかと思う。平清盛が死ぬことは事前に決まっていたし、平家没落を止めることは誰にもできなかっただろう。明智光秀はどこまで自由意志で信長を討ったのだろうか? だからこそ「歴史は繰り返す」ような気がしている。
 
 余談だが、映画『バブルへGO‼ タイムマシンはドラム式』では、バブル崩壊の阻止を託されて過去に送られた主人公の広末涼子が四苦八苦の末、結局歴史を改変し日本を世界最強大国にしてしまう。フィクションでは歴史は変えられるが、現実ではどんなことをしてもバブル崩壊やリーマンショックは止められなかった。

 もちろん、歴史というもの自体が、後世の人物が説明づけたものであるから、決定論的に語られがちな点には注意が必要である。

 その時にまさに生きていた人物が、決められた流れの中にいるという自覚を持っていたかどうか? これはわからない。しかし、今の我々は、後世の人物から見れば、決定論的歴史の流れに抗(あらが)えずに流されているまさにその最中なのだろう。
 
 心理学的決定論を語る上で絶対に外せない思想家は、カール・マルクスだ。資本主義が限界を迎え、階級闘争の果てに、社会主義へと移行するとする段階的発展説は、ある種の決定論である。実際に全共闘時代、浅間山荘事件やよど号事件において犯行者たちは、ある種の決定論とその科学的な根拠を信じていた部分があった。

 現在の資本主義、民主主義の限界は、マルクスの『資本論』の中に記載された「予言」通りに進んでいるように見える。アマゾンやマイクロソフトのような世界企業の登場と、それに続く世界政府が登場すればいよいよ資本主義は限界を迎え、社会主義への移行である「革命」が起こるのかもしれない。繰り返す不況もマルクスが予見したものであった。

 政府主導の公共事業などの財政政策によって、人間は不況を先送りにするすべを得た。20世紀経済学の神であるケインズは、マルクスを超克したかのように見えた。しかし、リーマンショックを経て、この財政出動による不況の回避にも限界があることが21世紀の今、コロナウイルスによって露呈され始めている。

 いよいよマルクスが指摘した資本主義の破綻がもたらされるのかもしれない。

 マルクスの『資本論』も人間の行動の必然的な流れ、決定論を指摘した点で、ある種の心理学的決定論を支持する論拠、文献的エビデンスになり得ると私は思っている。人間の行動は事前に決まっており、環境、世界がそれを規定するのである。

 決定論的歴史観、および未来に対する決定論的思想は、この意味で全く新しいものではないのだ。学生運動(1960年代後半から1970年代を中心に、大学生を主とした左派的思想、マルクス主義、社会主義の集団が、国に対して武力闘争を仕掛けた運動)をしていた世代なら、このことはよくわかるのではないだろうか? いつか来た道である。

 しかし、いつか来た道であったとしても、その妥当性は過去に比べて格段に担保されているといえる。それはこの本を読み終わった頃には明らかになっているはずだ。
 
 友人が、どう考えてもダメな男と付き合っているとしよう。何度も別れろとアドバイスしても、一向に別れない。話し合いを続けその場では説得に成功し、本人も「あんな人と一緒にいても未来はないよね」と明確に自覚してくれた。意識レベルでは、十分わかっている。

 しかし、それにもかかわらず別れられない。一度彼氏に会ったら「やっぱりあの人が好き」となってしまう。別れられない友人にやきもきする友達の図は、洋の東西を問わずよく聞く話である。

 意志、意識レベルでは別れるべきだと切実に実感していても、その意志では行動が変えられない。人間の行動は環境との相互作用で全て事前に確定しているためだ。意志には行動を変える力がないのだ。
 
 田代まさしさんは4度、覚醒剤の保持と使用で逮捕されている。本人は意識レベル、意志のレベルでは覚醒剤をやめたいと繰り返し述べている。しかし、意志の力では覚醒剤をやめることができないのだ。

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イラスト サトウノブコ

 覚醒剤を使用するのも自分の意志なのか? おそらくそれは環境(覚醒剤)との相互作用で生まれる行動の強制だろうと思う。やめたいという意志よりも、環境から強制される決定された未来に支配されているのだろう。

 田代まさしさんの息子の田代竜也さんもまた、環境に支配された行動を起こしている。彼は、「すごく大事にされたという記憶」に縛られ、父である田代まさしさんに何度裏切られても、接触しサポートを試みる。娘と母は縁を切ったにもかかわらず、息子は縁を切らずなんとか復活させてあげたいとまさしさんを信じ続けている。彼の行動もまた、環境(すごく大事にされた記憶)に縛られ操られているのだ。

 ちなみに、したいこととしたくないことの意志のバランスについては、健康心理学者のケリー・マクゴニガルが提唱している「意志力」という概念が面白いので、この辺りをもっと知りたい方は、彼女の書籍をお勧めしておく(関連して、薬物使用に関する報道のあり方は、もっと考えられるべきである。荻上チキさんらが提唱している薬物報道ガイドラインがもっと認知されるといいなと個人的に思っている)。
 
 意志などないのだ。意識レベルではダメな行動だと十分にわかっている。それなのに、もっと大きななにがしかに行動が支配されているのだ。全ての行動は事前に決定しているのである。

 次の章でもまた解説するが、我々は意志の力では生きていない。脳と環境の相互作用によって、自動的に体を動かされ、全て事前に決まっているプログラム通りに反射を繰り返しているだけだ。意志で作っているように見えても、全ての行動は環境からの刺激に対する、反射なのである。

 3日前の夕食は何だったか思い出せるだろうか? 4日前の昼食には何を食べたか思い出せるだろうか? 意志で行った食事の選択でさえ、所詮その程度のものであり、記憶にすら残らないのだ。

 この事実にあなたは絶望するだろうか? しかし、全てが決まっているからという理由で、人生が味けないものになる訳ではない。むしろ決まっている中で頑張ることの楽しさ、美しさというものもある。

 安易なニヒリズムに傾倒することを私は決して勧めない。生まれつきのお金持ち、生まれつき頭が良い、生まれつき顔が良い。どう頑張っても、全ては運命で決まっており、そこに努力の余地はない。逆にいえば、今社会を動かしている強者も、犯罪者も、実際にはごくごくわずかな差しかなく、それはただの運命でしかない。だから、社会の強者を尊敬せず、弱者も蔑(さげす)まない。そして、自分は全ての努力を放棄する。この考え方には一理あるのかもしれない。だがしかし、私は、こういった「受動的ニヒリズム」を勧めない。

 これについては、後述したいので、ぜひとも最後まで絶望せずに読み切ってもらいたい。
 
 最後に、この章をまとめよう。人間には自由意志はない。世界は事前に全てが決まっている。環境との相互作用によって、その都度人間は自動的に反応行動をしているだけである。意志とは幻影である。意識や意志にそれを統一的に説明できる自然法則があるとすれば、それは物理世界の始まりから存在するべきであり、人間に特有のものではないはずである。だから、意識とは1か0かで存在するものではなく、レベルにグラデーションがあり、万物が意識を持っているはずである。

 ただし、繰り返しになるが、それによって未来が変化するようなものではなく、世界はすでに全てが決まっている。この考え方を本書では、心理学的決定論と呼び、一貫して主張していく。
 
 この章では、まず心理学の重要研究を中心に、心理学的決定論について紹介を行った。この考え方の相似形が、次章以降も繰り返し提示される。脳科学、生理学、哲学においてもこの考え方は補完され、証明されていく。このダイナミクスをぜひ楽しんでもらいたい。

補足 心理学者の役割とは?

 本書に出てくる心理学の実験、例えばリベットの実験は強固な意志をもって成し遂げられたように感じられるだろう。しかし、心理学的決定論ではこの意志も幻影ということになってしまう。すると、この世界における心理学者の役割、ひいては世界の謎を読み解こうとしている科学者たちの役割とは、どういうものになると考えるべきだろうか?

「自分の意志は幻影」というテーゼと、科学者たちの強い意志(のように見えるもの)は矛盾しないのだろうか? このように思う読者の方は多いだろう。

 この疑問を解決するためには、実効的な心理学的決定論と、思想としての心理学的決定論を区別して考える必要があるだろう。つまり「どのみち全てが決まっている」として現時点での幻影としての自由意志を完全に否定して生きられる人間など、ほとんどいないという意味である。

 私自身、自分の人生は自分の意志で切り開いていると思う気持ちを完全に捨てることはできない。今この本を執筆しているのは私の意志である。しかし、その意志を自発的に自然に持つことができているという事実は、決定論的に決まっている。これまでの外界と私の相互作用で必然的に決まっているのだ。そしてその事実に対して幻影として「書きたいから書いている」という自由意志が随伴しているのである。

 仮に、読者の皆さんの中で全て決まっているのだから何も努力せずに過ごそう、と思われる方が出てくるならば、それも決まっていたことである。一方で、思想は思想として受け入れるが、それでも自分の人生だから頑張ろうと多くの人は思うだろう。結局のところ、思想として正しく、それが真理であるとしても、それを日々の生活でどこまで実行するか、実際にどう生きるのかは、これまでの生い立ちを含めた環境との相互作用で決まるのだ。

 多くの人は、この本を読んだからといって人生は大きく変わらないはずだ。その変わらなさも事前に決まっていたことなのだ。心理学者を含めた科学者たちの実験や努力も、その人物を取り囲んだ歴史を含めた環境がそれを必然的に行わせている。そしてその際に「自分が好きでやっていることだ」という幻影の自由意志が生まれるのだ。自由意志を幻影だと理解することと、実際に我々が取る行動は乖離(かいり)していていいのである。

 思想に対して原理主義的に行動を整えたいと思う人がいるならば、それもまた事前に決まっていたことである。反対に、この本を読み終わって何も人生や日々の生活に変わりばえなく生きていくのもまた自由であり、それもこの本を読む以前からすでに決まっていたことなのだ。

補足の補足

 思想としての心理学的決定論が、実行としての生活と無関係であるならば、この本の存在価値は一体なんなのか? という問題が出てくる。「それで?」「So What !?」ということだ。

 この点、著者の意見としては「それでも面白い」と思う人だけに読んでもらえたら十分というのが正直な気持ちである。知識、考え方として純粋に知りたい、読み進めたい人が読めばそれで十分であり、この考えをベースに社会を変えようとか、哲学的に絶対的な真であるから思想として広めようという「意志」は著者にはない。考えとして楽しい、こんな考え方もあるのかという啓蒙。そんな軽い楽しさがこの本の唯一の価値である。

人間が自らを自由であると思っているのは、すなわち彼らが自分は自由意志を持ってあることをなし、あるいはなさざることができると思っているのは、誤っている。そして、そうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが、彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。
バールーフ・デ・スピノザ『エチカ』(1677年)第2部、定理35、備考より

続きは本書でお読みください。


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