4:群雄割拠するポストパンク水滸伝の大河から「永遠に新しいアイデア」が生まれた——『教養としてのパンク・ロック』第30回 by 川崎大助
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第4章:パンクが死んでも、パンクスは死なない
4:群雄割拠するポストパンク水滸伝の大河から「永遠に新しいアイデア」が生まれた
パンク・ロックという「ビッグ・バン」から生じたさまざまな星系のなかで、じつは、最も豊かな遺産を継承していった系譜が、この「ポストパンク」だった。文字通り「パンク後の前進的ロック音楽」の見取り図の大半が、ポストパンクのなかにあった。なぜならば「抑圧からの解放者」としてのパンクの遺伝子を、最もストレートに継承していたとも言えたからだ。ポストパンクとは「可能性の宝庫」だった。
とはいえ、ニューウェイヴの項(「1:産業化したニューウェイヴが、パンクを消し去った」)で記したとおり、ポストパンクなるサブジャンル名というか「概念」は、70年代当時は、さして人の口にのぼっていたわけではない。また(ニューウェイヴとは違って)大して売れたわけでもない。ときどき小中規模のヒットが出るぐらいで、ポストパンクの大半はアメリカはもちろん、イギリスでもろくに売れもしなかった――のだが、しかしそれは、とくに問題ではなかった。
なぜならば「商業的成功は、あまり考えてはいない」といった態度で制作に挑むアーティストが、比較的多数だったからだ。つまり「芸術主義的」だったということだ。例によって個人経営も多い「小規模な」インディー・レーベルを活動の場とするアーティストが大半だったのだが、経済的にはかつかつながらも「カネのためではない」表現に身体を張る者が主力だった。だからポストパンクは、静かに、しかし熱く、ただただ「影響」のみを他者に与え続けていった。70年代と80年代においては、水平的な「横」の方向に。インディー活動をする同時代のバンドマンたちのあいだに、薄く広く、そして、遠くにまで――あたかもコンクリート製の堅牢な壁に、蜘蛛の巣状のひび割れを走らせていくかのように。しかも「何種類もの」さまざまな形状や深さの亀裂を、幾重にも。
そしてポストパンクには、「これ」とひとことで言えるような、なにか明確な音楽スタイルがあるわけではなかった。そこが初期パンク・ロックとは大いに違う点だ。つまりそのスタイルは「きわめて多様」だった。「パンクの精神性を引き継ぎながら」ありとあらゆる音楽との接続を繰り返していった結果こそが、ポストパンクの出発点だったからだ。一方で歌詞そのほかには、パンク的な政治性の高さが直接的に目立つものも多かった。また同時に、パーソナルな観点を重要視したもの、個人的な立場から「人間の内面」へと思考を伸ばしていく作品も目立った。さらにそこから「もう考えるのは止めた!」として踊り(ダンス音楽)方面へと歩を進めていく者も、少なくはなかった。
といったポストパンクのありよう、固有の精神性について、アメリカの音楽評論家グリール・マーカスは、こんなふうに評している。
だから言うなれば、ポストパンクの隆盛とは、とむらい合戦だったのかもしれない。あまりにもあからさまな「負け戦」にてすぐに幕を閉じた、ロンドンのオリジナル・パンク・ロッカーたちへの、とむらいだ。しかしこっちの戦況もまた「きわめて」分が悪いものだったのだが。
長く地道な戦い
イギリスでは、サッチャーが首相の座に着いた79年以降も、不況は一向におさまらなかった。それどころか、ひどく悪化した。サッチャー政権の最初の2年間で失業率は75年当時の2倍になり、81年から87年の7年間は10%を超える高い失業率が続き、87年には失業者数が300万人を超えるに至った。だがこれはサッチャーが狙ったものでもあった。彼女は組合運動などが盛んだったイギリスの労働者階級の伝統的な結束を切り崩し、社会全体を新自由主義的な産業構造へと転化させていくための、一種のショック療法をおこなっていた。切り崩されるほうは、たまったものではなかったのだが。
というわけで、アナーコ部隊はもちろん、生き残りパンクス組も、新世代(ハードコア勢)も、そしてポストパンク勢ももちろん、イギリスにおいて「まず最初に倒すべき主敵」は、サッチャー率いる保守党政権だった。これが同国の80年代における広義のパンク系の基本姿勢で――そして、結果を先に言うならば――サッチャーは「倒れなかった」。90年に至るまでの長期政権を維持したあと、同じ保守党のジョン・メージャーに禅譲。彼が97年に労働党の(というか「ニュー・レイバー」の)トニー・ブレアに完敗して保守党が下野するまで、イギリスの先鋭的音楽シーンは「政治的負け戦」を続けていくことになる。
だからこの「とむらい合戦」は、リヴェンジ・マッチは、短期決戦とはならなかった。長く地道な戦いが、オリジナル・パンク終焉直後から繰り広げられていくことになる。あたかもジャングルに潜むゲリラ兵のように。小部隊のそれぞれが、ゆるやかに連携しながら、永続的な運動としての「抵抗」を決して止めずに、戦闘をずっと継続していくかのような――そんな光景こそが、ポストパンクの真実だったのかもしれない。
パブリック・イメージ・リミテッド(PiL)
そんな多種多彩なるポストパンクの全容を、水源のあたりから個別に見ていこう。米英のうち、ことポストパンクにおいては、イギリスがかなり前のめりに引っ張っていった。だからイギリスから、まずは代名詞。「ひとつのスタイルはない」なんて言いながらも、しかし、聴いた誰もが「これぞポストパンクだ!」と認識する(あるいは、蒙を啓かれる)アーティストは、もちろんいる。その筆頭として、パブリック・イメージ・リミテッド(PiL)の名を最初に挙げないわけにはいかない。セックス・ピストルズ脱退直後のジョン・ライドンが、78年に結成した。
PiLはレゲエの一形態であるダブを盛大に「導入」した。そしてジョン・ライドンが愛するジャーマン・ロックやアヴァン・ポップと自在にミックスしては「切り裂いて」いった。つまり天空から堕ちてくるキース・レヴィンのエフェクト・ギターと、ジャー・ウォブルの地鳴りのごときベースが「反響し合う」空間に、ゆがみにゆがみきったライドンの鋭利なヴォーカルが亀裂を加えていく――わけだ。このありさま、音楽的飛距離の大きさは、ピストルズ時代の比ではなかった。また音楽だけではなく、バンド名やロゴはもちろん、曲名や歌詞、アルバムのスリーヴ・デザインに至るまでのすべてが綿密に設計された現代アートのようであり、まさに「教養」ライドンの面目躍如。水を得た魚状態となった彼が溜め込んでいたパワーを全開。搾取者(マクラーレン)から離れたがゆえの、のびのびとした「前衛的なポップ」が四方八方へと炸裂する名盤を、ここから連発していく。
フリー・ジャズの影響――ザ・ポップ・グループ
ザ・ポップ・グループも、ポストパンクの代名詞だろう。PiL同様、これ見よがしにアイロニカルなバンド名を掲げた彼らは、イングランド南西部の港湾都市ブリストルにて78年に結成。ファンクとダブ、神経質に痙攣するギターと不安げな人間の叫びが渾然一体となった「前衛」ポップを野太く放出した。ときに差し込まれる不協和音はフリー・ジャズの影響だ。サウス・ロンドンのレゲエ・バンド、マトゥンビのリーダーである才人、デニス・ボーヴェルがプロデュースした彼らのデビュー・アルバム『Y』(79年)は、カヴァーにフィーチャーされた写真ともども、「パンク慣れ」していたはずの世間に小さくはない衝撃を与えた。戦場写真家としても著名なドン・マッカラン撮影によるその写真は、全身に灰色の泥を塗ったくり、同じく泥の仮面を付けて、手に手にプリミティヴな武器を持ったパプアニューギニアのアサーロ族「マッドマン」たちの集会を撮影した古い写真だった。その上に、真紅の筆字でただひと文字「Y」と殴り書きされていた。
ニューウェイヴ勢もよくジャズに手を出していたのだが、そっちはモダン・ジャズから40年代や20年代あたりのものを中心に、ポピュラー・ソングとしてのジャズ(ヴォーカルものも含む)が、どうやら興味の主軸だった。しかしポストパンクのほうは、とにかくフリー・ジャズやアヴァン・ジャズに接近した。アブストラクトでフリーキーなインプロヴィゼーションを、変則ビートを、ファンクやダブの枠組みに混入させることに腐心した。81年に分裂したポップ・グループのメンバーが散っていった先のバンドも、この課題にそれぞれが取り組んだ。ピッグバッグ、マキシマム・ジョイ、ヘッド、そしてリップ・リグ&パニックといったバンド群だ。リップ・リグ&パニックには、米フリー・ジャズ・トランペッターのドン・チェリーの養女、ネナ・チェリーがシンガーとして参加していた。
ポップ・グループのヴォーカリストだったマーク・スチュワートは、バンド解散後は、レコード・プロデューサーのエイドリアン・シャーウッドが設立したインディー・レーベル「On-Uサウンド」から作品をリリースしていく。ポストパンクとダブのあいだに架け橋をかけるようなリリースをおこなっていた同レーベルは、90年代にブリストルを拠点とした「トリップ・ホップ」一派、マッシヴ・アタックやポーティスヘッドらへと松明をつないでいく。レゲエを媒介にした、イギリスならではの「永続的な」ポストパンク路線がこれだった。こうした土台の上に花開いたUK発のダンス音楽は数多く、とくにゼロ年代以降の、同国のラップ・ソングの興隆期を決定づけた「グライム」にまで因子はつながっていく。
ギター・サウンドが特徴的なグループたち
一見もっと「パンク・ロック寄り」のサウンドのバンドも見てみよう。ギター主体の音作りで、8ビートが基本のスタイルでありながら「しかしポストパンクを感じさせる」そんなバンドだ。代表選手は、ワイヤーを置いてほかにない。77年12月発売のデビュー作『ピンク・フラッグ』が早くも「ポストパンク」呼ばわりされていたことは、すでに書いた。ここから翌78年の『チェアーズ・ミッシング』、79年の『154』へと続いていくあいだの「音の変遷」は、ギター・オリエンテッドなポストパンクのロック・スタイルが固有のアイデンティティを確立していく過程だと見ていい。このワイヤーのスタイルが「硬」とするならば、元バズコックスのハワード・ディヴォートが結成したマガジンの、ニューウェイヴにも通じるポップなアレンジは「軟」のスタイルの基礎だった。この双方のアイデアが、のちの世代に与えた影響は大きい。たとえばアメリカはオレゴン州ポートランド出身のワイパーズ(80年にアルバム・デビュー)を経由して、ニルヴァーナにまで、これら「アイデア」の波動の一部は伝達されていった。
しかし最も「硬」といえば、最も情け容赦ない「斬」のポストパンク・ギター・サウンドといえば――リーズ出身のギャング・オブ・フォーを置いて、ほかにない。ドクター・フィールグッドのウィルコ・ジョンソンから影響を受けたとされる、アンディ・ギルの「ソリッド」きわまりない鋭角的ギター・カッティングに、聴き手は戦慄した。エレクトリック・ギターの弦とは「鉄線」であること。それを遮二無二に掻きむしること。その音を電気的に「増幅」すること――これらすべてに潜む、根源的な暴力性をあからさまに前景化したかのような、特異にして切れ味抜群のギター・サウンドこそが「ギル印」だった。しかも「こんなギター」を掲げつつ、リズムは「ファンク指向」なのだから、インパクトは絶大。79年発表のデビュー・アルバム『エンターテイメント!』にて、彼らの雷鳴はポストパンク・シーンに轟きわたった。ちなみにこのバンド名は、中国の文革期に悪名を馳せた、江青ら「四人組」の英語名から来ている。だからもちろん、彼らの姿勢は明確に「政治的」だった。
ファクトリー・レコーズ
ポストパンクにおいて「ファンク」は大きかった。70年代初頭のアメリカで大きく発展したファンクとは、60年代中盤のジェームス・ブラウン(ファンキー大統領)の発明などを源流とする、激しくも熱い、そして「短いフレーズの反復が多い」新形式のダンサブルなソウル音楽だった。オリジナル・パンク世代では『ロンドン・コーリング』(79年)以降のクラッシュも積極的にファンクを取り入れてたし、もちろんイアン・デューリーの諸作も愛されていたのだが、ポストパンク界隈では、ア・サーテン・レイシオの「冷たいファンク」が決定的だった。バズコックスを生んだ、そしてポストパンクの重鎮ザ・フォールを育んだ、イングランド北部の街マンチェスターに所在するインディー・レーベル「ファクトリー」から、79年に彼らはシングル・デビューした。そしてこのファクトリーからは、個性的な「ポストパンク」バンドが続々リリースされたのだが、79年に『アンノウン・プレジャーズ』でアルバム・デビューしたジョイ・ディヴィジョンが最も巨大な「伝説」となった。
ジョイ・ディヴィジョンが結成されたのは76年。ギターのバーナード・サムナーとベースのピーター・フックが、例のセックス・ピストルズの「40人ぐらいしか入らなかった」マンチェスター公演を観たあとで、やむにやまれぬ衝動に突き動かされて、母体が生まれた。当初名乗っていたバンド名「ワルシャワ」はデヴィッド・ボウイのベルリン時代の曲名から。そしてジョイ・ディヴィジョンとは、第二次大戦中にナチスが強制収容所のなかに設けた売春施設の名だった。そこではユダヤ人女性がナチ兵を「慰安」させられていた――という史実からの命名だ。ゆえに当然のように、彼らの音楽は、底なしの暗い井戸の下へ下へと沈降していくかのごとくダークで、救いようもなく、人間世界にあるべき愛や希望やあたたかさから、あらかじめ「遠く引き離されて」いるものだった。震えながら両膝を抱えている「裸の魂」のみが感知できるだろう、きわめて微弱な「痛み」の電波のみを拾っては増幅したかのような――この特殊な暗黒ポップが、後述する「ゴス」サブカルチャーの嚆矢のひとつともなった。
そして1980年5月18日、カリスマ的ヴォーカリストにして作詞者でもあったイアン・カーティスの自殺(享年23)によって、ジョイ・ディヴィジョンは終焉する。初めてのアメリカ・ツアーに出発する前日の事件だった。残りのメンバーはバンド名をニュー・オーダーとあらため、エレクトロニック・ポップ路線へと傾斜しながらコンスタントな活動を続けていく。そして90年にはサッカー・ワールドカップのイングランド代表オフィシャル・ソング「ワールド・イン・モーション」を手掛けるまでの、国民的バンドへと成長していく。
ファクトリー・レコードからは87年にハッピー・マンデーズがアルバム・デビューする。いわゆるマッドチェスター(マンチェスターと「MAD」を掛けた造語)・ブームの始まりだ。アシッド・ハウスとバンド・サウンドがミックスされた「インディー・ダンス・クロスオーヴァー」ムーヴメントの開幕でもあった。同地を震源地に、ポストパンクからクラブ音楽までが直接接続された大騒ぎが、90年前後のイギリスを覆うことになる。
ラフ・トレード・レコーズ
ファクトリー以外にも、個性的なインディー・レーベルは多くあった。「ポストパンクの時代」とは、一面「ポスト」メジャー・レーベルの時代でもあったからだ。小回りが効いて、先見の明がある――か、バンドと同じぐらい向こう見ずな「同志たち」が集った、あたかも梁山泊のような――スモール・レーベルが多く活躍した。聴き手はしばしば、バンド名に見覚えがなくとも「このレーベルが出したのなら」との信頼感のもとに、レコードを購入した。
たとえばそんな名レーベルには、まずラフ・トレードがあった。レコード・ストアが母体となった同レーベルは、マンチェスター出身のザ・スミスをリリースしたことで名高い。文芸調のレトリックを駆使しつつバリトンで朗々と歌うモリッシーと、ザ・バーズ由来の「ジャングリー」ギターにてグルーヴを叩き出すギタリスト、ジョニー・マーを二枚看板としたスミスは、インディー・チャートのみならず、全英チャートを制するほどの支持を得た。サッチャー政権に、女王を擁する君主制に叛旗をひるがえすような姿勢は明確ながらも、たとえばピストルズのように「怒る」のではなく、社会的に追い詰められた立場にいる個人の心情に内在しては独白を代弁するかのような、巧みなポジショニングを得意とした。
つまりはイギリス伝来の「キッチンシンク・リアリズム(=Kitchen sink realism)」のポップ音楽版だった。日本語にすると「台所の流しリアリズム」となるこれは、50年代後半から60年代前半のイギリスで隆盛を見た、社会主義リアリズムに立脚した演劇や映画、小説などにまたがる文化運動だった。困難のなかにある労働者階級の貧者、異端者などをストーリーの主軸に据えたもので、いわゆる「怒れる若者」像はここから生まれた。だからその精髄、つまりアラン・シリトーの小説諸作や、ジョン・オズボーンの戯曲『怒りをこめて振り返れ』などからつらなる流れのなかに、正しくモリッシーの歌詞も位置していた。その上で(これは彼らにのみ許された特権的な立場として)断崖絶壁の端っこで「今夜だけ、いまだけは」と、自己憐憫と自己嫌悪の狭間で耽美に酔いながら舞い踊るような音楽的特性によって、さらなる妙味が生まれた。ニューヨーク・ドールズを、パティ・スミスを、オスカー・ワイルドを愛するモリッシーの文学性および美学が、スミスの独自性を際立たせたのだ。彼らは80年代半ばのイギリスにおける、時代精神の一断面を象徴するバンドとなった。このラフ・トレードからは、モノクローム・セットもデビューして、のちにチェリー・レッドに移籍した。
チェリー・レッド・レコーズ
そのチェリー・レッド・レコーズも愛された。エヴリシング・バット・ザ・ガールの、というよりも、トレイシー・ソーンとベン・ワットの諸作をリリースしたことでまず名高い。とくに両者のデビュー・アルバム(ソーンは82年、ワットは83年)はインディー・シーンに衝撃を与えた。両作ともに、訥々とした弾き語り基調の曲が並ぶのだが、まるで大戦争後の爆心地で、あるいは大暴風雨を避けるシェルターのなかで歌われているボサノヴァのごとき「異形の」アコースティック・ポップだったからだ。「これぞポストパンク」と聴き手をうならせる、破滅的なまでの「殺菌力」が、2人のナンバーには充満していた。もっと「甘い」路線を開拓したバンド、フェルトもチェリー・レッドからデビューして一定の人気を得た。レーベルのショウケース的コンピレーション・アルバム『ピロウズ・アンド・プレイヤーズ』(82年)も愛された。
ポストカード・レコーズ
同様にアコースティック・ポップでブレイクしたスコットランドのアズテック・カメラは、さらに明るく、アイドル指向ではあった(ゆえに、ニューウェイヴ区分で語られることのほうが多い)。スパニッシュ・ギターを効果的に組み入れた爽快ポップ・ソングは、幅広い人気を得たのだが、彼らのシングルを最初にリリースしたのは、同じスコットランドはグラスゴーのインディー・レーベル「ポストカード」だった。同レーベルの共同創設者であるエドウィン・コリンズ率いるバンド、オレンジ・ジュースもここからレコード・デビューした。あたかもラモーンズのごとく、「自らが可能な」方法論のみでソウル音楽を追求した彼らは、メジャー・デビュー後のシングルである「リップ・イット・アップ」(83年)が、全英8位にまで上昇するヒットとなる。同曲は日本のローランド製電子楽器「TB-303」をベースラインに使用していたことでも歴史に名を残した。のちに、おもにクラブ音楽やR&B界隈で盛んにフィーチャーされることになる同機なのだが、チャート入りするほどのヒット曲に使われた、ごく初期の例がこれだったからだ。フランツ・カフカ『審判』の主人公の名前を掲げたバンド、ジョセフKもただ1枚だけのアルバムをポストカードに残した。
クリエイション・レコーズ
クリエイション・レコーズが誕生したのも、このころだ。83年、スコットランドはグラスゴー出身のアラン・マッギーらが設立した。セックス・ピストルズやPiLのファンだったマッギーは、のちにレーベルをソニーに売却し、93年にはオアシスを発掘して大成功をおさめる。しかしそこに至るまでのリリース、プライマル・スクリームやマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの諸作などがロック・ファンから高い評価を受け、文字どおり90年代以降の「インディー・ロック」各種の雛形となるほどまでにも愛された。つまりポストパンクから、シューゲイザー、マッドチェスターを経て、ブリット・ポップの狂騒に至るまでの波をすべてひっかぶったレーベルがクリエイションであり、その栄枯盛衰は映画にもなった。
2トーン・レコーズ
時期が前後するが、ポストパンクの時代、個性的ということならば、2トーン・レコーズほど個性的なレーベルはなかった。79年、イングランド中部の街コヴェントリー――かつては自動車製造業などで栄えた工業都市だった――にてスタートした同レーベルは「スカ・リヴァイヴァル」一大ブームの震源地となった。ジャマイカ発のレゲエ音楽の、最も原初的な形態のひとつとして60年代前半に隆盛をきわめたのがスカだった。このスカを、パンク・ロック精神で「焼き直し」たのがザ・スペシャルズで、キーボーディストのジェリー・ダマーズがレーベルの創始者となった。白人と黒人のメンバーが同格で並ぶスペシャルズの姿勢の反映として、白と黒の「2トーン」をレーベル名として掲げた。精神性のシンボルとした白黒のチェッカー柄(日本で言う市松模様)も、レコード・スリーヴなどのグラフィック・デザインに多用されて、こっちも流行した。スペシャルズのほかには、ザ・セレクター、ザ・ビートがいた。そして、のちにはイギリスの国民的なバンドとして愛唱歌の数々を世に送り出すマッドネスも、この2トーンからシングル・デビューした。このあと地球上に存在するすべてのスカ・パンク・バンドは、もちろん今日に至ってもなお、2トーンからリリースされた名曲の数々に「ほとんど、かならず」なんらかの影響を受けていると言っていい。
【今週(は超大盤)の14曲】
PIL - Live on Check It Out 1979 (full version)
The Pop Group / She's Beyond Good and Evil
Papa's Got a Brand New Pigbag (12" Version)
Magazine - Because You're Frightened (Remastered 2007)
Gang of Four - Natural's Not in It
A Certain Ratio - Do The Du (Official Audio)
Joy Division - Transmission [OFFICIAL MUSIC VIDEO]
New Order - Blue Monday (Official Lyric Video)
The Smiths - What Difference Does It Make? (Official Music Video)
Ben Watt - Some Things Don't Matter
Tracey Thorn - Femme Fatale
Orange Juice - Falling And Laughing (The Haçienda, Manchester, 15th June 1982)
Primal Scream - Gentle Tuesday (Official Video)
The Specials "You're Wondering Now" (Live: Colchester Institute 24-12-1979)
(次週に続く)