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5:日本人にはポストパンクが難しく、歌謡曲が「簡単」だというその理由——『教養としてのパンク・ロック』第37回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第5章:日本は「ある種の」パンク・ロック天国だった

5:日本人にはポストパンクが難しく、歌謡曲が「簡単」だというその理由

「女性陣以外」のポストパンク

 それ以外のところ、つまり「女性陣以外」のポストパンクも見てみよう。ちょうど「バンド・ブーム」世代から遠くないあたりの「異物」に、やはりか細いながらもポストパンクの係累があった。そのひとつが、電気グルーヴだ。ニュー・オーダーをこよなく愛し、ダンス音楽と笑い(と人情)を真摯に追求する彼らは、正しくポストパンク的アーティストだと言える。

 政治性、社会性ということで言うならば、中川敬が率いるソウル・フラワー・ユニオンをおいてほかにない。前身バンドのニューエスト・モデル時代から、クラッシュのように、ビリー・ブラッグのように、つねに社会的不公正と対峙し続ける姿勢は、日本にではきわめてめずらしい。またポップ音楽だけではなく、世界各地の民謡や俗謡、労働歌や革命歌などの要素もレパートリーに取り入れ続ける雑食性の高い胃袋および、そこから生じてくる歌心の強靭さも日本人離れしている。

 フィッシュマンズも、よく考えてみれば、ポストパンクの文脈に位置するのかもしれない。近年とみに海外でも評価が高まっている彼らは、なにしろ、ダブにしてドリーム・ポップなのだ。それであの歌詞の内容なのだから(一見、怒っていないように見えても)じつは十二分に、ポストパンクの青白き小さな焔が身中どこかでちろちろと燃えていたのかもしれない。マッシヴ・アタックあたりにも通じるのかもしれない。ヴォーカルの佐藤伸治が傾倒していた先輩バンドであるミュート・ビートの、当時地球規模で屈指のユニークさだった「冷たい」ダブも、たしかにポストパンク的だった。

 ダンス音楽の領域にも、ポストパンクの流れはあった。日本で最初のクラブ系ダンス音楽専門レーベル「メジャー・フォース」の諸作は、当初ヒップホップが中心ながら、ポストパンクを好む者の耳に侵入した。ちょうどマルコム・マクラーレンが初のソロ・アルバム(!)『ダック・ロック』(83年)でやったように。メジャー・フォースのファンは海外にも多く、イギリスのレーベル「モ・ワックス」を運営するDJジェームズ・ラヴェルはリイシュー音源をいくつもリリースしている。このメジャー・フォースを設立したのは、高木完、藤原ヒロシ、屋敷豪太、工藤昌之、元プラスティックス/MELONの中西俊夫だったのだが、高木と藤原が組んでいたヒップホップ・ユニット「タイニー・パンクス」および、それぞれのソロ作品のどれも、やはりポストパンク色が強い。つまり「パンクの魂」が反響し続けているわけだ。

原宿

 マルコム・マクラーレンやヴィヴィアン・ウエストウッドとも交遊した藤原ヒロシは、日本で初めて大々的にスクラッチを駆使したDJとしても知られている。そんな彼は90年代以降、アパレルやデザイン業界でもカリスマ的存在となっていくのだが、その活動の基盤となっている地が「原宿だった」のは偶然ではない。90年代発祥の「裏原系」と総称されるストリート・ブランド群が、ゼロ年代以降大きく発展していった。〈A BATHING APE〉も〈UNDERCOVER〉もこの流れのなかにあり、いわゆる「コラボ」文化の走りとなる新発想の宝庫だった。こうしたアイデアがたとえばパリのカリスマ・セレクトショップ〈コレット〉などを経由して、2010年代以降、同地やミラノ、ロンドンを中心とするハイブランド勢に「ほぼ、そのまま」模倣されることになる。キーワードとなったのは「ストリート」文化であり、具体的にはヒップホップおよび「パンク」から影響を受けた――ありとあらゆる意匠やアイデアが、まるで古典美術のモチーフであるかのようにしてうやうやしく、ラグジュアリーな商品へと起用されていくことになる。

 日本「ならでは」の特殊事情のひとつが、原宿周辺に満ち溢れていたものだ。未成年もしくは年若い世代に向けての洋服や雑貨などの販売店が、これほどの規模と密度で集積し、長年にわたって栄華を誇っていた例は、ほかの地球上にはほとんどない(最盛期のロンドンのキングス・ロードやカーナビー・ストリートよりも、ずっと巨大だった)。ここの「豊かさ」が、パンク・ロックやその後のアンダーグラウンド音楽や文化の「パトロン」となる例も、ままあった。海外のバンドやDJのツアーを手伝ったり、手弁当で運営したりするような例だ。

夢の国

 これのもっと大規模なものが、ときには企業の冠コンサートなどの形でおこなわれていたのも80年代だった。だからその恩恵に預かって、パンクやポストパンク・バンドも多く来日したし、日本のミュージシャンとも共演した。たとえばドクター・フィールグッドのウィルコ・ジョンソンは幾度も来日公演したし、シーナ&ロケッツの鮎川誠とレコーディングで共演したりした。イアン・デューリーと忌野清志郎もライヴで共演した。また忌野は、デューリーのバック・バンド、ブロックヘッズらとともにロンドンで初のソロ・アルバムを制作、87年に発表した。普通の国だったら「オールド・ウェイヴ」かもしれない、このときすでにデビュー20周年近くのヴェテラン・ロック・アーティストだった忌野が、率先してパブ・ロックやパンク・ファンクの練達たちと交流していたのは興味深い現象だった。

 こうした流れのなかで、ジョニー・サンダースの来日もあった。これは未確認情報なのだが、なんでも80年代後半、来日中の彼が、法政大学二部のゼミ合宿に参加したことがある(?)というものだ。それ以上の詳しい話はわからないのだが、あのジョニー・サンダースが、もしかしたらジャージなど履いて、お座敷もしくはキャンプファイヤーの前などで、学生といっしょにギターなど弾き、「ボーン・トゥ・ルーズ」を歌ったりしていた――ようなことは、あったのか、なかったのか。サンダースは親日家だった(原宿の〈クリームソーダ〉が大好きだった)。ちなみにその後の彼は、ライヴ・ツアー以外にも「イカ天」で人気者になったパンク・ロック風のバンド「えび」のレコーディングも参加した。91年7月にリリースされた彼らのメジャー・デビュー・アルバム『にくまれっこ世にはばかる』には、1曲、サンダースがゲスト参加している(曲名「ファッキンP×××××!」)。巷間、このときに得た現金収入が意外に大きかったため、ドラッグを多く購入しすぎて、過剰摂取にて帰らぬ人となった、という説もある。91年4月23日、彼は日本から帰国したあとで滞在していたニューオーリンズのホテルの部屋にて、心臓発作で死亡した。享年38。このあとはドイツでのライヴが控えていたという。

 かつて60年代初頭のイギリスは、アメリカでは全盛期を過ぎたと見られていたロカビリー・スター、ロックンロール歌手らの、格好の出稼ぎ先となっていた。大歓迎されて、お客もよく入った。そんなお客のなかから、ビートルズも誕生した。エディ・コクラン、ジーン・ヴィンセントもそうしたサーキットのなかにいて、そして、60年のイギリス・ツアー中に交通事故に遭う。コクランは死亡し、ヴィンセントは重傷を負った。そんな故事の焼き直しのような出来事の数々が、日本の場合は、ただ80年代から90年代にのみ集中して起こっていたのかもしれない。ある意味で日本も英米のパンク系の十年選手、ヴェテランたちにとっての「夢の国」だったのかもしれない。あたかも草創期のJリーグが、各国の往年の名選手たちを買い集めていたように。

リチャード・ブランソン

 ヴァージン・グループ総帥のリチャード・ブランソンすら、日本を都合よく利用した。なぜならば、90年代初頭には「ヴァージン・レコードの日本ブランチ」があったからだ。その名もヴァージン・ジャパンは、当時飛ぶ鳥をも落とす勢いだったフジサンケイ・グループから出資を受けて設立された会社だった。だから代表取締役は、『オレたちひょうきん族』の牧師さん姿でお馴染みの、フジテレビのプロデューサー、横澤彪だった。91年、そんなレーベルから「鳴り物入りで」デビューしていった日本人アーティスト第一陣のなかに、先述のフィッシュマンズがいた。のちに佐藤は、僕に教えてくれた。「ヴァージンからデビューが決まったときは、友だちに言われたよ。『いいよなあ、うらやましいよなあ』って」。ふっと鼻で笑い飛ばすような、シニカルな口調で――なぜならば、92年6月、ブランソンは突如ヴァージン・レコードをまるごと英EMIに売却してしまったからだ。もちろんヴァージン・ジャパンの「洋楽部門」のカタログはすべて引っこ抜かれて、日本では当時の東芝EMIへと移動。しょうがないからヴァージン・ジャパンの邦楽部門だけは後継会社(メディア・レモラス)にして、アーティストとは契約の継続を試みて……といった大混乱を、僕は至近距離で目撃した。このときに解雇された社員も少なくなかった、という。

 この売却劇は、ブランソンが自前の航空会社ヴァージン・アトランティックのための資金を得るための措置である、と報道された。つまり「未来ある」航空事業のために「自分を育ててくれた」レーベル業を投げ出したという顛末だ。そしておそらくは、このときのレーベルの「売り値」を多少ならずとも吊り上げるために、あらかじめ計画的にジャパン・マネー(=フジサンケイの資金)を呼び込んでおいたのではないか、とも当時僕は推測した。かくして、セックス・ピストルズのカタログも、かつてロットンらが名指しで当てこすりを投擲していた(「EMI」という曲がある)、バンドに最初の三行半を突き付けたレーベルの所有物となってしまったのが、90年代のここらへんだった。そんな過程の途中で、一瞬だけピストルズやPiLらとの時空を超えたレーベル・メイトとなっていたフィッシュマンズは、やはりポストパンクだったのだろう。

 日本の音楽市場は、その全体が、大前提として「特殊」なものだった。この観点なくして、国産のパンクもロックもなにも、語ることはできない。

歌謡曲の存在

 特殊性の最たる点は、歌謡曲の存在だ。歌謡曲とは、音楽ジャンルですらない。言うなれば「日本そのもの」の似姿であるかのような、同国のポピュラー音楽のありかたを表した概念にほかならない。西洋を中心とする海外のポピュラー・ソングの枠組みを借りてこしらえた「日本語歌詞の商業音楽のすべて」が、基本そっくりそのまま、歌謡曲となり得る。ゆえに戦前より「ジャズ風」「ハワイアン風」の音楽性を「借りた」歌謡曲は無数にあったし、戦後はそこに、カントリー&ウェスタン、ロカビリー、マージー・ビート、R&B、マンボにドドンパ、サンバにボサノヴァ、シャンソンにタンゴまで、みんな適当に「歌謡曲」になった。つまり、どれもこれも「日本語世界に商品として置き直すための」特殊ヴァージョンに仕立て上げられたというわけだ。これは日本において西洋料理が「洋食」となった過程、インド料理が「カレーライス」に、中国料理の一部が「町中華のメニュー」になっていった流れとほぼ同じ。つまり「胃袋に入るものは、結局はみんな『歌謡曲』なんだよ」というような、暗黙の合意がどこかにあった。なにはなくとも白いゴハン的な「日本人なら、わかるよね」という、例のやつだ。だからJポップもシティ・ポップもニューミュージックも、そんなものはすべて「歌謡曲の言い換え」もしくはサブジャンルでしかない。もちろん(ブルーハーツ以外の)「ビートパンク」のすべても。

 さらには、こんな症例もあった。たとえば「ネオアコ」「ギターポップ」など、日本発祥の胡乱な洋楽カテゴリーを捏造しては、そこにカルト的に固執してしまうような――そこには、深刻なる病の根があった。これらはおもに80年代から90年代にかけて、洋楽のポストパンクやニューウェイヴ、インディー・ロック/ポップの一部作品に冠せられた呼び名だったのだが、とくにそれら対象曲の表現の核心(音楽性の芯や歌詞の内容、アーティストの思想信条など)に準拠していたわけではない。ただ聴き手側の一定の嗜好性によってラベリングされていっただけのもの。しかも判断基準は、レコーディング作品のアレンジや音全体のテイスト、さらにはヴィジュアル・イメージ(レコードのスリーヴ・デザインやアーティスト写真など)といった「ぼんやりした印象」のみ。それで網にかかれば入れ物のなかに放り込むという、つまり元来は気軽な「遊び」ぐらいのものだった、のだろう。だから近年の「ヨット・ロック」の流行などに、構造としてはよく似ていた。ユーモラスなサブジャンル認識遊び、というやつだ。リスナー側のそうした遊びは、たしかに国際的によくある話ではある(古くは「ヘア・メタル」なんかがこの例にあてはまる)。

 しかし日本のこの場合における問題は、これが「遊び」ではなく、なにやら妙な信仰に化けてしまった点にある。あたかもそんな「架空のジャンル」を「なにか意味のあるカテゴリーなのだ」と信じ込むような誤謬が発生して――当たり前だが、そんな地点から、実質的な意義あるものなど、生まれ得るはずもない。事実と願望を入れ違いに認識してしまった、完全なる倒錯が出発地点となっているからだ。たとえば想像してみてほしいのだが、「ヨット・ロック」に命を賭けるアーティストなど、(たぶん間違いなく)地球上にいない、それと同じ理屈なのだが……しかし「それをこそ、目指してしまう」かのような、無為なるカルト行為の連鎖が当時の日本では起こってしまい、ゆえに、そこに甚大なる弊害が生じてしまう。つまりうまく育てば、いっぱしのポストパンクになったかもしれない、リスナーのなかに生じ得た「芽」のようなものが、軒並み「刈り取られていった」のが90年代以降の日本の悲劇の一端だったと見ることもできる。

 とまれ、精神性はあと回しにして(あるいは、まったく無視して)「外形的な特徴とも言えぬ特徴にのみ執着する」という最大特徴において、やはりこれら「ネオアコ」「ギターポップ」病というのも、じつに日本的なガラパゴス症状だったと言うほかないだろう。「歌謡曲」脳こそが生み出したカルトだったわけだ。

 つまり「そこ」にこそ、日本のポップ音楽における最大の問題点があったのだ。ゆえに古来より、日本の先鋭的ロック・アーティストは歌謡曲を敵視した。「歌謡曲になってしまったら」それはすなわち、洋楽のロックにすこしぐらい似てはいても「じつはロックではない」ものに、なってしまうからだ。それは旧態然とした「日本としか言いようのないもの」にするりと飲み込まれていくことを意味したから。体制の言うがままになるだけの存在に、成り下がることと同義だったから。

真の敵の正体

 元来、日本において舶来の「やんちゃな」文物を好む人々は、それによって精神を武装しては「日本としか言いようのないもの」と対峙しようとした。対峙することで、(日本においては歴史的に未分化のまま放置されている)個人としての尊厳をどうにか確立しようと試みたのだ。無力に「日本」に飲み込まれていくことをいさぎよしとせず、「あらがう」ほうを選んだわけだ。ゆえに「本物」をこそ指向した。フリクションの面々のように、上海バンスキングの面々のように、海を越えていった。歌謡曲というものの本質が、さらに言えば「日本そのもの」が、とにかく肌に合わなかったから。許せなかったから。

 歌謡曲の正体とは、輸入されてきた文化を「脱臭」して、洗いざらして――元来はその部分にこそ、音楽の「向こう側」にいる人々の汗や血や魂の最も重要なる一部分が染み込んでいたのに――そこはしっかりと抜き去っておいてから、「外側のみ」を、まるで剥製のようにして日本に土着化させたものにほかならなかった。ゆえに「歌謡曲でいいや」と頭を垂れることは、なによりもまず、体制への全面降伏を意味した。父に、母に、祖父母に、先祖に、地域の古老に、日本政府に、そしてなにより、天皇陛下に――自分がこの世に生まれるずっと前から連綿とあった「権威」に屈従しては「お願いです、生きさせてください」と頼み込むような姿勢をこそ、意味した。

 だから日本においてはまず「この構図」そのものに「ふざけんなよ」と楯突くような思想と、「輸入されてきたロック」とが結びついたわけだ。アナーキーの「東京イズバーニング」も、これとまったく同じ。そう、日本におけるパンク・ロックやポストパンクとは、その特殊な前提条件ゆえ、英米のように「ロックやポップのオールドウェイヴ」と衝突するようなものではなかったのだ。なぜならば、日本人にとっては「ロックもパンクも」かそけき輸入文化であることに変わりはなく、実のあるものとして根付いたことは一度もなかった。つまり「ロックもパンクも」仮にその愛好者の世代が違ったとしても、無二の仲間とのニュアンスのほうが強かった。なぜならばこの地には、いつもいつも一切変わらず、あくなき貪欲さで「外来文化をすべて飲み込み、『土着化』させては権威に帰順させようとする」そんな風土が強固にあり続けていたからだ。それこそが「真の敵の正体」にほかならなかったからだ。

パンクは利用しやすかった

 だから言い換えると、ブルーハーツの文化的達成および商業的成功によって「ビートパンク」や「インディーズ」などと読み替えられて人口に膾炙してしまったパンク・ロックとは、これまた「歌謡曲の亜種」でしかないものに、いつの間にか変質していたのだった。あるいは僕が前章の「1:産業化したニューウェイヴが、パンクを消し去った」の項で述べた、ニューウェイヴの構造にも近かったかもしれない。「決して『魂を入れてはならない』」「よく出来た『外側だけが、それっぽい」ものとしてあればいい――というやつだ。たしかに「パンクは利用しやすかった」のだ。「それっぽい」特徴さえつかまえれば、誰でもすぐに「パンクらしきことができる」のが一大特徴でもあり、ゆえに地球規模で流行したのだから。その逆に、残念なことに、だからこそ日本では「ポストパンクは、難しかった」とも言える。外形的には「なんでもあり」なのだけれども、しかし「精神がパンクであること」を強く求められるものがポストパンクだったからだ。歌謡曲に平気で帰順していけるような精神構造を持つ人物であるならば、その者の内面に「パンクの魂」が宿ることは一切ない。だから絶対に、ポストパンクとは、ならない。

 ゆえに、逆にこう言い切ることも容易だ。なにがどうあっても、天地が逆さになっても、S.O.BやG.I.S.M.が歌謡曲になることはまずない、と。日本人にとってパンク・ロックがかけがえのないものである理由は、まず第一に「そこ」にあるのかもしれない。変化しようとしない日本というもの、そのものに対しての、永遠なる「反逆」の象徴ともなり得るものなのだから。

市民革命のなかった国 

 日本の政体は市民革命の洗礼を一度も受けていない(明治維新は革命ではない)。だから権力機構および権威のありかた、それを維持するための抑圧装置の構造は、ほぼ封建時代からの持ち越しにも近いものが、今日まで連綿と続いている。ゆえに日本人にとってのパンク・ロックとは、文化的行為の上だけでも「革命」につながるような精神の高揚を、反逆ののろしを上げるようなイメージを、仮想的に体験できるものだったのかもしれない。

 アメリカもイギリスも「革命を経た」国だ。アメリカの「独立戦争」と日本では言われているが、これは(おそらくは明治政府による意図的な)誤訳だ。アメリカ英語では、普通「American Revolution(アメリカ革命)」となる。もしくはRevolutionary Warだ。なぜならば、イギリスから独立した上で新たな王を頂いたわけではなく、共和制の民主主義国家を作ったのだから、「市民革命」以外のなにものでもない。片やイギリスの革命はアメリカやフランスほど徹底的かつ派手ではなかったのだが、しかし17世紀のピューリタン革命と名誉革命の2連発は、人類史上に残る大きな出来事ではあった。前者がステュアート朝の絶対王政を打倒して共和制を樹立、後者は王権を制限し言論の自由を決議、立憲君主制を招来するに至った。つまりこれら「革命の子孫たち」の国から、そのなかでもかなり「地べたに近い」層から生まれてきた音楽文化がパンク・ロックだったということは、じつはとても重要だ。そして日本人が(かなり日本風に変形したものであったとしても)「ことのほか」それを好んでいる、という事実もまた。

 ゆえに僕は、「パンクに引き寄せられる」日本人の心意気を買うのだ。ボウイに笑われようとも――いや、つい吹き出されてしまうほどの真摯さが、そこにはあることの証しなのだから、これはきっと「いいこと」なのだろう――だって「真面目なこと言うのって、かっこ悪いよね」なんていう風潮、おそろしく過去のものとなってから長い。そんなこと言ってはくすくす笑い合っていられるほど、90年代以降の日本は呑気な国ではない。

 だからもしあなたが深い憤りを自覚した上で、あたりを見回してみようとしたときに、きっと「本物の」パンク・ロックはとても役に立つはずだ。そしてあたかも「ポストパンク・バンドのように」ひとりひとりが冷静に的確に、社会構造における「矛盾」そのものと向き合っていかねばならない時間は、ここ日本でも、すでに始まっているのだから。

【今週の5曲】

電気グルーヴ - N.O.

94年のスマッシュ・ヒット。電気グルーヴの青春センチメンタリズム面およびニュー・オーダー魂を代表するナンバーとして、いまなお人気が高い。

SOUL FLOWER UNION - 満月の夕(ゆうべ) [1995 Official Video]

95年10月発表。同年1月の阪神・淡路大震災の惨禍にも負けず生きていく人々の姿が象徴的に歌われている。幾度も被災地を慰問した中川が、ヒートウェイヴの山口洋と共作した。日本の民謡、チンドン太鼓などの音楽的エッセンスが、ポーグスやマヌー・チャオの諸作などにも通じるような、強靭なる抒情として結実した名曲。

Fishmans - Walking in the Rhythm [MUSIC VIDEO] (HQ)

97年のアルバム『宇宙 日本 世田谷』に収録。この寂寥、この哀調、透明感に加えて「低域で鳴り続ける」ベース・サウンドが永遠の命を育んだ。いわゆる「後期」フィッシュマンズ屈指の人気曲のこのナンバーは、ポストパンクにきわめて近い位置にある。

Mute Beat - Summertime-Fozen Sun

フィッシュマンズ・佐藤伸治が敬愛した先輩バンド、ミュート・ビート初期の名演。「こんな冷たいレゲエがある」ことに、世界中の少なくない人が驚愕した。86年作。

RETURN of the ORIGINAL ART FORM (feat. DJ MILO)

89年製。いわゆる「メジャー・フォース」クラシックスのひとつ。海外でも人気が高く、のちに英モ・ワックスからジュラシック5のDJカット・ケミストによるリミックス版もリリースされたほど。

(ついに来週、最終回!)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki

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