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03_「偏差値」はなぜ生まれ、批判されるに至ったか

三四郎的近代 

今回も少々個人的な物語から説き起こしたい。第1回で述べたように、私は山口県の出身である。大学に入った時点で「上京」した。1993年のことであった。

 中学生時代は勉強ができず落ちこぼれていた。謙遜ではなく、定期試験では後ろから数えた方が早いような状態だった。担任の先生に発破をかけられてなんとか県立高校に入学した(田舎では県立高校が進学校である)。

 その後は、大学に入るために勉強をした。その際に、志望校については、家がそれほどに裕福というわけでもなく、三男ということもあったので、基本的には国公立大学を見すえるようになった。最初に考えたのは地元の国立大学の山口大学だった。勉強しているうちに、模試での成績が上がっていき、広島大学や神戸大学に手が届くようになってきた。細かなことは覚えていないが、さらに成績が上がっていって、なぜか阪大や京大は飛ばして東京に目が向いた。そこで東大を目指すかといえば、東大は一次試験(センター試験)で社会の科目を2科目受験しなければならなかったのでそれには手が届かず、一橋大学という、私の目には個性的に映った国立大学を受験することになった。

 つまらない、凡庸な話ではある。だが、この凡庸な私の半生記は、日本近代のある側面の典型でもあるだろう。私はそれを『三四郎』的近代と名づけたい。

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 夏目漱石の『三四郎』は、主人公の三四郎が東京帝国大学で学ぶために、地元の九州(福岡)から東京へと列車で移動する場面から始まる。山口から東京に移動した私は、この三四郎の移動をなぞったわけだが、それは決して地理的になぞったというだけではない。この地理的移動とある種の階級移動、そしてさらには日本から西洋近代へといった歴史的な移動が重ね合わされており、そこに個人の成長も重ね合わされている。実際、三四郎は路線の上で西洋人を目撃し、日本は「滅びるね」と喝破して、日本的なものを相対化する──この「相対化」が日本近代の「教養」の鍵だが──広田先生に出会う。

 ここには東京を中心とした「メリトクラシー」の地図がある。メリトクラシーとは、「能力主義(社会)」「実力主義(社会)」と訳される言葉だ。人間が、生まれ落ちた階層ではなく、一代の努力によって社会的地位や富を勝ちとることができること、またはそのような社会のことだ。三四郎が乗る福岡から東京への路線は(そして私が乗った山口から東京への路線は)そのメリトクラシーの「はしご」である。

 メリトクラシーというと、否定的にとらえる人が多いかもしれない。「メリトクラシー」とは、イギリスの社会学者マイケル・ヤングが1958年の著作『メリトクラシーの勃興 』(邦訳は『メリトクラシーの法則』)において使用した造語であるが、実際、この作品は、競争的で選別的な教育システム(三分岐制と呼ばれる、当時のイギリスの選別的な教育制度)とそれに基づく実力主義社会をディストピアとして描いたフィクション的エッセイである。

 だが、メリトクラシーには解放作用もある。それは、人間が生まれ落ちた階級に縛られることなく、一世代の努力によっていかなる社会階級にも移動することができるという理念なのだから。

 しかしそれでもやはりそこには、社会を階層や「はしご」として見る見方がぬぐい難くある。平等原則と階層化の原則。後者の階層化を要請するのは、簡単に言えば資本主義社会である。この二面性がメリトクラシーの肝だ。

 そのような二面性を日本において最初に表現したのは、漱石の一世代前の福沢諭吉の、言わずと知れた『学問のすゝめ』であろう。この本が、

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」といへり

という一文で始まることは有名だ。アメリカの独立宣言を引用しつつ、明治の天賦人権思想を代表するこの一文は、身分にしばられることのない平等の思想を宣言する。

 だが、つづく節で

されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、そのありさま雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや

という問いかけがなされ、

賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとによりて出来るものなり

と応答されていることは、あまり知られていないかもしれない(講談社学術文庫版より引用)。

 つまり、『学問のすゝめ』は、メリトクラシーの二面性をその最初の頁であますところなく表現している。人の人生が生まれの身分に制限されない自由と、その一方で社会を「はしご」とみなし、そのはしごを昇ったりそこから落伍したりといったイメージで社会を見る観念だ。そして、学ぶこと、教育は、そのようなはしごとして機能する。三四郎も私も、この「はしご」を昇ったのである。

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学歴社会と格差社会

 ただし、ごく広い近代の構造という意味では三四郎と私の経験には共通性があるものの、歴史のスパンの取り方によってはそこには決定的な違いもある。

 まずそもそも、メリトクラシーとは言っても1908年(明治41年)に朝日新聞に連載された『三四郎』のメリトクラシーと、私が経験した現代のメリトクラシーは様変わりしている。当時帝国大学に進学するというのは、「教養課程」的な旧制高校を出て、現在で言えば大学院に行くのに近い。三四郎の年齢は23歳である(これについては本連載の第2回の「接続」についての議論を参照)。

 また、私が受験勉強をしながら思い描いた日本地図、つまり山口に始まって広島、神戸、東京へと進学の可能性とそれにともなう想像が広がっていった地図のあり方の背景には、「偏差値」という三四郎の時代には存在しなかった尺度が存在した。そして、現在は偏差値以外のさまざまな「尺度」が提案されてはいるものの、いまだに偏差値は受験における最大の尺度として通用している。私は東京を中心とする日本地図を、偏差値という「はしご」のイメージで見ていたのだ。

 学歴と日本社会についての「不都合な真実」を確認しておこう。社会学者の吉川徹が『日本の分断』(光文社新書)や『学歴分断社会』(ちくま新書)で述べているように、日本は歴然とした学歴社会である。ただし、一口に「学歴社会」と言っても、さまざまなありようがある。それは基本的には教育がメリトクラシーの装置になっていることを意味する。どのような学校を出ているかということが、社会階層の選別の手段になっているということだ。ただ、よく言われるように、日本においてはどのような学校や大学に「入学」したかという点が重要であるのに対して、欧米においてはどのような「卒業資格」を保持しているかが重視されるといった違いはある。私たちは、「学歴社会」について何かを言うときには、どの学歴社会のことを言っているのかを明確にしなければならない。

 私はここまで、また本論の後半では基本的に大学のことを論じている。だが、それ以前の前提を見失ってはならない。つまり、どの大学の出身か、ということ以前に、日本には高卒か大卒かという選別が存在するのだ。吉川はその点を説得的に論じている。

 現在、高校(通信制含む)への進学率は98%を超えている。大学(短大含む)への進学率は54%強である。吉川が述べる通り、中卒という学歴とそれにともなう貧困は、ここまで割合が少なくなると、それ独自の問題として取り扱われるべきだろう。現在、日本ではほぼすべての人間が高校を卒業し、半数強が大学に進学(そしてほとんど卒業)している。

 「不都合な真実」だというのは、この学歴と人口比と、日本社会における「階層」を結びつけた時に、まず出てくる強いリアクションが、「それは学歴差別だ」というものであるためだ。さらには、学歴と職業を関連づけ、それを階層に関連づけると、「職業差別である」というリアクションもおまけについてくる。これでは議論さえ始められない。もちろん、学歴と階層(そして職業)との結びつきは、論者の何らかの価値判断として述べられているのではなく、「事実」として述べられているはずである。ところが、筆者の経験では上記のような「差別だ」という強い反応がある。それが、日本における学歴と階層との関係についての議論を停滞させてきた。

 それはともかく、先ほど触れた吉川徹はそのような火中の栗を拾って、日本の学歴と階層との関係についてさまざまな洞察を提供してくれている。とりあえずの見取り図を描くなら、先ほど述べた高校への進学率が高止まりとなるのは1970年代半ばであるのだが、それはまさに高度経済成長が一段落して「一億総中流」が実現したとされる時代に一致する。日本の高学歴社会化は、社会全体が豊かになり、中流化が進んでいった原因であり結果なのだ。

 高校への進学率の高止まりにつづいたのは、大学進学率の上昇である。私が大学に入学した1990年代前半には大学進学率は25%ほど(短大も含めると40%ほど)に増加し、さらにその後先ほど述べた通り50%を超えてきている。だが、吉川はこの50%程度を、高等教育進学率の高止まりと見ている。それは国際比較からも言えて、例えばアメリカはすでに何十年にもわたって大学進学率はほぼ60%である。ただし、入りやすく卒業しにくいアメリカの大学の特徴から、現状では学位保持者は日本の方が割合が少し高いくらいだという(『学歴分断社会』 No. 131)。

 今のところ、現象としては先進国での高等教育への進学率は50%あたりで高止まりしている。それがなぜ50%なのかは、さまざまな説はあるが、「いまのところ確定的なことはわかってい」ないという(『学歴分断社会』No. 233)。だが、日本の学齢社会のあり方は「成熟学歴社会」と呼べるものであり、現在のような趨勢はしばらくつづくだろうと吉川は見る。

 読者は、それでは、高卒者と大卒者の間の階級分断が、2000年代以降議論のかまびすしい「格差社会」の内容なのだと思われるだろうか。一時期はやった「下流」とは、つまりは高卒者層のことだと。吉川の結論は部分的にはその通りだが、重要な点で違う。吉川は、格差社会の上流と下流の内実は大卒と高卒であると一方では述べるが、ただし日本においては一部で言われるほどの格差が生じていないとも指摘する。つまり、確かに学歴と階層は結びついているが、日本全体の豊かさはよく言われるほどに失われてはおらず、親子間で学歴と階層が固定され、格差がどんどん広がっていくような社会には日本は向かっていない、そして今後は学歴が極端な格差につながらないような社会を目指すべきだと吉川は主張する。

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偏差値という「はしご」

 この最後の主張の是非は当面問わず、ここではこの筋書きの中での「偏差値」の意味について確認したい。ここまで述べた「学歴」とは、大卒であるか高卒であるかという意味だった。だが、日本においては、同じ大卒の中にも厳然としたヒエラルキーが存在することは誰も否定できまい。このヒエラルキーは、苅谷剛彦の言う「大衆教育社会」にとっては、学校だけではなく社会全体に浸透している。つまり、社会全体の階層が、学歴のヒエラルキーを元に出来上がっているのだ。そして、そのヒエラルキーのイメージを一手に負ってきたのが、ほかならぬ偏差値である。それはもちろんイメージだけの問題ではない、大学生の就職活動においては、学歴(出身大学)によるスクリーニングが行われているというのが公然の秘密である。そのような現実も背後にあって、「学部入試の偏差値」は非常に強い感情を寄せ集めるトピックである。

 それはさまざまな形を取る。例えば「Fランク大学」という「問題」はどうだろうか。Fランク大学もしくはボーダーフリー大学とは、入学希望者が定員を下回り、全入状態であるため、偏差値が意味をなさなくなっている大学のことで、そのような大学で大学生を遊ばせておくのはケシカラン(もしくはそのような大学に税金を投入するのはケシカラン)という理由で、定期的に廃止論が叫ばれる。

 私は、本連載のどこかで詳しく述べられればと思うが、全入の何が悪い、大学進学率が100%になって誰が困る、と思っているので、この感情のあり方がうまく理解できないでいる。

 もうひとつ、同様に強い感情を引き寄せる話題に、「学歴ロンダリング」というものがある。これは、大学院に進学する際に、学部よりも「ランクが上」の大学に行き、最終学歴を「上げる」行為を指す。これは、1990年代の大学院重点化の結果という見方もできるものの、そもそも「学歴ロンダリング」という表現そのものを、私は唾棄している(それは決して、一橋大学を出て東京大学の大学院で学んだ私がそれに当てはまるからではない、と思う)。この表現は、大学院での学び・学究というものをバカにしている。それは単に偏差値でランク付けされるようなものではない。その一方で、この表現は日本的学歴社会の病理をよく表現もしている。学部入学によって人間の価値を定めるようなメリトクラシーのあり方を、それは表現している。

 さて、このように強い感情を引き寄せる偏差値であるが、それとはうらはらに、偏差値のことをほめる人を見たことはあまりない。偏差値は日本の教育をダメにした根本原因として蛇蝎のごとく嫌われてきたのではないだろうか。それは人間を冷たい数字に還元する、血の通っていない教育の象徴である。また過度な競争をともなう「詰め込み教育」の原因である。偏差値については、このようなことが一日千秋のごとく言われてきた。

 しかし、ここまで述べてきたメリトクラシーの二面性を、偏差値もまた持っている。それは競争を煽るものであると同時に、解放をもたらすものでもあった。では、何からの解放であろうか。

 これを考えるにあたっては、ほかならぬ偏差値の生みの親である、桑田昭三の言葉に触れてみるのがよさそうだ。桑田昭三は、1928年生まれ、2016年に亡くなった教育者・教員で、学生時代には統計学を学び、東京都港区立城南中学校に勤めていた1957年に、進学指導のための指標として偏差値を考案した。桑田が偏差値を考案したいきさつは、こちらに同氏の著書『よみがえれ、偏差値──いまこそ必要な入試の知恵』(ネスコ、1995年)のまとめが紹介されているのでぜひお読みいただきたい。残念ながら私は同書を手に入れることができていないため、別の著書『偏差値の秘密』(徳間書店、1984年)で書かれている同様の内容に依拠しつつ、紹介していく。

 桑田が偏差値の発想を得たのは、城南中学校での「志望校判定会議」においてであったという。偏差値のなかった当時は、高校への志望の判定は、前年度の合格者実績、当該年度の在学生の中での個々の生徒の順位と全体の生徒数から、合格可能性を推測して行われていた。そしてその推測は進路指導担当者の「勘」に頼るところが大きかったという。

 そのような方法に疑問を持った桑田は、測定誤差による変動を、標準偏差(データの散らばりぐあい)という因子を入れた偏差値によって学力を測る方法を考案した。詳しい説明はここでは省くが、偏差値は、変動する一回一回の試験の成績に惑わされることなく学力を比較し、入試に合格する確率を計算することを可能にした。

 重要なのは、当初桑田は偏差値を内密に使用し、それを生徒に示すことはしなかったという点である。それは、偏差値が(例えば知能指数のように)人間の生得の能力を表示し、序列化するのに利用されるようなことを避けたかったからである。

 ところが周知の通り、偏差値はその後、入試の難易度や合格可能性の判定をするのに広く使われることになった。転機は1961年で、それまで手作業で偏差値を計算していた桑田のもとに、出入りのテスト業者である進学研究会(現ベネッセコーポレーションの進研ゼミや進研模試とは無関係)が、計算の代行を申し出てきて、桑田がそれを受けたときであったという。

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「偏差値」批判とその歴史性

 偏差値をめぐる次の転機は1975年にやってきた。桑田によれば、「偏差値論争の口火を切った」のは、1975年11月7日『週刊朝日』の特集記事「高校選びの土壇場情報・ズバリ“偏差値でわかる首都圏高校”」だったという(『偏差値の秘密』10頁)。この記事は偏差値を、「受験生たちの間をうろついている妖怪」「顔も手もない数字のお化け」と記述する。このような偏差値批判──この記事は首都圏高校の偏差値を事細かにリスト化し一般に公開していったそうなので、批判をしながらも、偏差値などの教育ランキングがメディアのキラー・コンテンツとなるという矛盾もまたこの頃から変わらないようだが──は、朝日新聞社の教育総合誌『のびのび』、そして『朝日新聞』『読売新聞』といったメディアでさらに激しさを増していったという。

 いまやおなじみ、というか懐かしささえ感じるこのような偏差値批判は、非常に広くとらえれば、「詰め込み教育」への批判と平行関係にあっただろう。知識偏重の教育への批判である。そして、そのような批判の結果出てくるのが、1980年代以降の「ゆとり教育」であり、1990年代以降の「生きる力」という教育目標であり、さらには、本連載第2回で批判的に検討した、高大接続改革とその柱に据えられている「学力の三要素」(とりわけその二番目と三番目、つまり「思考力、判断力、表現力」と「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」)という理念である。

 私は連載の前回において、この学力の三要素がふわふわとした理解不能な理念だと、半分とぼけながら批判した。今回はそれと矛盾するようではあるが、これらの理念が歴史的な必然性を持っていることを示したい。念のために前もって言っておくと、歴史的な必然性を持っていると主張することは、それを正しいものとして肯定することとは違う。それこそ、「学力の三要素」は確かに新たな「能力」であり、それは新たなメリトクラシーの「はしご」を作るための理念かもしれず、それはひょっとすると歴史の一つの局面を正しく反映しているかもしれないのだ。

 上記のような教育行政の歴史の本質を理解するためには、もう一度偏差値の創案者である桑田昭三の言に戻ってみる必要がある。桑田は、偏差値が全国的に利用されるようになり、学校や受験生をランク付けするための指標になってしまったことを嘆いている。彼にとって、偏差値の本来の意義は、進路指導教員の勘、もしくは悪い場合は心証で行われていた指導を、より科学的に行うことだった。ここには冒頭に述べたようなメリトクラシーの二面性が表現されている。桑田にとって、偏差値はメリトクラシーの解放的な側面を代表すべきものだった。それは生徒の努力をできるだけ透明に表現する数字であるべきだった。ところが、偏差値はメリトクラシーのもうひとつの側面、つまり熾烈な競争社会という側面、はしごをそのイメージとする社会も代表し、かつそのような社会を生み出すものでもあり得た。1975年以降の偏差値批判は、メリトクラシーのそのような側面への批判でもあっただろう。

 このことを、もう少し広い歴史的パースペクティヴに置いてみたい。興味深いのは偏差値批判が噴出したのが1975年という年だったことである。1970年代後半といえば、高校への進学率が90%を越えて「高止まり」をした時代である。大学進学率についても1975年あたりが一度目の頂点を迎え(四年制大学進学率が30%弱、短大も含めると40%弱)、90年代後半からもう一度増加するまでは高原状態に入った時代だった(冒頭に述べた通り、私はこの高原の最後の方である。ただし、団塊ジュニア世代であるがゆえに、進学率が変化しなくとも進学者の絶対数は増え始めていた時代に属する)。1975年は、日本社会全体の高度成長が一段落し、「一億総中流」が言われるようになった時代を背景として、日本の「高学歴化」が一段落した分水嶺でもあったのだ。この文章の前半で依拠した吉川徹の言葉を使えば、「学歴成熟社会」が到来したタイミングだったのだ。

 では、そのようなタイミングでなぜ偏差値批判が噴出したのか。これには二つの絡まりあった説明が可能だと思う。

 ひとつは、偏差値が桑田の理想としたような解放作用を持ちうるのが、高度成長期そして教育機会の拡大期に独特のことだった、という説明である。高度成長期とは、階層の移動性の高い時代でもあった。階層移動の重要な手段は教育であるし、主な階層移動は世代間での移動という形を取る。簡単に言えば、高度成長期には子供が親よりも高い学歴を獲得することが標準であったし、目指されるべきことでもあった。(また、これも吉川が論じているように、高度成長期にあってはたとえ学歴が世代間で上昇しなくとも、社会全体の豊かさは上昇しているので、幸福度という意味では上昇していた。)そのような移動のための道具として、偏差値には解放作用があった。

 偏差値の解放作用とはまさにその匿名性、個人を数字へと還元することにあった。偏差値は基本的に氏素性とは関係がない。少なくとも形式的には(実質的には違うのだが)親の階級と、それに従って子が受け継ぐ文化資本と偏差値は無関係である。

 ところが高度成長と高学歴化が一段落したときに、偏差値とそれを基礎とするメリトクラシー社会の、競争社会としての弊害が前面に出てくる。乱暴に言ってしまうと、進学率が高止まりし、階層の移動性も低まった(一億総中流になった)社会においては、競争は空しいものとなる。親の世代からの階層の上昇は相対的に望めなくなり、たとえ上昇しても、社会全体の成長が鈍化している以上、それが実質的な上昇を意味するとは限らない。そこでは、競争に意味があるとして「没落しないこと」以上の意味はない。そのような状況で、非人格的な偏差値ではなく、もっと「血の通った」何かを求めるというのは、人情として理解できる。

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新自由主義とゆとり教育

 だが、そういった人情だけで歴史は動かない。偏差値批判が噴出したことには二つの説明ができると述べたが、その二つ目は新自由主義である。1980年代のサッチャリズムとレーガノミクスに結びつけられることの多い新自由主義は福祉国家的な大きな政府への依存を否定し、個人は市場経済の中で自己責任における選択をする主体になっていかなければならないと私たちに命じた。日本においても、いわゆる護送船団方式によって国家の庇護のもとに実現された高度成長と「一億総中流」社会は一種の福祉国家体制であり、それが解除されていくのは、ここで問題になっている1970年代後半から1980年代ということになる。

 ここで、表面上は、市場における競争を強調する新自由主義と、熾烈な受験競争を否定するゆとり教育は矛盾するように見えるかもしれない。だが、そうではない。週五日制や学習内容の削減、総合学習の時間の導入などに代表されるゆとり教育の基本は、公教育の削減なのであり、それは私的領域で子供に教育を受けさせることができ、そのつもりもある階層と、そうではない階層との間の格差を決定的に広げるものに他ならなかった。

 教育社会学者の大内裕和は、1970年代以降の教育改革を、新自由主義化、つまり公教育の縮減と教育の「私事化(privatization)」という観点から一貫して批判している。『教育・権力・社会──ゆとり教育から入試改革問題まで』で、大内はゆとり教育の導入の意味を以下のように要約している。

〔一九七〇年代の塾ブームの〕なかで行なわれたのが、一九七七年の「ゆとりの時間」を導入する学習指導要領の改訂であった。これは一九六〇年代の「詰め込み教育」や「過熱する受験競争」の是正を目的として導入されたものであるが、この改訂がもたらしたものは競争の是正ではなく、教育の私事化・商品化とさらなる競争の激化であったことは、現在の視点から明らかであるように思われる。一九六〇年代の学歴秩序の成立、高校間格差の拡大という「格差」状況のなかで、「ゆとり」を導入すればそれを埋め合わせるための行動が起こるのは必然であった。実際にこの学習指導要領の改訂は、塾通いと私立学校の地位上昇に拍車をかけることとなった。莫大な受験産業の拡大は教育費用の増大(゠商品化)と教育の私事化(privatization)を促進したのである。(No. 772-80)

 大内はここで偏差値について論じてはいないが、1975年に巻き起こった偏差値批判はまさに「詰め込み教育」「加熱する受験競争」の批判の重要な一部分だっただろう。そしてその批判は皮肉なことに、教育における経済的な格差に帰結したのである。

 福祉国家的なものを「画一性」の名の下に批判し、「市場の自由」の名の下に競争を肯定し、格差を生み出し固定化していくというのは、新自由主義の基本的な手口である。1970年代に偏差値をめぐって起こったことは、私が本連載の第一回・第二回で1990年代の高等教育に起こったと説明したことの前史なのである。

 実際、その後、1980年代以降の教育政策の基本的な思想は「画一化」の否定と返す刀での「自由化」であった。まず画期となるのは1984年、中曽根内閣下の臨時教育新審議会(臨教審)である。臨教審の第一部会の香山健一らの中心メンバーは、それまでの公教育の画一性を批判し(そこでは文部省と日教組の両方が「画一性」を象徴する)、教育の自由化論を展開してそれは文部省の合意をとりつけることに成功する。(大内 No. 64)

 1990年代以降の教育改革は、この自由化論の路線を引き継ぐことになる。本連載の第一回で確認した大学設置基準の大綱化=規制緩和、法人化とその後に続く改革もこの自由化の路線の上にあった。前回までに強調したのは、この自由化とは新自由主義化であり、公教育の私営セクターへの「切り売り」であることだった。


 次回はここまでの偏差値批判、詰め込み教育批判が、現在の高大接続改革と「主体性評価」につながっており、それが単なる教育版の「小さな政府」にとどまらないことを示して行く。そういった「改革」は、現在の資本主義が要請する労働者としての主体性を生み出すための、新たなメリトクラシー創造の試みであると言えるだろう。

つづく

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◉著者プロフィール
河野真太郎/こうのしんたろう
 1974年、山口県生まれ。専門は英文学、イギリスの文化と社会。専修大学国際コミュニケーション学部教授。一橋大学法学部卒ののち、東京大学大学院人文社会系研究科欧米系文化研究専攻博士課程単位取得満期退学。一橋大学准教授などを経て現職。著書に『戦う姫、働く少女』(POSSE叢書)、『〈田舎と都会〉の系譜学——20世紀イギリスと「文化」の地図』(ミネルヴァ書房)。近刊に翻訳書『暗い世界──ウェールズ短編集』(堀之内出版)。
Twitter : @shintak400

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