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100年以上もの間「クズ男」と非難され続けた『舞姫』の豊太郎を擁護する #2_1

第1回は夏目漱石でしたので、今回は明治の二大文豪のもう一人、森鷗外の名作『舞姫』を採り上げてみます。

『こころ』は教科書に登場するくらい馴染み深い作品ですが、こちらの『舞姫』もそれに劣らず人気がある短編小説です。『こころ』は1914年に出版されていますが、『舞姫』はさらに時代をさかのぼって1890年に世に出ています。

『舞姫』は文語体で書かれていて格調高いのですが、私たち現代人が読むには非常に難しい作品です。私は新潮文庫の『阿部一族・舞姫』で読み、理解できない部分は井上靖の現代語訳を使いました(井上靖訳『現代語訳 舞姫』ちくま文庫)。小説の内容を理解するためなら、現代語訳の方のみでもまったく問題ありません。

もりかわ・とものり/早稲田大学国際教養学部教授。政治学博士(Ph.D.)。1955年群馬県生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、ボストン大学政治学部修士号、オレゴン大学政治学部博士号取得。専門分野は日本政治、恋愛学、進化政治学。早稲田大学の授業「恋愛学入門」は学生に絶大な支持を得ている。恋愛学の著書としては『最強の恋愛術』(ロンブー田村淳との共著、マガジンハウス)、『一目惚れの科学』(ディスカヴァー携書)、『黄昏流星群学』(弘兼憲史との共著)等がある。

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あらすじ

主人公の太田豊太郎は、小さいころから勉強が得意で、なんと19歳で東京帝国大学(現・東京大学)法学部を卒業します。希代の秀才ですね。卒業後は、当然のごとく期待されて「某省」に入省します。その省庁は明らかにされていませんが、いまでいったら、財務省や外務省といった中央官庁に入って国家公務員になったということです。実際の鷗外は陸軍で軍医総監まで務めた軍官僚だったので、陸軍省と理解しても問題ありません。いずれにしても将来を嘱望された超エリート官僚です。

22歳のときに、上司の「官長」に気に入られて、政府派遣団の一員としてドイツ(プロシア)に留学することになります。このように豊太郎はバリバリのエリート官僚なのですが、ドイツに3年過ごすうちに、欧州の文化に触れて、自由を満喫するようになってゆきます。また、官僚組織にありがちな、国家のための小さい歯車の1つとして受動的かつ機械的に生きる自分に疑問を持ち始めます。

そんなある日、教会の隅で泣くエリスに出会います。年齢は16~7歳でしょうか。エリスは泣きながら、家が貧乏で、亡くなった父の葬儀代が出せないので助けてほしいと訴えます。不憫に思った豊太郎は少々の金品を与えますが、それが縁で次第にお互い恋するようになってゆきます。エリスは場末の劇団「ビクトリア座」のダンサーでした。

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相思相愛で仲良しなのですが、普段から豊太郎を快く思わない知人に、(豊太郎は)しばしば芝居に出入りして女優と交はる」と日本大使館に報告されたことが原因で、日本からの留学資金が止められ、官僚を辞めさせられてしまいました。

金銭的に困り果てますが、友人の相沢謙吉の特別の計らいによって、日本の新聞社のドイツ特派員のような仕事をあてがってもらい、なんとか食いつなぐことができるようになります。そして豊太郎は、エリスの家に母親と3人で住むようにもなりました。同棲生活の始まりです。恋人ですから、肉体関係も当然あります。やがてエリスは悪阻のような症状が出て、妊娠していることが発覚します。

そんなとき、相沢が秘書官として仕える天方大臣が海外使節団としてベルリンを訪れます(天方大臣は山県有朋に比定されています)。その際、相沢が天方大臣に面会できるように手配をしてくれ、大臣は豊太郎に書類をドイツ語に至急翻訳するように依頼します。その仕事ぶりがよかったのか、豊太郎は大臣に気に入られました。

一方で相沢はエリスとの恋愛を諦めて日本に帰国すべきと豊太郎を説得したところ、豊太郎はしぶしぶながら「この(エリスとの)情縁を断とう」と約束します。とはいっても、豊太郎はこのままエリスとともにドイツに残るか、それとも相沢に約束したとおり1人で日本に帰国しようかという選択で悩み続けます。

このような状況の中、大臣は豊太郎に「我とともに東(日本)に帰る心なきか」と問います。真実を言おうか迷いますが、とっさに「承りはべり(承知しました)と答えてしまいました。しかし「弱き心」の豊太郎は、そうは言ったものの、その後もどちらを選択していいのか決めかね、苦悩のあまり数週間倒れてしまいます。

その見舞いにきた際に相沢は、エリスに豊太郎と大臣のこれまでのいきさつを告げてしまいます。実は豊太郎が日本に帰国することに同意したのだと。このためエリスは過剰な心労で精神病を患ってしまうことになります。

最終的に、豊太郎がエリスの母親に今後の生計を営むに足るいくばくかのお金を渡し、帰国の途につくところで物語は終わります。

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『舞姫』は恋愛小説

最初に明確にしておきますが、上記のあらすじが示すとおり、『舞姫』は恋愛小説です。これ以上確かなことはありません。

しかしながら、文学研究の世界では、『舞姫』が提起したテーマが何であるか?との論争があります。たとえば山崎国紀氏の『鷗外森林太郎』では次のように述べられています。

『舞姫』は何を物語ろうとしているのだろうか。この問題には現在でもさまざまな捉え方がある。官僚制への批判説。日本近代の脆弱さへの批判、実在のエリーゼ事件を解決し、今後官僚として強く生きていくという弁明、宣言の書であるとする説、(略)『西欧文化への決別の悲しみ』を述べたものとする説など数えきれない。

文学者というのは、みなさんこのように考えるのでしょうか。びっくりします。たしかに『舞姫』では官僚制が批判されているし、豊太郎は西欧文化と決別しようとはしました。でも、深読みしすぎではありませんか。それらを主題とするのはちょっと違うのではと思ってしまうのは私だけでしょうか。

私は『舞姫』は完全に恋愛小説だと思うのです。豊太郎とエリスとの恋物語です。だから題名が『舞姫』となっているのです。

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では、恋愛の中のどんなテーマが主題となっているか? ここが考えどころです。『舞姫』が出版された当初から巻き起こっていた「舞姫論争」の主題が、恋愛の見識を深めるうえでもっとも意義があると思われます。その主題の1つは、

豊太郎は立身出世を捨て、恋愛をとるべきであるかどうか?

でしたが、現代的に考えると、

もしあなたが豊太郎だったら、同じ判断をしたか?

となります。このテーマに沿って『舞姫』を読みとくのが、現代を生きる私たちが恋愛を知るうえでもっとも有益です。なぜなら、私たちも豊太郎と同じように、恋愛や結婚に関して二者択一の選択をしなければならない場面に遭遇することがしばしばあるからです。そのようなときにどうしたらいいのかをこの小説は教えてくれます。

豊太郎の選択は正しかったのか、それとも帰国すべきではなかったのか。鷗外は「功名と愛の葛藤」の問題を読者に問うているのだと思います。
簡単そうで難しい問題です。鷗外は、『高瀬舟』における弟殺しの喜助のように判断に苦しむ状況を設定して、読者の賢明な判断をあおぐストーリーを仕掛けているとも考えられます。

したがって今回は『舞姫』を「ぶった斬る」のではなく、作品のテーマに沿いながら、私たちの現在の恋愛に役立てていくというアプローチをとります。

主人公の豊太郎はヒール役?

それにしても、この豊太郎、『舞姫』発表当時の文壇でも最近のweb界隈でも評判は芳しくありません。非難轟々の嵐で、たとえば「男らしくない」「非人間的」「心情がいやらしい」だとか、「有罪」「けしからん」「クズ」「汚い」「嫌い」といった言葉までもが躍っています。完全に悪人扱いです。このように考えている人にとって、上記の「もしあなたが豊太郎だったら、同じ判断をしたのか?」の答えは、もちろん同じ判断をしなかったということになります。豊太郎は、ドイツに留まる選択肢を選ぶのが正しい判断だと考えているようです。

はたしてそれが豊太郎にとって最良の選択なのでしょうか。エリスにとっては最良だったかもしれません。でも豊太郎にとっては?

どちらを選ぶにしてもギリギリの選択だったはずです。web上では9対1以上の割合で豊太郎は間違っているとの見解のようですが、私としては納得できません。あまりに一方的です。したがって、ここでは豊太郎を弁護する立場をとってみることにします。

帰国を選んだとしてもしかたのないことだったと言える理由は2つ挙げられます。ひとつは「恋愛市場」の特徴という見地から、もうひとつは「2つの選択肢の費用対効果」の立場からです。

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「恋愛市場」では恋愛関係の解消は自由

『舞姫』における豊太郎の心情を理解するうえでまず知っておくべきは、「恋愛市場」というものの特性です。「恋愛市場」とは経済用語ですが、そんなに難しい話ではありません。

職場や飲み会、あるいは学校といったように、男女の恋愛関係が存在する場所が存在しますが、そのような場所を経済学では「市場」と呼びます。野菜を売っている「市場」とか株の売買をする「市場」とまったく同じです。だれも自分が参加しているという意識はないのですが、恋愛関係の市場は24時間365日開いているものです。私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、また未婚でも既婚でも、この市場に必ず入っています。

恋愛が取引される市場には、その関係の長さによって「恋愛市場」「結婚市場」「浮気市場」の3つがあります。

このような3つの市場は

・お互いを中期保有しようとするのが「恋愛市場」
・長期保有を原則とするのが「結婚市場」
・一夜の関係のように短期保有するのが「浮気市場」

というふうに分類できます。いったん築かれた関係が継続していることを意味する用語は「保有」と言います。期間の短い順に並べると、短期的な相互保有が浮気、中期的な相互保有が恋愛、長期的な相互保有が結婚となります。

「恋愛市場」「結婚市場」「浮気市場」は、同じような市場に見えますが、実際には大きく異なるものです。基本的には、恋愛したい人は「恋愛市場」に、結婚したい人は「結婚市場」に、浮気したい(セックスだけしたい)人は「浮気市場」に集まるということです。もちろん、人によっては、結婚を視野に入れて恋愛したいとか、恋愛も結婚も一夜の関係も相手次第だと考える人もいるので、各々の市場が排他的というわけではありません。

この『舞姫』に描かれている市場は、「恋愛市場」です。エリスを結婚相手として見ているわけでも、一夜限りの浮気相手として見ているわけでもありません。ですから、豊太郎は「恋愛市場」に入って、エリスを好きになったということです。

中期保有の恋愛関係でもっとも重要なことは、手続き的にもコスト的にも関係解消が比較的簡単に行われる点です。

結婚という長期保有では関係解消には多くの時間とエネルギーとお金を必要としますが、恋愛関係では、誰でも別れを経験しているように、一方の通告のみで関係が解消されます。別れにおいて慰謝料も養育費も必要ありませんので、たいへんコスト的に軽微です。せいぜい面前で泣かれるくらいでしょうか。

このように関係を解消する側は「ふり」、解消される側は「ふられる」ことになり、一般的には後者は「失恋」となります。何が言いたいのかというと、長期保有である結婚をしていない以上、一方が他方に対して、いつ別れてもどんな理由でも、恋愛市場である限りは許されるということです。

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「エリスを捨てた」と非難している人がいますが、恋愛の場面では、単に「ふった」ということですので問題ありません。ふられた方は痛みを覚えますけれどね。

豊太郎がエリスをふるというのは、一方がそう判断したということであり、相手も受け入れなくてはならないものです。豊太郎とエリスの色恋沙汰なわけですから、豊太郎が一方的に通告することになるのも仕方ありません。これが結婚していたらもちろん別ですよ。お互いが合意して離婚届を提出しない限り、関係を解消することはできません。ところが、恋愛では簡単に解消ができてしまうのです。

話はそんなに簡単ではないとおっしゃる方がいるかもしれません。エリスと同居していたのだから、その責任はどうするのかと。たしかに豊太郎とエリスは同棲していました。しかし現在の日本でも同棲している人たちはいます。そのまま結婚に至る場合もあれば、別れる場合もあります。同棲をしていたからといって結婚しなければならないわけではないのです。

加えて、子どもができた事実はどうだとおっしゃる方もいるかもしれません。もちろん子どもをどうするのかは非常に重要です。本来ならば、豊太郎はエリスと子どもの問題を真剣に話し合わなければなりませんでした。

ところが、エリスは精神病にかかって正常な判断ができる状態ではなくなっていましたし、豊太郎は天方大臣とともにすぐに帰国しければならない状況でした。1年後に帰国するという方法はとれなかったのです。本来なら、豊太郎はエリスが子どもを出産し、病気の回復が見込めるのかどうか判断してから日本に帰国すべきでした。それが可能だったらそうすべきだったと思います。

しかし、天方大臣には状況を伝えていませんでしたし、たとえ伝えたとしても「それなら帰国しなくて結構」と言われただろうことが容易に推測されます。ですから、当時の豊太郎としては、精神病のエリスとともに子どもを育てていくかあるいは子どもはエリスと母に任せて自分はドイツを離れるかの二者択一しかなかったのです。

『舞姫』の最後に、エリスの保護者である母親に生活費を渡したと描かれていますので、母親と豊太郎の間で、エリスと子どもの問題に関して、金銭的な方法で解決を図ることに合意したということです。支払われたお金の額が非常に重要な点となるのですが、正確な金額が描かれていないので、その点についてはなんとも言えないところではありますけれど。

豊太郎の費用対効果分析

「もしあなたが豊太郎だったら、同じ判断をしたのか?」を公平に判断してもらうために、2つめに考えてほしいのは、ドイツに留まるか日本に帰国かの二者択一において、豊太郎の損得勘定が働いた点です。「損得勘定」というとちょっと悪意があって公平ではありませんね。豊太郎が「費用対効果」の分析(Cost-Benefit Analysis)をした、ということです。

1つの意思決定には必ず良い面と悪い面が共存しています。それらを総合的に考えて、意思決定をするのが私たち人間です。豊太郎は自分の立場について詳細に費用対効果の検討をして、エリスと別れる決断をしたのですが、そこに至るまでに勘案した2つの選択肢の長所と短所については、次回で詳しく考察したいと思います。

後編につづく


バックナンバーはこちら↓

第1回 夏目漱石『こころ』前編
第1回 夏目漱石『こころ』後編

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コメント (2)
主人公の祖母の死は諌死でございますから、武士道の書き換えやも知れません
最低の記事。光文社が大嫌いになった。本当に心の底から最低な考え方だと思う。
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