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Q5「パンク・ロックの本場は、アメリカとイギリスのどっち?」——『教養としてのパンク・ロック』第9回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

 

第1章:なぜなにパンク・ロック早わかり、10個のFAQ

〈6〉Q5「パンク・ロックの本場は、アメリカとイギリスのどっち?」

 かなり難しい質問だ。なにをもって「本場」とするかによって答えが変わるのだが……いつになっても連綿と、全国のいたるところで「広義のパンク・バンドが活動し続けている」という点では、アメリカのほうに軍配が上がる。かの国こそ、とにもかくにも「多様性の大陸」だ。郊外には電気を使わないアーミッシュの集落がある一方で、大都会にはドラァグ・クイーンのコミュニティがあったりする。だからからか、いつもいつまでも、パンク・ロックも元気に、どこかにある。

 とはいえ、逆にここがひとつの限界でもあった。ニューヨークのローカル・シーン、なかでもそのアンダーグラウンド域にて産声を上げたパンク・ロックは、当初、世間から驚くほど注目されなかった。メジャー・デビューしたラモーンズは、ほとんどまったく、売れなかった。アメリカの都会における「多様性」とは、無関心の言い換えでもあったからだ。パンクだろうがなんだろうが、「好きにしてれば?」と容易に突き放してくれるかわりに、逆に少々のことでは誰も注目などしてくれない、というか。

 ゆえにロンドンこそが「パンク・ロックを大きく花開かせた都」となった。策士マルコム・マクラーレンによってロンドンに持ち込まれた「ニューヨーク生まれのアイデア」が、これ以上ないほどの悪目立ちをして、ナショナル・チャートの上位にまで食い込んでいった。たんに売れただけではなく、大衆紙の絶好の「叩きネタ」として、にぎやかにスキャンダルを撒き散らし続け、大きく耳目を集めた。一連のこうした騒ぎによって、パンク・ロックという音楽の可能性および未来は、一気に豪快に、切り開かれていった。

ニューヨークから見た「ロンドンのパンク・シーン」

 ではそんな「ロンドンのパンク・シーン」をニューヨークの当事者はどう見ていたのだろうか? ここでリチャード・ヘルの発言を引いてみよう。ジョン・レノンの写真などで有名なニューヨークのフォトグラファー、ボブ・グルーエンがザ・クラッシュを撮ったショットをまとめた写真集のなかに、1977年のヘルが写っている1枚がある。ザ・ヴォイドイズを率いて、初のリーダー・アルバムを引っ提げ、同年11月にロンドンでライヴをおこなったときの彼の姿だ。その写真キャプションのなかでヘルは、当時の模様を振り返って、こんなふうに語っている。

「イギリスのパンク・シーンに、僕は複雑な気持ちを抱いたよ。だって基本的に僕らが創造したもの――この「僕ら」というのは、ラモーンズと僕とニューヨーク・ドールズ、そして1974年から76年ごろのニューヨークのシーンを指すんだけど――それを下敷きにしてこしらえたようなバンドを応援しにきている観客の前で、自分自身が演奏するっていうのは、ちょっとばかり屈辱的だったというか。まあでも同時に、イギリスの人たちがなにに興奮しているのか、よくわかったけどもね。興奮すべきものなんて、ほかにはなかったんだろうし」

('The Clash' Photographed by Bob Gruen / Vision On / 2001 より)

 そのとおり、ロンドンの若者たちの一部は、パンク・ロックに、パンクに関連する文化に、とても興奮していた。だからバンドだけではなく、その友人たちや取り巻き、お客まで含めて「パンクという新しい都市風俗」を生み出し続ける溶鉱炉みたいになっていた。 

 ウエストウッドの店に勤務していたジョーダンは「パンク・クイーン」と呼ばれた。ときにトップレス(に透明プラスティックの服を着た)姿で電車通勤してくる彼女は、文字通り毎日、人々の好奇の視線を集め続けた。スー・キャットウーマンの、パンク・シーンにおいても奇抜な髪型(頭の両サイドの髪のみワックスで固めて立てて黒く染め、それ以外はほとんど坊主頭に近く刈り込んで明るい色にした、一種の悪魔スタイル)も注目された。スーはロンドン郊外の南東部、ブロムリーからやって来ては、いつも店やピストルズのライヴでたむろしている集団、通称「ブロムリー軍団」の一員だった。この軍団のなかには、のちにスージー&ザ・バンシーズとなるスージー・スーとスティーブン・セヴェリン、それからビリー・アイドルがいた。

「パンクの火種」

 こうして「興奮の坩堝」となっていたロンドンは、しかしあっという間に「パンクに飽きて」しまう。ロンドン・パンクの栄光は、長続きしなかったどころか、一瞬で消費され尽くしてしまう。かの地の音楽業界は、とにもかくにも「飽きっぽい」のだ。いつもいつも「次なる話題」に飢えているのが、ロンドンのロック/ポップ文化業界だから、すぐに「もうパンクじゃないよね」など、誰かが率先して言い出すのだ。そしてまたぞろ、次の流行を推し始める。

 しかし言うまでもなく、ロンドンがそうなったあとでも「我関せず」の態度で、こつこつとDIY道を進むパンクスが、アメリカには多くいた。ニューヨークだけでなく、サンフランシスコやロサンゼルスが一大拠点となった。ワシントンDCなどが、それに続いた。さらには、全国のリベラル系大学のある街ならどこででも、カレッジ・ラジオやクラブやレコード店を情報および人的なターミナルとして「草の根」でパンク文化が広がっていった。その「種子」が目立って発芽し始めたのは、ロンドンが鎮火したあとだった。

 そしてイギリスならば「パンクの火種」は、ロンドンではない地方都市にこそ残っていた。そこから火の手が上がるのが、80年代だ。

 

【今週の1曲+α】

The Heartbreakers - Chinese Rocks (Live at CBGB's 1975)

極初期NYパンクの胎動がここに。追い出される前のリチャード・ヘルがジョニー・サンダースと両雄並び立った、極初期ザ・ハートブレイカーズの貴重ライヴ映像。だからヘル自らがこの伝説ナンバーを歌う。ご存じディーディー・ラモーンが75%ほど書いて、ヘルが手伝って仕上げたヘロインねた曲「チャイニーズ・ロック」。映像終盤、甲本ヒロトの「動き」ネタと僕が考える、スティヴ・ベイターズ擁するデッド・ボーイズの77年ライヴもすこし。

A tribute to Jordan...The face of boutiques SEX, Seditionaries and World's End.

人呼んで「ロンドンのパンク・クイーン」といえばこのジョーダン。惜しくも今年(22年)他界した彼女に捧げた追悼映像がこちら。ウエストウッドのブティックの「顔」として、各時代各種キメまくりの艶姿満載。ピストルズ・メンバーはもちろん、ボウイからアンディ・ウォーホル、ディーディー・ラモーンまで、彼女と並ぶとみんな笑顔に。

 (次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki


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