第14回 「毒親」小説の先駆けだった!? 姫野カオルコによる女性の「自立」の物語|三宅香帆
今だからこそ読める小説が、たくさんある
「あえて、絶版となっている本を紹介する」本企画。
前回までは人文書やエッセイを中心に「絶版本」を紹介してきたが、今回からは、小説について紹介していく「小説編」と銘打ってもよいかもしれない。
たくさんの小説がこの世には溢れていて、しかしそのうちの多くが、新刊書店に並ばなくなってゆく。だがそれほどもったいないことはない。小説でも、むしろ今こそ読まれるべき本はたくさんある。
時代を超える物語は、たくさんある。むしろ、時代が追いついていなかったから、絶版になってしまった物語も存在するだろう。
この連載では、そんな知られざる「絶版本」を紹介してゆく。
そして、ぜひこの連載を通して、一冊でも多くの本を、読みたくなってもらえたら嬉しい。
さて小説編の初回は、姫野カオルコさんの『空に住む飛行機』。
実はこの小説、1994年、つまり30年ちかく前に出版されているのだが……内容はたいへん今っぽい話なのだ。というのもこの小説、「親に支配される娘」がテーマなのである。
「毒親」という言葉が流行し始めたのがここ10年ほどだとすると、そんな言葉が普及するずっと前から、この小説は「毒親」について書いていたことになる。むしろ今こそ、この小説の言わんとすることが分かる人は、多いのではないだろうか。
「お許しください」と唱える娘の物語
主人公の理加子は、29歳の女性である。入院中の両親のために病院へ通う日々を送る、図書館司書。彼女はこれまで、誰とも付き合ったことがなかった。
彼女は最近、両親のどちらかから首を絞められる夢を見るようになった。「こんなに苦しんでいるのに、おまえだけがのうのうと寝ていて……」「わたしが眠れないのにおまえだけが寝ているなんて……」父や母がそう呟く夢に苦しめられている理加子は、ずっと父母のそばで暮らすことを暗黙のうちに決められて生きてきた。母からも父からも小言を言われる理加子は、その生活を当たり前のものだと思い込んでいる。
だが彼女の人生に転機が訪れる。友人の紹介で、ある男性と出会うのだ。次第に親しくなる友人男性・江木との関係を前に、理加子は、徐々に罪悪感を覚えるようになる。
なぜ彼女は、29歳にして異性と親しくなっただけで、「どうかお許しください」と心の中で唱えるようになってしまったのか? そして彼女は、父母の呪縛を解くことができるのか?
本作は、姫野カオルコが綴った、あるひとりの女性の「自立の物語」なのである。
毒親の呪いを解く方法
本作には『いつか王子様が』という曲がしばしば登場する。ディズニーアニメ映画『白雪姫』に挿入される、「いつか王子様が白馬に乗って迎えにきてくれる」というストーリーを描いた曲である。
『白雪姫』を観れば分かる通り、親にかけられた呪いを解くのは、王子様だったはずである。これがおとぎ話ならば。継母に林檎の毒を仕掛けられた白雪姫は、王子様によって、その呪いを解いてもらう。それこそが『白雪姫』の物語の構造だった。
だが、本作は、そのようなおとぎ話が展開されるように見えて――そうではない。理加子は、決して江下という「王子様」に呪いを解いてもらって、ハッピーエンドとするような女性ではないのだ。そこにこの物語の面白さがある。
毒親の呪いを解くために登場する王子様への、懐疑。
それこそがこの作品に通底する主題なのだ。
姫野カオルコは言うのだ。異性との結婚や恋愛によって、親から逃れようとすることは修羅の道である――と。それが最も簡単で、『白雪姫』にも見られるように、容易な自立の選択肢に思える。だがそれは、おとぎ話のなかにしか存在しない。実際の異性は、パラダイスを与えてくれるような存在ではない。決して、親の呪いを解いてくれるほどの存在にはなり得ない。姫野カオルコは、作品を通して読者にそう突き付ける。
なんとも現代的なテーマだなあ、と私はしみじみ感じてしまう。むしろ30年経った今こそ、たくさんの人が「そうだそうだ」と納得するのではないだろうか。
幸福は、目立つものだ
興味深いのが、理加子にとって親が「幸福を許してくれない」存在であることだ。
自分だけ幸せになることが、罪深い。親は苦しんでいるのに、自分だけそこから抜け出すことが、許されないと感じる。自分が不幸であることが、親が安心する材料であると思っている。
姫野が描く毒親の呪いは、娘が「自分の幸福を主体的につかみにいくことを、ためらってしまう」ところにあるのだ。
こう言い切ってしまうと、「親は子の幸福を願っているものだ」「そんなのは特殊な家庭の話だ」と拒否感を覚える読者もいるかもしれない。しかし、案外同じような話は何処にでも聞くものだ。親子で考えると分かりづらいかもしれないが、たとえば同じコミュニティにいる知人同士で、なぜか自分だけが幸福で楽をしていると気まずい思いをしてしまう、という体験をしたことがある人は多いだろう。
なぜか「これはルールだから」「規則を破ってはいけないから」とみずから見えざるルールを課して立ち止まりそこから出ようとしない人は多い。そしてなにより、人よりも幸福になることは、人よりも目立ってしまう。
理加子もひたすら、「親に今自分が幸福であることがバレないように」と気遣う。つまり、親の目にとまりたくないのだ。自分が幸福であることによって、家族のなかで、目立ちたくないのだ。
しかしこの、目立ちたくない、目くじらを立てられたくない、という欲求ほど面倒なものものない。だいたい、幸福とは目立つものだからである。
理加子は、自分の思うところを表現する術を手に入れる中で、徐々に、家族の中で異質な存在になることを受け止めようとする。目立つことは、向かい風にさらされるいうことだ。幸福になるということは、それだけバッシングの対象になるということでもある。だがそれでも、と理加子は立ち上がる。――その瞬間の美しさを、ぜひ本作を読んで、目撃してほしい。
それは単純なハッピーエンドではない。
さまざまな傷を、理加子は負っている。
だが「いつか王子様が」と夢見ていた頃よりもずっと、理加子は、自分の幸福に対して主体的な姿勢で臨んでいるだ。
出版から30年経った本作であるが、ここに描かれている日本の娘たちの葛藤は、今なお形を変えて存在しているように感じてしまう。むしろ「毒親」という語が一般的になった今のほうが、このような葛藤に自覚的になり、深刻に悩む場合も少なくないはずだ。親子関係のみならずとも、「こんなに幸福であることがバレたら許されない」と震える女性は、案外多いのではないだろうか。
しかし姫野は、そんな女性たちに、追い風を送る。こうして女性は立っていいのだと、力強く唱える。
それは決して「かっこいい女性の自立物語」ではない。経済的にも、精神的にも、まだ理加子はきわめて幼い。だが立ち上がろうとすること、その姿勢こそが美しいのだと、本書は教えてくれる。
幸福であることは、目立つことである。目立つことを受け止め、そしてその目立った先での「そんなの、ルール違反だ」と叫ぶ親たちを跳ねのける理加子の姿は、いまだにこの国の娘たちを励まし得るはずである。