「なぜこの本が一〇〇万部も売れるのか」――エンタメ小説家の失敗学5 by平山瑞穂
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第1章 入口をまちがえてはならない Ⅲ
「エンタメの流儀」に沿って改稿
さて、問題は、そのGさんに出会い頭に突きつけられた課題だった。受賞に至った応募原稿は、もともと短篇の(しかも純文学のつもりの)連作だったこともあり、物語上の帰着点が明瞭に示されるような形にはなっていなかった。ひとつの物語としての起承転結など、僕にとっては第二義的なものにすぎず、重要なのはその中で何を描くかだと思っていたのだ。
しかし、日本ファンタジーノベル大賞は、エンタメ文芸における登竜門のひとつにほかならない。その名を冠して本にする以上、「エンタメの流儀」に沿って改稿することは、避けられない流れだった。選考委員も何人かは、この作品に「一本通った筋」が欠けていることを欠点として指摘していた。
そんなわけで僕は、与えられた一ヶ月にも満たない期間をフルに活用して、応募原稿における最終章をそっくり削除し、物語になんらかの決着がつく形で一から書き改める作業に身を投じることになった。結末に至るまでの流れについても、適宜に伏線を張ったり、結末部分をよりドラマティックに盛り上げるための要素をあらたに投入したりしなければならなかった。
まだサラリーマンと兼業の状態だったため、改稿の時間を工面して締め切りに間に合わせるのは難儀を極めた。折しも八月だったこともあり、僕は職場で支給される三日間の夏季休暇を一日ずつに振り分けて土日につなげ、人為的に三連休を三回設けることで、そして夏のレジャーもいっさい返上して休日をすべてそれに充てることで、どうにかこの課題をこなした。受賞するなりいきなり突きつけられた「締め切り」に追われ、おちおち安眠もできずにいたことを覚えている。
こうして『ラス・マンチャス通信』は、その年の暮れには単行本として新潮社から刊行される運びとなった。日本ファンタジーノベル大賞は、一部の読書家からは「稀有な才能の宝庫」として評価されてもいるので、次は何が出てくるか、と毎回の受賞作を楽しみに待ち受けている人も、一定数はいる。『ラス・マンチャス通信』も、一定の注目を浴びたとは思う。「こんな小説は今まで読んだことがない」「マジック・リアリズムの極致」など、惜しみない喝采を贈ってくれる読者もいた。
しかし結果として、この本のセールスは振るわなかった。おそらく、エンタメ文芸としてはオフビートすぎて、何よりも「わかりやすさ」を重んじる主流派の一般読者には受け入れられなかったのだろう。
「なぜこの本が一〇〇万部も売れるのか」
当時の日本ファンタジーノベル大賞における「大賞」の賞金は五〇〇万円、本が売れなくても見返りとしては十分すぎるほどだったが(単行本の印税として同じ額を手に入れようと思ったら、軽く三万部ほどは売れなければならない。それは、並大抵のことではない)、問題は、そのあとにどうつなげるのかということだった。
もしも『ラス・マンチャス通信』が、大ヒットとはいわないまでも、せめて何度か重版がかかるなどしていれば、作家としての僕がその後辿った道は、だいぶ違ったものになっていたかもしれない。しかし、現実には売れなかった以上、新潮社としては、別の方向性で僕をプロモーションしていくという道筋を取らないわけにはいかなかった。
そこで途方に暮れたのは僕だ。それまでは読むにも書くにもほぼ純文学一本槍で、エンタメ文芸の領域では何がよしとされているのかなど、まるでわかっていなかった。だが現実問題として、僕はエンタメ文芸を旗印とするプラットフォームのひとつである、日本ファンタジーノベル大賞という入口から作家デビューを果たしてしまったのだ。僕を担当する新潮社の部署も、先述の通り、エンタメ文芸を専門のフィールドとする編集部だった。好むと好まざるとにかかわらず、その世界の流儀に則ってやっていくしかない。
その後何年かの間、勝手のわからないエンタメ文芸の「文法」を習得するために、僕はエンタメ分野で「売れている」本を、片端から読み漁った。東野圭吾、桐野夏生、三浦しをん、今野敏、角田光代、海堂尊、伊坂幸太郎、桂望実、熊谷達也、江國香織、乾くるみ、森絵都、有川浩、道尾秀介……。人生において、あれほどの勢いで同時代の小説作品を「濫読」したのは、この時期が最初で最後だった気がする。エンタメ文芸の「要領がわかっていない」ことについて、それほどまでに焦りを感じていたのだ。
ピンとくるものもあれば、どうにも腑に落ちないものもあった。「なぜこの作品が本屋大賞なのだろう」「なぜこの本が一〇〇万部も売れるのか」と心底首を傾げてしまうものも、中にはあった(具体的にどれとは言わないが)。それでも濫読の成果はあって、やがて僕は、エンタメ文芸に求められているものを、あらかたは把捉することができたと思う。
ジャンル小説という概念
そうして学んだことの中で、僕にとってある意味で最も受け入れがたかったのは、こういうことだ。――エンタメ文芸においては、作品は必ずなんらかのジャンルに属さなければならず、そして作品は、それぞれのジャンルごとに内在するルールに否応なく縛られることになる。
あたりまえのことのように見えるかもしれないが、それまでジャンル小説というものに一片の興味も抱かずに背を向けていた僕には、そんな基本的なことすらわかっていなかったのである。
ジャンルとは、ミステリーなのかホラーなのか、恋愛小説、あるいは歴史小説なのか、SFなのかファンタジーなのか、といった区分のことだ。そして、「それぞれのジャンルに内在するルール」とは、たとえばミステリーなら、作中で必ずなんらかの「謎」が提示されなければならず、その「謎」を解くことこそが作品の主要なモチーフになる、といったことを指す。
それまでの僕にとっては、小説のジャンル分けなどなんの意味も持たなかった。この世には、「おもしろい小説とそうでない小説」の二種類しかないと思っていた(このことは、第7章で詳述する拙作『ルドヴィカがいる』の中で、小説家である語り手・伊豆浜の口に語らせていることでもある)。そして読者に「おもしろい」と思わせることさえできれば、その小説は成功しているのであり、それがどのジャンルに属しているかなど、どうでもいいことだと思っていた。
だが、現実はそうではない。少なくとも、そういう仕組みにはなっていない。まず「これは◯◯小説です」とジャンルを明示することなしには、エンタメ文芸としてはそもそも企画として成立すらしないのである。それは、版元がその本をどのようにプロモーションしていくかという問題とも直結している。ひとことで定義できない作品では、どういう触れ込みで売り出せばいいかもわからないからだ。
それは同時に、読者が求めていることでもある。(これも『ルドヴィカがいる』の伊豆浜の語り口を借用するなら)「超絶技法が炸裂する本格サスペンス」なのか、「息もつかせぬ展開のサイキックホラー」なのか、それとも「胸がせつなくなって感涙必至の純愛物語」なのか、内容が大枠でも想像できる形で紹介されていないかぎり、多くの読者はあえて手に取って読もうとはしてくれない。
本の読み手としての僕は、「なんだか得体が知れないけれど、読んでみたらおもしろかった」という経験を何度となくしているし、(中にはハズレももちろんあるとしても)それこそが読書の醍醐味のひとつであるとすら思っているのだが、そういう意味でのスリルを楽しめる人は、読者としては少数派なのだ。(続く)
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