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Q4「パンク・ファッションは『ブランド服』なのか?」——『教養としてのパンク・ロック』第8回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第1章:なぜなにパンク・ロック早わかり、10個のFAQ

〈5〉Q4「パンク・ファッションは『ブランド服』なのか?」

 少なくともまず、セックス・ピストルズは、まぎれもない「デザイナーズ・ブランド」の一丁羅を身に着けることが、よくあった。マネージャーのマルコム・マクラーレンの「本業」が洋服ブティック経営であり、店の宣伝のために、出入りしていた若者たちに声をかけ、彼が「結成させた」バンドこそが、セックス・ピストルズだったからだ。後述するが、バンド名もマクラーレンが「勝手に考えて、押し付けた」ものだった。

 ゆえに、ピストルズの面々にはつねに「店の商品」をマネキンかモデルよろしく着続けるという任務があった。当時マクラーレンのパートナーだったデザイナー、ヴィヴィアン・ウエストウッドの手による奇抜な衣装の数々を。ウエストウッドはのちに自身の名を冠したブランドなどを成功させ、06年には英王室よりデイム・コマンダー(DBE)勲章を授与されている。これはナイト爵のひとつ下の、つまりかなり高位の勲章だ。

 そんなウエストウッドとマクラーレンが、どう考えても勲章には相応しくないようなファッションをせっせと売っていた店が、かつて「キングス・ロード430番地」にあった。71年のオープン時には〈レット・イット・ロック〉という店名で、英国風のロックンロール・ファッション、つまりエドワーディアン・スタイル(=エドワード朝風の男性ファッションを、ストリート・スタイルに落とし込んだもの)を、売った。のちにこうしたファッションを、まずピストルズは「着せられた」。テッズのスタイルを。

「マクラーレンはテディ・ボーイズのファッションを戦後の若者ファッションの代表として、セックス・ピストルズに取り入れた。つまりヴェルヴェットの襟のジャケットにペッグパンツないしズートスーツのパンツである。このファッションゆえにピストルズはシャープさを得たようなものだ。しかし大半が人種差別的で乱暴なテッズたちは、このファッションに反発した。76年の終わりにはセックス・ピストルズに触発されたパンクは、テッズと敵対しあい、77年夏にはキングス・ロードで文字通り大げんかが繰り広げられた」

(ジョン・サヴェージ『イギリス「族」物語』より)

 つまり日本に置き直して卑近な例でいうと、ヤンキー・ファッションが当たると思って店で売り始めた、原宿の服屋のオヤジ率いる若者バンドが、マジモンのゾクに襲われる――というような構図だろうか。〈レット・イット・ロック〉は72年にその名前を〈トゥー・ファスト・トゥー・リヴ、トゥー・ヤング・トゥー・ダイ〉と改めた。テッズのスーツではなく、ロッカーズ・スタイルの「リベット付き革ジャン」を売り始める。これものちにピストルズに与えられた。

 ちなみに、エドワーディアン・ルックが最初に流行したのは、第二次大戦後すぐの40年代だった。焼け跡で闇屋に出入りしているような不良青少年のあいだで、元来はアメリカ風ジャズ・スタイルだったズート・スーツの変種として取り入れられたのが最初だ。日本で言えば幾度も映画化された『肉体の門』みたいな世界における「ちんぴら」ルックだったわけだ。この層の少なくない数が、のちにアメリカ製のロックンロールやロカビリーの受容者となった。そして50年代後半には、ここが革ジャンのロッカーズ・スタイルにもつながっていく。

ヒッピー文化への反逆

 こうした「過去のロックンロール・スタイルの『リヴァイヴァル』」を、マクラーレンは大いに促進した。その動機も(じつに彼らしく)理論化されたものだった。この行為は、当時まだ世に蔓延していたヒッピー流れの文化への「反逆」だったのだという。なぜならば彼もウエストウッドも、ヒッピーが唱える理想のなかに、強烈な「偽善」の匂いを嗅ぎとっていたからだ。ゆえにふたりは、若者文化が本来持っていた「ニヒリズム」を復活させようと試みていた。

 ニヒリズムとは、つまり「虚無」主義のことだ。口先だけの「ありがたいお言葉」になど、決して頭を垂れるものか、との不信感の血肉化から始まる「NO」の姿勢を指す。世にあふれる「良識的で肯定的なもの」なんてなにもかも嘘だとして否定し、拒絶すること。その逆に、たとえば洋服に、オートバイのスピードに、ドラッグやセックスに、そしてなによりもロックンロールの「肉体的で、直接的な」快楽に身をゆだねることが、いかなる美辞麗句よりもずっとずっと価値あることなのだ――という刹那の美学と地続きの、ワイルドかつ生命の根源的な喜びに満ちた破滅型ライフスタイルを、「若者らしいもの」だとして、マクラーレンとウエストウッドは正面きって称揚しようとしていた。もちろん、ビジネスを通じて。

 それから〈セックス〉だ。74年にまた改称したふたりの店は、SMファッションを売った。ボンデージ・グッズや、性玩具そのもの、ポルノのイメージを洋服に取り入れた。そしてこの店の宣伝のために「結成させられた」バンドだったから、ライドンたちは「セックス・ピストルズ」という名前になった(バンド名に店名を入れられた)。

 さらに76年、同店は〈セディショナリーズ(Seditionaries)〉となる。これは「(おもに反政府的な)扇動をおこなう者たち」といったような意味だ。この名のもとで、ついに、ヴィヴィアン・ウエストウッド印の「正真正銘」オリジナル・パンク・ファッションが花開くことになる。 

 ずるずると長い袖、そこらじゅうに穴が空いた「ガーゼ・シャツ」。両足の裏側にベルトを付けられた(だから歩きにくい)タータン・チェックの「ボンデージ・パンツ」。そしてきわめつきが「アナーキー・シャツ」だった……こうしたものすべてが、セックス・ピストルズが世間を震撼させた瞬間のコスチュームとなった。

 マクラーレンの没後数年経った2016年11月26日、つまりセックス・ピストルズのデビュー40周年記念日に、彼とウエストウッドのあいだに生まれた息子であるジョセフ・カーが、父が遺した〈セディショナリーズ〉の洋服、同店やピストルズ関連物品、総額およそ10億円(ロイターによると、総額500万から1000万ポンド)相当のものを「全部燃やしてしまう」イベントを開催した。パンク誕生から40周年を祝う「パンク・ロンドン(Punk.London)」なる一大キャンペーンを批判するためであり、さらには同キャンペーンが「王室からも許容されているに等しい」ことについての欺瞞を撃つためのパフォーマンス、だったそうだ。彼の行為の是非はともかくとして(僕は個人的には、すべてオークションなどで金銭に変換したのち慈善団体などに寄付すべきだったと思うが)、真正のパンク・アイテムが、のちの世で「きわめて高い価値あるもの」となっていたという、とてもわかりやすい事例がこれだ。

マルコム・マクラーレンのネタ元

  とはいえ、ピストルズ以外の初期パンク・バンドには、ここまであからさまに「ブランド」や「デザイナー」は関わってはいない。ザ・クラッシュはスプレーを用いて、自分たちでシャツに文字をステンシル・プリントして、コスチュームとした(つまり、手作りした)。のちには古着のスーツを愛用した。こうした「DIY派」のほうが圧倒的多数だった。アート・スクールの出身者も多かったからだ。

 ラモーンズのユニフォームも「自前」だった。ただ、アイデア・ソースは外にあった。70年代中期の米都市部では、ブラック・レザーのライダース・ジャケットというと、ゲイ・ファッションの印象が強いものだった。ぴったりしたTシャツや破れたジーンズも同様だった。こうした感覚を、彼らは「制服」として取り入れた。「俺らのチーム」のアイデンティティとしたわけだ。ヴォーカルのジョーイ・ラモーンは、ラモーンズ結成以前の73年ごろ、つまりグラム・ロックの時代はスナイパーというバンドにて、レギンスの上にビキニ・ショーツを穿いた「フェミニンな」姿でステージに立っていたこともある。

 ちょうど79年の映画『ウォリアーズ』で描かれていたように。ニューヨーク近辺には数多くの「チーム」があって、それぞれが固有のユニフォームを身につけている、場合もあった。それらのチームには、ストリート・ギャングもいれば、ダンサーも、バンドの連中もいた。たとえばラモーンズはクイーンズ区のフォレスト・ヒルズ出身だが、同じ区のホリーズからすこしあとに登場してきたのが一大ヒップホップ・スターとなるランDMCだった。後者は70年代にプロ・バスケットボール界で一世を風靡したレザー・スニーカー、アディダスのスーパースターがトレード・マークだった。前者ラモーンズは、戦前に生まれたローテクのキャンバス・スニーカー、ケッズのチャンピオンやコンバースのオールスターを好んだ。70年代当時、これらは子供の運動靴のような印象だったろうか。ここに僕は「チーム間の駆け引き」のような、一種の対抗意識を見る。「あっちがこうなら、俺らはこう」なんて、お互いがお互いに、つねに牽制し合っているかのような。

  そんな「現場」の一部を、73年にマルコム・マクラーレンは直接目撃することになる。ニューヨーク・ドールズも、そのひとつだった。そして1974年の11月から翌75年にかけてニューヨークに滞在した彼は、まさに全身でもって「誕生したばかりのパンク・ロック」を体験してしまう。商機にさとい彼が、これをロンドンに移植しようとする――もとい、これを「パクった」自前のものを始めようとする――のは必然だった。かくして、彼とウエストウッドの店にて、ロンドン・パンク最大の爆弾は着々と仕込まれていくことになる。あくまでも「洋服販売のための」企画として。

 たとえばリチャード・ヘルが「Tシャツの穴止め」として使用していた安全ピンのアイデアは、マクラーレンによってイギリスに持ち込まれ、そこから拡大解釈されていく。「パンク・スタイルにうってつけのアイテム」として、安全ピンがロンドンで流行してしまうのだ。服に刺すだけではなく、ピアスのごとく耳や鼻に刺したあげく、インドのノーズティカよろしく、耳の安全ピンと鼻の安全ピンを細いチェーンで結ぶ者もいた。あるいは全身のそのほかの箇所、乳首などに安全ピンを刺す者もいた。また安全ピンからの連想だったのか、安全カミソリの刃のアクセサリー化も流行した。

 つまり「安全なはず」のしつらえのなかに収められていた「本当は鋭い尖端や刃がある」ような日用品を、まったくもって安全ではない行為(傷つけることも含めた身体改変)などに強引に利用することで、元来の意味および価値転換を図る――そんなアイデアを象徴するアイテムとして、これらは多くのパンクスに好まれた。のちほど詳述するが、あげくの果てに安全ピンは、エリザベス女王の肖像写真の鼻のあたりに突き刺されることになる。1977年に。

 

【今週の記録映像】

1977 Derek Nimmo, Vivienne Westwood and some Sex Pistols.

77年当時の〈セディショナリーズ〉にTVカメラが入って取材した貴重映像(パンク・ファッション体験記みたいなお笑い企画より)。フッテージには、若きヴィヴィアン・ウエストウッドはもちろん、店員のジョーダン、さらには、そこらへんで缶ビール片手にダラダラしているロットン、ヴィシャス、ジョーンズの姿も。BBCのアーカイヴより。 

1970s Kings Road Punks argue with Teddy Boy

 

そして店外の通りでは、こんな光景もあったのだろう。テディ・ボーイと言い合い(じゃれ合い)するパンク・ガール一行。そこにバイクが走ってきて……という街角の一コマ。77年あたり。 

1955: Meet the TEDDY BOYS | Special Enquiry | Voice of the People | BBC Archive

 

ふたたびBBC。こっちは55年、だからリヴァイヴァル前のモノホンのテッズによる青年の主張。ビートルズ出現前、イギリスの若者ストリート・ファッションの突端がここに。 

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki

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