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編集者と作家の特異で不思議な関係性――エンタメ小説家の失敗学19 by平山瑞穂

過去の連載はこちら。

平山さんの最新刊です。

第4章 編集者に過度に迎合してはならない Ⅰ

編集者との特異で不思議な関係性

 一八年間に及ぶ作家生活の中で、文芸誌に短篇を寄稿したとか、アンソロジーに参加したといった細かい仕事も含めれば、かれこれ一五社ほどの出版社と関わりを持ってきた。その間、担当になった編集者の数も、試みに数えてみたらざっと三〇人ほどにまで上り、少し驚いた(オファーはあったものの、結局仕事として形にならなかったケースも含めるなら、さらに五人ほど上乗せされる)。

 出版社の数より編集者の数のほうが目に見えて多いのは、新潮社のように、単行本と文庫、文芸誌の編集部がそれぞれ違っていて、それぞれに担当が立てられるケースもある一方、本人の退職や部署異動などによって、後任に担当が引き継がれたりもするためだ。

 それにしても三〇人とは、もはや個人として人となりなどを把握しきれる範囲を超えている気がするが、幸か不幸か、ゆきずりの関係に終わる人もいれば、新規の仕事の依頼がぱったりとやんで実質的に絶縁状態に陥る人も少なくないため(かつての担当編集者たちの大半は、すでにそういう状態になっている)、どういう人だったかとっさに思い出せなくて困る、といった不具合は、今のところ生じていない。

 いずれにしても、小説家になる以上、(自費出版でもないかぎり)担当編集者は必ずつけられる。そしてこの、編集者と小説家という組み合わせは、実に特異で不思議な関係性だと僕はかねがね思っている。この章では、その独特な関係のあり方と、そこから派生する問題――特に、それをめぐって僕がしでかしてしまったいくつかの失敗について語ろうと思う。

 編集者が、発注元としての出版社を背負っている立場である一方、作家は編集者を通じて仕事を受注する側である。その意味では、おたがいがおたがいにとっての「取引先」なのだが、その語彙にはどうにもなじまない「仲間意識」のようなものが、この両者の間にはしばしば醸成される。それはとりわけ、文芸書の編集者と小説家の間においてこそ、顕著に現れる気がする。

 それを、「パートナー関係」と捉えている人もいる。

 たしかに、書き手の資質や特性を理解し、把握した上で、「あなたにはこういう作品が向いているのではないか」「こういう作品を書けばおもしろくなると思う」と示唆を与え、ときには細部について一緒に考えをめぐらし、アイデアを出してくれるのは編集者である。創作において作り手と手を携え、ひとつの作品に結実させていくという点で、その立場は音楽におけるプロデューサーとも近い。

詳し過ぎるプロットが生みだす微妙な問題

 そういう捉え方をしている編集者にとっては、前章で触れた、A4で一五ページにも及ぶ僕の詳しすぎるプロットなどは、脅威と感じられることもあるようだ。事実、ある編集者に一度、「あれでは編集者が口を挟む余地がなくなってしまう」と釘を刺されたこともある。

 もちろんそのケースでも、僕なりに言い分はあった。僕はなにも、そこまで作り込んでしまったプロットを最初から出し抜けに突きつけ、「今回はこれでいきます」と高圧的に宣言したわけではない。その作品についていえば、根本的な着想自体はむしろその編集者の発案を受けて生み出したものだったし、プロット作成に至るまでに、打ち合わせを通じてある程度のコンセンサスは形成されているものと思っていた。

 また、それに応じてプロットを作成したからといって、そしてそれが、細かい点についてまでどれだけ綿密に記述され、隙間なく組まれたものだったとしても、「すべてこのとおりでなければいけない」などと言った覚えは、僕にはない。「ここをもっとこうしたほうがいい」といった指摘を受け、そのとおりだと思えば、いくらでも手直しするつもりでいた(他社では、実際にその段階でプロットに相当程度の直しを入れてから進めたケースもある)。

 ただ、それまでの経験からいって、「こんな物語がいいよね」などと漠然としたイメージを語っているばかりでは、いつまでも話が先に進んでいかないことが僕にはわかっていた。いずれかの時点でそれを、「こういう人々が登場し、こういうできごとが起きて、こういう脈絡でこうなる」という具体的な「流れ」として組み立てないことには、それのどこがよくてどこが悪いのか、焦点を定めて建設的に論じることすらできないと思うのだ。

 そして僕は、作中に出てくるあらゆる要素を、その流儀でいったんひとつひとつ(「仮に」ということでもいいので)明確に定義して記述するという方式以外の形では、その「流れ」を組み上げることができないのである。

 なんといっても、最終的に作品を執筆するのは僕自身なのだ。その僕自身が、「これなら迷いなく本稿に取りかかれる」と確信できる形にひとまずはなっていないと、駒を先に進めることができない。それに対して編集者から意見がつき、結果として流れを改めることになるかどうかは、その時点での僕にとって本質的な問題ではないのだ。

 しかしそれは、僕の側の都合でしかない。それを突きつけられた側が、「こうでなければいけない」と宣告されたような威圧感、ともに作品を作り上げていくべき「パートナー」としての自分の存在意義がないがしろにされたような無力感を覚えてしまうかもしれないというところまで、僕の想像が及んでいなかった点は否定できない(言うまでもなく、そんなつもりは僕には寸毫もなかったのだが)。

 僕はおおいに反省して、今後はそういう詳しいプロットに至る前にもうワンクッション置き、「プレプロット」とでも呼ぶべき、意見をつけやすいゆるやかな筋書きを提示することで、編集者との間での文字どおりの叩き台にするという段階を設けようと思い定めたのだが、ちょうどそのあたりで新作の執筆依頼がほぼ途絶えてしまい、その反省を活かす場はいまだに設けられずにいる。

建前としての「作家第一主義」

 それに、くだんの編集者との間に起きたこのすれちがいの背景には、文芸出版業界に昔から存在している、ある「大義としての不文律」みたいなものもあったのではないかと僕は見立てている。それは、「最終的な決定権を持っているのは作家であり、編集者はそれに力添えをしているだけ」という認識だ。もっともそれは、「認識」というより、「立場」と呼んだほうが適切かもしれない。つまり、建前としてはあくまで「作家第一主義」を貫いているのが編集者である、ということだ。(続く)


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