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Q3「パンクスは、なぜトゲトゲ(スパイク)の付いた革ジャンを着るのか?」——『教養としてのパンク・ロック』第7回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第1章:なぜなにパンク・ロック早わかり、10個のFAQ

〈4〉Q3「パンクスは、なぜトゲトゲ(スパイク)の付いた革ジャンを着るのか?」

 今日の我々が知る、尖ったスパイク(Spike)、もしくはスタッズ(Studs)が打たれたレザー・ジャケットのスタイルも、ハードコア・パンクから発展していった。代表的なもののひとつを、同シーンの先駆けとなったバンド、ディスチャージのデビュー・シングル『リアリティーズ・オブ・ウォー』(80年)のジャケット写真から見てみることができる。ブラック・レザーの革ジャンの背中じゅうに鋲が打たれているのだが、僕にはこれが、決して攻撃的なものとは見えない。逆なのだ。つまり戦争に象徴されるような、現実世界のなかにごく普通にあふれる「暴力」から身を守るための防御層として、まるでハリネズミの針のように装着したもの――そんなふうに思えてしょうがない。決して『北斗の拳』の悪者ではなく。

 そもそもパンク・ロッカーが革ジャンを着用し始めたのは、ニューヨークのバンド、ラモーンズが嚆矢(こうし)だった。前述のとおり、音楽ジャンルとしてのパンク・ロック、その基礎を一瞬で作り上げてしまった偉大なバンドである彼らは、一種の「制服システム」を採用していた。メンバー全員、決まりきったドレス・コードに沿った服装「しか」しない、というもので、そのひとつが「ブラック・レザーの革ジャン」だった。ダブルブレストを中心としたライダース・ジャケットが好まれた。

 ほぼ同様のジャケットを愛用していたのが、イギリスのバイカーたちだった。50年代発祥の、ロッカーズもしくはトン・アップ・ボーイズ(トン・アッパーとも)と呼ばれるスタイルがそれで、頭が丸い鋲(Rivet)を打ったり、ペイントしたりしてカスタマイジングした革ジャンを着て、英国製のオートバイをかっ飛ばした。このスタイルが、のちにセックス・ピストルズのなかに転生する。悪名高きマネージャー、マルコム・マクラーレンがクロージング・ストア、つまり服屋さんを経営していたからだ。そのときどきに方向性や名前を変えつつもロンドンはキングス・ロードにて話題を呼び続けていたその店は、テディ・ボーイズ(テッズ)やロックンローラーの「スタイル」に関連する服を売っていた時期があった。そんなところから、ピストルズにも革ジャンが与えられた。ロットンはもとより、シド・ヴィシャスがとくにこれを好んだ。

【今週の2曲+α】 

Discharge - Realities Of War (EP 1980)

ディスチャージ『リアリティーズ・オブ・ウォー』のジャケ&収録曲がこちら。この時点で興隆しつつあった「ハードコア・パンク」とは、70年代組とは異なる時空へと突き進んでいくだろうことを宣言した。

Padre Joins Ton-Uppers (1962)

62年のニュース映像より。別名「トン・アッパー」とも呼ばれた英バイカー・スタイル、ロッカーズの当時の革ジャン姿がここに。オートバイ好きの神父が彼らと交流する、というストーリー。

Ramones - She's The One (Official Music Video)

そしてラモーンズは、このように革ジャンで揃い踏み。78年「シーズ・ザ・ワン」MV用のスタジオ・ライヴ・ショット。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki 

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