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06_文系不要論の系譜学──「二つの文化論争」から見えるもの

人文学の源流を訪ねて

 前回私は、日本学術会議問題という時事的問題から、人文学叩きの問題、そして「役に立つ」学問と教育をめぐる問題を論じた。本連載で一貫して論じてきたところではあるが、そこで明らかになったのは、人文学批判、そして人文学を「役に立たない」学問にカテゴライズして葬り去ろうとする動きの文脈には、新自由主義の緊縮財政があり、また緊縮財政を背景とした大学内部での「政治」(人文学を担う旧教養課程が「狩り場」となったことなど)が存在したことだった。

 学問が「役に立つ/役に立たない」こと、そして人文学が役に立たない学問の代表として扱われていることには、確かに現代の新自由主義特有の論理があるだろう。しかし、「役に立つ/立たない」という問題設定と人文学の位置づけは、まったく新しいものとは言えない。ほぼ近代の人文学の始まりから存在してきたのではないだろうか。

 今回は、一旦現在の日本から離れて、「文系不要論の系譜」を検討していきたい。おそらく今回からは、これまでとはかなり対象とトーンが変わることに戸惑われるかもしれない。ここから本連載では英米、とりわけ筆者が専門とするイギリスに焦点をしぼっていく。それには二つの理由と狙いがある。ひとつには、イギリスと英語圏の人文学は、日本の人文学や教養主義の直接の源流であるということだ。もちろん、今回示唆するように、日本の教養主義というとドイツを中心とする大陸系の人文学がもうひとつの重要な源流として存在するし、大陸系の人文学がイギリスのそれに影響を与えているという複雑な影響関係もある。筆者の専門の関係からこれらについてバランスの取れた記述をするのは困難ではあるが、当面、イギリスの経験に目を向けていきたい。

 もう一つの狙いは、それとは一見矛盾するようではあるが、イギリスにおける人文学や教養をめぐる経験が、あまりにも現代日本のそれとは異質であり、そのように異質なものにこそ現在の苦境から抜け出すヒントがないかということである。

 このように、日本の人文学の源流であるはずなのにその「経験」は忘れられているイギリスの人文学、それを見ていきたい。そしてその歴史の上で、前回問題として「人文学不要論」に近いものがくり返し浮上しているのだ。

 まず検討したいのは、「二つの文化」論争の系譜である。「二つの文化」というと、イギリスの物理学者・文学者C. P. スノーの1959年の講演「二つの文化と科学革命」に端を発する論争である。この論争と同型の論争(つまり表面上は文系と理系との関係を問う論争)は歴史上もう二度繰り返されている。一つは19世紀、マシュー・アーノルドとトマス・ハクスリーとの論争であり、最後のものは1990年代の「ソーカル事件」である。これらの論争をその歴史的文脈とともに一瞥すれば、それらの真の論点は「文系vs.理系」ではないことが明らかになるだろう。

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「二つの文化」──文系と理系の闘い?

 C. P. スノーは1905年生まれ。物理学者であるが、文学者に転向し、「他人と同胞」シリーズをはじめとして、多数の小説を残している。ただ、彼の名前は小説よりも、「二つの文化」と題された講演で有名だろう。 

 この講演は1959年5月7日、スノーがケンブリッジ大学での記念連続講演で行ったものである。基本的な主張は、イギリスにおいて(理系という意味での)科学知識が、あるいは科学教育が軽視されていることだった。例えば彼は、文学者たちの集まりにおいて、「熱力学の第二法則」は何かを問うても、彼らは誰も答えられなかった、それは文学者にシェイクスピアの作品を読んだことがあるかという質問に等しいのに、といった煽りを入れつつ、中・高等教育における人文学偏重を批判、自然科学教育の拡充を訴えた。講演は『エンカウンター』誌に掲載され、さまざまな論争を引き起こした。その中でも、文芸批評家のF. R. リーヴィスの激烈な批判は突出しており、「二つの文化」論争といえば基本的にスノーとリーヴィスとのあいだの論争のことを指す。

 リーヴィスが何者で彼が何を言ったかという問題に進む前に、スノーが批判する「人文学偏重」の意味を解説しておく必要があるだろう。というのも、イギリスにおける人文学重視は、日本の文脈とはかなり異なっていて、イギリスと比較すれば日本はずっと人文学軽視だったとさえ言えるからだ。 

 分かりやすさを優先して、現代のイギリスの中等教育終了資格(GCSE)試験を見てみよう。(実際は、ここで述べる試験制度そのものが、この後紹介する論争の部分的な結果として歴史的に作りあげられたものであることに注意が必要だが)。イギリスでは16歳になるとこの試験を受け、その後は大学進学を目指す学生はシクスス・フォームという課程を2年間学修し、Aレベル試験(日本の大学入学共通テストに大まかには相当)を受ける。これについては本連載の第2回で紹介した。 

 GCSE試験の「文学」という科目を見てみると、全体はペーパー1とペーパー2の二つの試験で、ペーパー1はセクションAとBに分かれる。セクションAではシェイクスピアの劇を一つ選んで論じ、セクションBでは19世紀小説(ディケンズやブロンテ)についてのエッセイを書く。ペーパー2は3セクションで、セクションAは1914年以降の現代文学(オーウェルの『動物農場』など)、セクションBは前もって与えられた詩のアンソロジーから出題、セクションCでは初見の詩の分析が課される。

 これらすべてについて、求められるのは日本の「国語」のような設問への回答ではなく、作品からきっちりと引用しつつ、専門用語も使いながら言語形態や効果の分析をし、また作品の歴史的コンテクストについても論じ、作品についてのみずからの意見形成をし、それを良い文章で書くことが求められる。 

 これはほぼ、日本の英文科の卒論に求められる水準のことである(ただし、最近の英文科では文学の分析はマイノリティになっているが)。それが16歳に課される。日本など人文学軽視の国でしかないという意味がお分かりいただけるだろうか。 

 スノーが人文学偏重を批判する時、どのような文化とその経験を背景にしていたか想像していただけるだろうか。スノーは産業革命の事実を受け容れず、科学の進歩を信じない知識人たちを「生まれつきのラッダイト」と呼び、批判する。具体的にはジョン・ラスキン、ウィリアム・モリス、D. H. ロレンスなどの文学者は、スノーによれば、産業革命の現実に「恐怖の叫び」をあげることしかできない、機械打ち壊し(ラッダイト)運動と同様の感性しか持ちあわせていない人物たちだというわけだ。その煽りに強く反応したのが、F. R. リーヴィスである。F. R. リーヴィスとはケンブリッジ大学ダウニング・コレッジの批評家・英文学者で、『偉大な伝統』などで初期の英文学研究の形を定めた人物として知られる。いまやかなり旧来的で保守的な「英文学」を象徴する名前である。ただし、この後「二つの文化」論争の意味を理解するためには、そのような見方だけでは不十分であるが。だがとりあえずはリーヴィスの批判を見てみよう。

 リーヴィスは1962年に『スペクテーター』誌に「二つの文化?──C. P. スノーの重要性」というエッセイを掲載した。ここで戸惑わざるを得ないのだが、リーヴィスの批判は批判というよりは激烈な人格攻撃と全否定であった。曰く、スノーの文体は下卑ており、彼の小説は真剣に読むには値しないし、さらには物理学者としての仕事も三流であろう、彼になんらかの重要性があるとすれば現在のメディアの中で偶然にも重用されたということしかないと、リーヴィスは口を極める。スノーはリーヴィスを名誉毀損で訴えるか無視するか迷うが、当面後者を選択する。スノーが反論らしきことをするのは、1963年の『タイムズ文芸附録』を待たねばならなかった。

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「二つの文化」と教育の「大衆化」

 「二つの文化」論争は、そしてとりわけリーヴィスによる非難は、なぜこれほどまでに激烈なものになったのだろうか。「文系vs.理系」という枠組みの中だけでとらえていては、その点は理解できない。

 近年「二つの文化」論争についての研究書でもっとも充実したものは、ガイ・オートラーノの『二つの文化論争』である。オートラーノの著作は「二つの文化論争」から見える戦後イギリス社会史とも言えるもので、スノーが明示的な主張をしている教育問題、冷戦下における国際的な科学競争、1960年代以降盛んに繰り返されたイギリス衰退論争、それと関わるイギリス帝国主義の縮小といった、「二つの文化論争」が光を当てるさまざまな問題を論じている。これらの論点はそれぞれに魅力的であるのだが、本論の文脈で重要になるのはやはり、教育とメリトクラシー社会の進展という論点である。この点についてはオートラーノの議論を受けつつ拙著(『〈田舎と都会〉の系譜学』)でも論じたので、その議論を要約しておく。

 「二つの文化論争」の文脈には、20世紀を通して進んでいた高等教育の教育機会拡大、もしくは別の言い方をすれば教育の「大衆化」があった。1900年から1910年に、5つの地方のいわゆる「赤煉瓦(レッドブリック)大学」が誕生する。その間、オクスブリッジの学生数も6千人から7千人に増えている。大学進学率は、1910年の0.83パーセントから1921年の1.1パーセントに微増。戦間期には、1919年設立の新設大学奨学金委員会の活動もあり、イングランドの新設大学の大学生数は1910年の1万人から、1939年には2万2千人に増えている。第二次世界大戦の直前には、オクスブリッジと新設大学、それにスコットランドの高等教育機関も含めると、21の大学に6万人強の学生が学んでいた。

 大学の拡大は、戦間期にひとつの終着点を見いだすのだが、それは階級の流動化、とくに労働者階級や下層中流階級の子弟が奨学金を得て階級上昇をはたす、というパターンを生み出す。新設大学以外でも、オクスブリッジは第一次世界大戦まではいわゆるパブリック・スクール出身の貴族・上層中流階級の場であったのが、奨学金を得た、グラマー・スクール出身の労働者階級・下層中産階級にも門戸を開くようになる。教育=教養の変化と階級流動化の経験を記録したものとして、トマス・ハーディの『日蔭者ジュード』(1892年)やE・M・フォースターの『ハワーズ・エンド』(1910年)、そして1920年代と50年代を舞台とするレイモンド・ウィリアムズの『ボーダー・カントリー』(1960年)といった小説を参照してもよいだろう。いずれも、独学の人、または「奨学金少年(スカラーシップ・ボーイ)」を中心とする物語である。

 第二次世界大戦後、大学は第二次の拡大期に入る。それを象徴するのが1944年・45年の教育法による中等教育の拡大、そして大学に直接関係があるのは、1946年の「バーロウ報告」である。1945年に政府が招集した委員会によるこの報告書は、大学教育を受ける能力のある学生のうち、大学に行けているのは5人に1人であると結論づけている。そして、そのような才能に機会を与えるために、自然科学教育を拡充すべし、具体的には同年に5万5千人いた科学者の数を、1955年までに9万人にすべし、と謳っている。

 この「バーロウ報告」を分水嶺として、その後15年間には大学のさらなる拡大が起こる。1945年から63年までで、大学生数は144パーセントに増加、5つのコレッジがユニヴァーシティの地位に格上げされ、50年代には大学奨学金委員会がさらに7つの大学新設を計画した。しかも、同委員会の計画は、科学・技術教育を最優先とした。1938年と1963年を比べると、科学分野の学生数は331パーセントの増加、技術分野では267パーセントの増加を見た。

 スノーの講演は、以上のような、自然科学分野を中心とする大学の拡大を文脈としていた。いや、それどころか、重要な事実をここで明らかにするならば、スノー自身が、1945年の時点で労働省の要職にあり、バーロウ委員会の一員だったのだ。スノーは自分が政府の中心になってすでに進めていた政策を、追認するかたちで問題の講演をしていたのである。人文学偏重を言い立てるスノーのレトリックには、意図的な誇張があったともいえる。

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二人の奨学金少年と真の対立

 この論争について興味深いのは、スノーとリーヴィスの両者が、まさにここに素描した教育機会の拡大、メリトクラシー社会の進展の申し子だったという事実だ。

 スノーはレスターの製靴工場の事務員を父に持つ下層中産階級出身であり、グラマー・スクールを出て奨学金を得てケンブリッジ大学に入学し、文化的には一段「下」に見られていたが、先に述べたように重視されつつあった自然科学の道に進んだ。典型的な奨学金少年(スカラーシップ・ボーイ)であった。

 対するリーヴィスはケンブリッジのピアノ製造・販売店の店主の息子である。やはり奨学金を頼りにグラマー・スクールを出て、ケンブリッジ大学で歴史と英文学を修め、新設された英文科(つまり国文科)の優秀卒業試験(トライポス)を通過し、1924年には比較的新しい制度であったPhD(博士号)を取得している。リーヴィスは奨学金少年であると同時に、トライポスやPhDといった新たな学歴システム、メリトクラシー的制度の恩恵に与った人物なのである。

 また、リーヴィスがメリトクラシーの申し子だったというのは、その出自だけの問題ではない。ここで、リーヴィスの「英文学」が、よくそう見なされるようにエリート主義的で中・上流階級的なものだったのかどうかということが重要になる。実際、1930年代にリーヴィスは、レイモンド・ウィリアムズのような労働者階級出身の左派に強い影響を与えている。それはなぜだったのか。

 この点を理解するには彼の行った「英文学」という学問の歴史を知る必要があり、それを理解するのは現代の視点からはかなり困難ではあるのだが、単純化するならば、リーヴィスはそれまで古典学や文献学に限定されていた文学研究・批評をよりヒューマニズム的な方向に開いていったと言うことができる。現在の私たちであれば当たり前だと感じるので理解しにくいが、階級やそれがもたらす文化教養に関係なく──文化資本に関係なく──個人として作品に対峙するという文学の受容や研究の道を開いたのがリーヴィスであると言ってもいい(その意味では、現在の日本の「国語」も、リーヴィスの開いた道の恩恵をかなり遠回りにではあるが受けている)。

 ひるがえってスノーは、文学や人文学をエリート主義的なものとみなし、返す刀で自然科学教育によりメリトクラシーで民主主義的な知と教育を見いだしたと言える。

 つまり、スノーにとっての自然科学、リーヴィスにとっての英文学は同じような意味を持っていた。大衆化するメリトクラシーを支える学問という意味だ。それが正しいとして、ではなぜこの二人は対立したのか。大衆化する教育の主役に人文学を置くべきか、自然科学を置くべきかという点での対立だったとみてよいのだろうか?

 イギリスの哲学者サイモン・クリッチリーは、「大陸哲学」の入門を目的とするその著書の中で、唐突に「二つの文化」を論じている。この議論は、「二つの文化」がどのような対立軸の中に置かれていることを理解するのに好適である。

 クリッチリーの議論はなかなかにトリッキーで面白い。大陸哲学(カントやヘーゲルといった、ドイツ哲学を中心とする)の入門書であるはずの『大陸哲学』は、その実イギリス国内に存在する「大陸哲学」のイメージと、自国の伝統である「経験論哲学・分析哲学」のイメージとの対立が存在してきたことを論じる。つまり「大陸哲学」とは海の向こうの何かではなく、イギリス国内の思想的な対立軸を反映したものなのだ。

 その対立軸、つまり「経験論哲学」と「大陸哲学」との対立を言い換えると、それはイギリス国内での「功利主義」と「ロマン主義」との対立ということになる。ほかならぬリーヴィスが編集をして序文を書いた、ジョン・スチュアート・ミルの論集のタイトルを借りるなら『ベンサムとコールリッジ』(1950年)の対立だ。

 駆け足で、この対立の共通の広い背景となっているものを確認しよう。それは産業主義であり、資本主義だ。功利主義とロマン主義は、産業資本主義という新たな状況に対応するための二つの反応だと考えられるべきである。ロマン主義は産業資本主義の現実からは超越した真実の世界を信じ、嘆くべき荒涼とした現実はその真実の水準において統御されるだろうと信じる。功利主義はそんな真実の水準は信じない。この世の個人たちは自分の最大の快を求める利己的な存在であり、社会はそれらの利己的欲望の何らかの形での総計で成り立っている。またもちろん、ここで詳しく跡づけることはできないが、クリッチリーが述べることにも拘わらず、イギリスのロマン主義の伝統にはドイツ系の「教養」の概念も入ってきている。例えばフランシス・マルハーンはここでロマン主義の系譜と呼んでいるものを、〈文化批評Kulturkritik〉の系譜と呼んでいるが、これがドイツ語で呼ばれるのはその系譜における文化/教養の概念にドイツ系の潮流が色濃く流れ込んでいるからだ(これは、日本における教養主義にも通底する)。

 ともかくも、ここで重要なのは、功利主義もロマン主義も、両方とも社会の全体性を考えるための方法であるということだ。とりわけ功利主義とは、単なる個人主義や利己主義ではない。そうではなく、個人主義的で利己主義的な個人たちがどうやったら「社会」を作れるかを問うのが、功利主義なのだ(ベンサムの「最大多数の最大幸福」)。

 『ベンサムとコールリッジ』の序文で、リーヴィスはコールリッジの系譜を継ぐ人物の名前を挙げている。マシュー・アーノルドである。アーノルドはヴィクトリア朝の文人であり、『教養と無秩序(文化と無政府状態)』(1869年)で有名である。アーノルドにとって産業資本主義の嘆かわしい分断(「無秩序」)を解消し、社会をまとめあげてくれるのは「文化(教養culture)」である。ロマン主義における高次の真実は、アーノルドにおいては「文化」に置き換えられる。「文化」とは、アーノルドにとっては、経済的なものや社会制度といった物質的なものとは切りはなされた付け足しのようなものではない。そうではなく社会の全体の秩序をまとめ上げてくれるような何かなのである。

 功利主義の方の系譜は、それはそれで重要で興味深いのだが、ここでは不問に付す。アーノルドが受け継いだロマン主義の系譜は、ほかならぬリーヴィスによって受け取られることになる。リーヴィスの『大衆文明と少数文化』(1933年)の議論は、ほぼアーノルドと同型である。つまり、産業資本主義の現実(大衆文明)を嘆き、文化(少数文化)にその解消を託す。リーヴィスにとっては、「文学研究」という学問分野こそがその「少数文化」である。

 そのことは、『教育と大学』(1943年)でも論じられているが、『ベンサムとコールリッジ』の序文でも簡潔にまとめられている。リーヴィスは、序文において、文学研究が文学以外の学問分野の研究も必要とすることを主張し、次のように述べている。

 私が主張しているのは、文学研究を真の学問分野(それなしでは真の教養教育〔リベラル・エデュケーション〕があり得ないような学問分野)として……擁護することへの私のこだわりは、当然の理として、現在の学問的な実践において目撃することができるいかなるものよりも厳密な、文学以外の学問へのこだわりを必然的にともなう、ということである。

 ここでリーヴィスが言っているのは、文学研究とは文学を読むだけの狭い学問ではなく、他の人文諸学問をすべて包含するような学問(教養教育)であり、それは(さらに敷衍すると)アーノルドが「教養=文化」と呼び、リーヴィス自身が「少数文化」と呼んだ、疎外された現代社会の矛盾を解消し、再統合してくれるような何かなのだ、ということである。文学とはすなわち教養教育(リベラル・エデュケーション)の中心であり、教養教育とは他の諸科学への付け足しやその単なる基礎ではなく、社会の全体性にかかわるものである。

 リーヴィスが擁護するようなこうした「教養教育」は今や古くさいものだと思われるだろうか。もちろんそう感じられるだろう。だが、彼が夢見ている、すべての学問を包含するような、そして産業資本主義の弊害から社会を救い出すような教養教育としての文学教育/研究は、あまりにもラディカルに私たちの想像力を超え出ているようにも感じられないだろうか。リーヴィスの信念があまりにも荒唐無稽に思えるなら、なぜ、どこでそうなってしまったのかを問うてもよいだろう。

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別の系譜──成人教育へ

 さて、「二つの文化」論争の対立の本質がいかなるものであったかは、以上で明らかにしたつもりである。先に私は、スノーとリーヴィスの対立は「大衆化する教育の主役に人文学を置くべきか、自然科学を置くべきかという点での対立だったとみてよいのだろうか」と問うた。この問いへの答えは、とりあえずはイエスである。確かに二人は、教育の主役にそれぞれ人文学と自然科学を置くことを主張した。だが、それは現代で私たちが考えるかもしれないような文系対理系の対立に矮小化されるべき対立でなければ、「役に立つ学問」対「役に立たない学問」のそれへと矮小化されるべきものでもない。二人の対立を功利主義とロマン主義との対立という観点で見るとき、そこに賭けられていたのは、社会の全体性を問いうる学問は何か、という真摯な疑問であった。

 さて、もちろん前節の新たな登場人物、マシュー・アーノルドは、生物学者でダーウィン主義者のトマス・ハクスリー(『すばらしい新世界』のオルダス・ハクスリーは彼の孫)と、「二つの文化」論争と同様の人文学対自然科学の論争を行った人物である。

 ここでアーノルドとハクスリーの論争の詳細には立ち入らない。だが、「二つの文化論争」もアーノルドとハックスリーの論争も、文系対理系の論争というよりは、やはりロマン主義と功利主義との対決であることは確認しておく。

 その観点から興味深いのは、これらの論争が19世紀後半と第二次世界大戦後というタイミングで行われたことだろう。この二つの時期は、いずれもイギリス社会に大きな変化が起きた時期である。前者がイギリス帝国の版図が最大となり、同時に国内の産業社会が爛熟し、その弊害(労働と搾取をめぐる問題)が前面に出てきた時代であるとすれば、後者は帝国は縮小しつつ、福祉国家とメリトクラシーが花開いた時期であることは論じた通りだ。注目すべきは、そのような社会の変化に応じていずれの時期にも教育の「大衆化」と要約できるような状況が生じていたことである。戦後については述べた通りだ。19世紀版の論争については、1870年の教育法、通称フォスター法の存在が大きい。これは初等教育を原則として義務教育化する法律だった。

 このような変化が生じるタイミングで、「二つの文化」的な論争が起きるのは、偶然なのだろうか? 二度目までは偶然かもしれない。では、三度目は?

 私がここで言っているのはソーカル事件である。ソーカル事件は1990年代版の「二つの文化」論争であり、ここまで論じた二つの文化論争とはかなり異質な歴史的背景を持っている。だが、ここまでで得られた見通しをもってこの論争を見ると、それは「現代の教養」がいかなるものであるべきかに大きなヒントを与えてくれることが分かるだろう。

 ただし、ソーカル事件を論じる前に、ここまで論じてきた教養と教育の系譜とはまったく違う系譜を検討したいと思う。それは、成人教育の伝統である。


つづく


参考文献
Critchley, Simon. Continental Philosophy: A Very Short Introduction. Oxford UP, 2001.〔『ヨーロッパ大陸の哲学』佐藤透訳、岩波書店、2004年。〕
Leavis, F. R. Two Cultures?: The Significance of C. P. Snow. Cambridge UP, 2013.
Mulhern, Francis. Culture/Metaculture. Routledge, 2002.
Ortolano, Guy. The Two Cultures Controversy: Science, Literature and Cultural Politics in Postwar Britain. Cambridge UP, 2011.
Snow, C. P. The Two Cultures. Cambridge UP, 2012.
河野真太郎『〈田舎と都会〉の系譜学──二〇世紀イギリスと「文化」の地図』ミネルヴァ書房、2013年。

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