「エロい! ――平山さん、それすごくエロいですよ!」――エンタメ小説家の失敗学37 by平山瑞穂
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平山さんの最新刊です。
第7章 “共感”というクセモノを侮ってはならない Ⅱ
不意に湧いてきたイメージ
思いのほか混み合っていた店内で、アイデアは順調に迸り出てきた。
「ストーカー殺人の容疑者が、対象である女性に執着する心理を、本人視点で赤裸々に綴る」という、僕が開陳した腹案を叩き台にしながら、設定は着々と膨らんでいった。その容疑者は妻帯者であり、執着していた女性との関係自体が不倫だったというのはどうか。そしてその執着のありようは、第三者から見れば狂気でしかないのだが、本人には本人なりの「無理からぬ理由」や、そうしなければならなかった道理があったりする。その道理を、本人が滔々と、しかも一見、ほころびのないロジックを駆使しながら、理路整然と語る。
Nさんはその方向性に賛意を表しながらも、「その容疑者の視点だけだと単調になりかねないので、彼を取り調べる警察や検察側からはどう見えているかも、同時に綴ったほうがいいかもしれないですね」という意見をつけてきた。
「その刑事なり検事なりの日常も、並行して語るような形で」
そう言い添えるNさんの案を耳にしながら、僕の脳内には不意に、あるイメージが渾々と湧いてきた。僕は勢い込んで、そのイメージを言葉にしてみた。
「だったら、こういうのはどうです? ――きまじめな検事がいるんです。奥さんのことも大事にしていて、浮気なんて考えられないようなタイプです。その検事が、ストーカー殺人を犯した容疑者の取り調べを進める中で、知らず知らずのうちにその容疑者の考え方の影響を受けてしまうんです。なにしろその男の言い分は、ある意味では一応、筋が通っているわけだから」
「はい。それで?」
「それでその検事には、女性の立会事務官がついているんですが、彼はその女性事務官を次第に異性として見るようになり、気がつけば怪しい関係になってしまっている、という……」
Nさんは、一瞬の沈黙を挟んでから、興奮した声音でこう言った。
「エロい! ――平山さん、それすごくエロいですよ!」
念のため、あらためて言っておくが、Nさんは女性である。しかし、彼女が使う「エロい」は褒め言葉であることを僕は知っていた(思えば、第4章で述べたとおり、やはり女性である小学館のMさんも、「エロい」という語で僕の文体を褒めてくれていたのだが)。
「ですよね? エロくないですかこれ、いいですよね、これ!」
「すごくいいです! それでいきましょう!」
すっかり意気投合して、あたり憚らぬ大声で「エロい!」を連発する僕たちに、隣のテーブルに向かい合わせで座る品のいい高齢のカップルが向けてくる、さも不審げで迷惑げな視線が痛かった。
手弁当での取材
こうして作品の基本コンセプトはすんなりと決まり、それからの僕は精力的に執筆準備に取りかかった。例の異様に詳しいプロットを起こしたのはもちろん、検察の仕組みや検事の仕事内容などについて勉強するかたわら、福井市や、九頭竜川の河口である三国町などを巡る取材旅行にも赴いた(作中で明示してはいないが、物語の舞台はそのあたりという背後設定だったため)。取材旅行といっても、僕レベルの作家では、編集者が同行してくれたり、経費が版元から下りたりするわけではない。すべて手弁当だが、質の高い作品にするためなら、そんな出費は厭わなかった。
結果として書き上がった原稿は、ほぼ、目白のビストロでNさんと合意に達した筋書きを、忠実になぞったものとなった。
某地方都市の地裁で検事を務める、「堅物」で通っている四三歳の荒城倫高のもとに、三一歳の被疑者・鳥越昇が送検されてくる。鳥越は、自らの結婚から一年も経ていないにもかかわらず、同じ職場の後輩である松谷紗菜絵に一方的に思いを寄せ、執拗につきまとったあげく、川に突き落として溺死させた疑いがかけられている。本人もその際に誤って川に転落したが、一命を取りとめたという。荒城からの取調べに応じた鳥越は、殺人に関しての認否をあきらかにしないまま、ただ自分の言い分を聞いてほしいと言って、紗菜絵との出会いから現在に至るまでの経緯を詳細に語りはじめる。
警察の見立てとは違って、自分が結婚する数年前から紗菜絵とは男女の関係が成立していたと鳥越は主張し、紗菜絵がいかにずるかったか、それに対して自分が怒りを覚え、結果として彼女を執拗に責めるようになったのがいかに無理もないことであったかをわかってほしいと荒城に訴えつづける。
現在は妻となっている真紀と鳥越がすでに交際していたことは知った上で、紗菜絵は鳥越と男女の関係になったにもかかわらず、いざ鳥越が真紀と結婚すると、うしろめたさに耐えられなくなったのか、紗菜絵は突如として距離を置きはじめ、鳥越との恋愛関係など最初からなかったかのようにふるまいはじめた。そればかりか、自らも片棒を担いでいたにもかかわらず、妻に対して不実な鳥越のことを咎めはじめた。それがどうしても許せず、謝罪なり弁明なり、本人の口から納得のいく言葉を聞きたくて、自分は紗菜絵につきまとっていたというのだ。
一方で鳥越は、紗菜絵とそういう関係になったのは、自分の中に「どうしても埋まらない空洞」があり、それを埋めようとした結果だったのだと語る。配偶者としての真紀に不満があるわけではないが、それとは別に、常にその空洞が存在していて、それを埋めようとせずにはいられないのだと。子どもはいないものの、その分、妻ちづるとの関係は濃密で、愛妻家としても知られる荒城だが、鳥越の供述を聞くにつけ、自分にも思い当たる節がないでもないことに気づきはじめてしまう。
そのさなか、人員に空きが出たという理由で、札幌高検への急な異動を告げられた荒城は、検事室で終始、二人きりで過ごしている三〇歳の立会事務官・野沢瞳を、今さらながら異性として意識してしまっている自分に気づく。そして、異動を前にした慌ただしさの中で、あたかも鳥越の供述に操られるかのように、瞳との距離をにわかに詰めていってしまう――。
そういう物語である。(続く)