伊藤亜紗『手の倫理』|馬場紀衣の読書の森 vol.15
「さわる」と「ふれる」は、英語にすると、どちらもtouchになるけれど、ニュアンスは微妙にちがう。傷口はふれる、だけれど、虫にはさわれない、といった具合に。人はこの触覚に関するふたつのあいまいな動詞を、その都度、状況に応じて使いわけている。ところでtouchという単語には、かすめるような、相手を小突くような、ささやかな動作による印象を受けるのだけれど、これはわたしだけだろうか。
著者の伊藤亜紗さんは美学者で、これまでも身体をめぐる多くの著書を世に送り出してきた。そんな著者が、今回テーマとして選んだのが「手」。人が人にさわる、という自然な動作によって経験される人間同士の共鳴と信頼、関係の形成、情報伝達の手段としてのコミュニケーションの可能性などが、分かりやすく説明される。
わたしはこの人の書くものがほんとうに好きだ。五感をつかって体験されることは、ほとんど個人的経験として身体に留まるものである。ふれる、ふれられる、こともそうだろう。人にふれる、という相互性を伴う行為は、接触面の力加減やリズムなどの「程度」をまちがえてしまうと、いとも簡単に暴力になりうる。それほど、触覚というのは繊細なのだ。こうした目に見えにくい感覚を、自分の身体が他人の脅威になりうる、という警告を、この人はテーブルで交わされる日常会話のような自然さで話してしまう。けして押しつけることなく、説くのでもなく、そういえばこんな話があるのだけど、ちょっと聞いていかない? といった雰囲気で語ってしまうのだ。だからたちまち文章がはいってくる。そして、本を閉じた瞬間から、学んだことを実践できる。この本を読んだ人はすべからく、ふれる、ということに無頓着ではいられなくなるはずだ。それはとても優しい変化だと思う。
メッセージを受けとるためには、自分でないものに自分をあずける信頼感がなくてはならない。そうして実現される共鳴を、著者は目が見えないランナーと目が見える伴走者との関係を例にあげて説明する。走っているあいだ、二人の体のなかでは、誰のものとはいえない匿名の感情が響きあう。それは、たんに側にいる、というのとはちがう。こうなると、ふたつの体の線引きは曖昧になってくる。
かくして人間同士の関係の創造的可能性が立ちあがってくる。見ること、聴くこと、ひとつの感覚に寄りかかるのではない、これまでにない感覚の通路がひらかれる。これもまた、体がなくては経験できないことだ。よく知ったつもりでいる体が、驚くような感覚を秘めていることにまた気づかされた。