「小説を読めば、なんらかの共感が得られるはず」という当然の前提――エンタメ小説家の失敗学39 by平山瑞穂
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第7章 “共感”というクセモノを侮ってはならない Ⅳ
「共感できない」は「つまらない」?
だから、発売後、「共感できなかった」という感想が続出したとしても、そのこと自体は問題ではないはずだった。そもそも、共感されることを期待していたわけではないのだから。しかし先に述べたように、一般読者にあっては、「共感できない」は実にしばしば、イコール「つまらない」なのである。
この作品(『僕の心の埋まらない空洞』)の読者レビューで代表的なものは、おおよそ以下のような論調だった。
「不倫を正当化している男たちの身勝手な言い訳を延々と読まされてうんざりした」「不倫以外のなにものでもないものに意味づけして美化しようとしているのが見苦しい」「男二人の自己正当化の言い訳が不愉快」。中には、「浮気はよくない。ストーカーもよくない」だけで完結している感想もあった。
浮気やストーカーがいけないなどというのはあたりまえで、わざわざ言及するまでもないことだ。当然のことながら、僕はこの作品を通じて、不倫やストーカー行為を肯定していたわけでもないし、弁護していたわけでもない。そうした倫理的反感や批判の先にあるもの――非難される行為であることがわかっていながら、人はなぜ不倫やストーカー行為に走ってしまうのか、その根源を突きつめたかったのだ。
読者を不愉快にさせることも、織り込み済みだった。むしろ不愉快にさせることによって、問題の核心に目を向けさせたかった。だが、読者の多くは、「不愉快だった」という感想で終わりにしてしまった。その理由は、「共感」という語をキーとした一連の感想に目を通していれば、おのずと見えてくる。
「身勝手な男の話で、共感できなかった」「女性の共感は得られないだろう」「これは男性のほうが共感できる内容なのでは?」などなど。こんな感想もある。「オビに既婚者が共感すると書いてあったが、どうなのか訊いてみたい」――これは、単行本のオビに書かれていた以下のコピーのことを指しているものと思われる。
これは担当のNさんが考えたコピーだが、いずれにせよ、「身に覚えがある」あるいは「思い当たる節がある」という理由で脅かされることは、「共感」とは違うと僕は思う。「既婚者が共感する」とは、オビにはひとことも書いていない。しかしこのレビュアーは、それを「共感」と解釈したのだ。それはとりもなおさず、「小説を読めば、なんらかの共感が得られるはず」ということが当然の前提になっていることを意味するような気がする。
だからこそ、「共感できない小説」は、「つまらない、読んでも意味のない、不愉快なだけの小説」とジャッジされてしまうのである。
自分が伝えたかったことが読者にまるで届いていないことを目の当たりにさせられるこうしたレビューの数々に打ちのめされていた僕は、その中に稀に見出せる、「共感はしないが言い分は理解できて引き込まれた」「ストーカーの気持ちはわからないが、言いたいことはわかる。そのへんの匙加減がうまい」「著者の筆力によって気色の悪い思考回路をグイグイと読まされてしまう怖い本」といった文言に、「わかってくれる人もいないわけではなかったのだ」と思わず涙しそうになってしまった。
あえて反感を買いそうな題材を取り上げることで、世の中に蔓延する常識や良識に一石を投じるというのも、手法としては許容されるはずだ。「嫌悪感を感じながらもつい引き込まれてどんどん読んでしまう」という種類の小説だって、あっていいと思う。ただ、次のことは決して忘れてはならない――一般読者の多くは、小説を読む際に、ただ情緒的な共感を求めているだけなのだ。
「不愉快だった」のひとことで片づけられてしまうリスクを負うことなしに、そうした捻りを加えた小説を世に問うべきではない。それが、僕から提示できる助言だ。(続く)