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『ボヘミアン・ラプソディ』の歌詞を徹底解読。フレディは本当に「作詞が苦手」だったのか?

映画の大ヒットも記憶に新しいクイーンの名曲『ボヘミアン・ラプソディ』。「過去1000年でイギリス人が選んだ最も重要な曲」はどこか「ヘン」な曲でもあります。そこに込められていると噂される、ある「謎」のことを知っていますか?
映画研究者かつクイーンの音楽を愛する菅原裕子さんが、「謎」を追いかけた先に見たものとは――
前回の記事(第2章―前半)はこちらから。
連載全体の見取り図はこちらからご確認できます。
ぜひクイーンの音楽を聴きながら、ゆっくり楽しんでください。
(記事は頂いた原稿を端折らずにすべて公開しております!)

『ボヘミアン・ラプソディ』の歌詞を読む 

前回はクイーンのビジュアルと音楽性を考察したが、今回はいよいよ問題の、歌詞である。
曲を聴いたことはあっても、曲全体の歌詞を知っている人はそれほど多くないかもしれない。それでも、あまりにも有名なバラード・パートの冒頭、フレディが歌う“Mama…… just killed a man…”(ママ、人を殺してしまった…)の一節を知らない人はいないだろう。「ママが人を殺してしまった」歌だと思っている人もいるかもしれない(ここのみ聞いただけであればそれも十分に考えられる)が、続くフレディの心の叫びのような「語り」を通して吟味してみると、やはり主人公が人を殺してしまった歌のように解釈できる。

しかしそれがヘンである。なぜそんな重大なことを切なげに謳いあげているのか。なにより、物騒ではないか。本楽曲がすごくてヘンなのはこれまでに述べた「音楽的」要素が大きいからだが、それと同じくらい、この歌詞が理解を越え、謎に満ちているからである。それでは、全体の流れをつかみながら、パート毎に歌詞を読んでいこう。

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A)アカペラ・パート(~0分53秒)

まず全編を通して共通しているのは、この歌詞が主人公らしき人物の独白であるということである。(A-4)で初めて主語のIが出てくるが、その人物は「哀れな男」(A-4)であり、「気ままにさすらう性質」(A-5)であると、本人によって語られる。その後、Bのバラード・パートでいっそう深刻な状況が明らかになっていき、「死にたくない」「いっそのこと生まれてこなければよかった」(B-7)(B-8)と、悲痛な告白がされる。曲の冒頭では、主人公は現実と幻(A-1)(A-2)の二つの世界のはざまにいるように感じており、その現実から逃れようとしている(A-3)。しかし最後には「たいしたことではない」と開き直り、あるいは諦めともいえる少々投げやりな態度へと移っていく。

ジプシー、流浪の民という意味も持つ「ボヘミアン」という言葉は歌詞には一切出てこないが、easy come, easy goに見られる「気ままにさすらう性質」(A-5)の箇所が、伝統や習慣に縛られない自由人ということで関連している。

冒頭よりアカペラで歌われ、メンバーとの美しいハーモニーが特徴的。独白であることが明確に歌詞に表れているにもかかわらず、声は多重という形式が、主人公が現実とも幻ともつかない場所にいること、あるいは、二つの世界のはざまで引き裂かれているかのような効果をあげる。フレディが「僕は哀れな男 同情はいらない」とひときわ高く歌い上げる部分は言葉の意味が強調され、聞く者に、この主人公はすなわちフレディ自身ではないのかという印象を与えてもおかしくない。

B)バラード・パート(0分53秒~3分04秒)

このパートでは、上で述べたように、Aパートで明らかになった(独白する)I=主人公の訴えが徐々に具体的になり、「死にたくない」「いっそのこと生まれてこなければよかった」(B-7) (B-8)と、深刻化していく。そして、主人公の周囲に他の人物たちの存在が見えてくることに注目したい。

まず「ママ」(B-1)が出現し、その呼びかけは何度も繰り返され、彼女が本人にとって非常に大きな存在であることがわかる。マザコンではないかという解釈も可能だろう。加えて、主人公が殺したのは「男一人、しかも特定されていない男」(B-2)であること、「彼の頭に」(B-3)銃をつきつけ、「私が引き金をひいたところ、死んだこと」(B-4)が明らかにされる。
また、主人公は「みんな」(B-5)に別れを告げる。独白を続ける主人公は、(誰かは不明であるが)大勢の中にいる自分を意識しており、「もう行かないと」と彼らから決別する。「みんなを残して、真実と向かわなくては」(B-6)と離れていくのである。

この曲をシェイクスピア作品と並べて読む学者にとって、とりわけこの箇所は演劇的な展開を想起させ、親和性が高いように思う。ある学者は、悲劇の主人公が哲学的な問いを自分に投げかけていると解釈し、『ハムレット』の“To be, or not to be: that is the question. ”(生きるべきか死ぬべきか)との類似を挙げる。あるいは『マクベス』の“Life's but a walking shadow, a poor player. That struts and frets his hour upon the stage. And then is heard no more. ”(人のいのちは歩き回る影法師、哀れな役者にすぎぬ。精一杯出番を勤めるが、それが終われば、なにも残らぬ)や、『お気に召すまま』の“All the world's a stage, and all the men and women merely players. ”(この世は舞台、人はみな役者だ)という一節も引き合いに出される。

まるで、舞台に立った主人公が、今まさに(それまで一緒にいた)大勢から一人離れ、立ち去ろうとする場面――たとえばスポットライトを浴びながら――を思わせ、非常に演劇的である。私は「さようなら、みんな」(B-5)というヒロイックな一節に――感情のこもったフレディの声の調子も含め――歌舞伎の見栄に共通するものを感じる。それまではなかった「みんな」の存在がこの一節で一気に明らかになり、主人公とその周囲の空間性、関係性があらわになる。冒頭の“Mama…… just killed a man…”に次ぐ、見事な決め台詞のように思えるのだ。

「人を殺した」という驚くべき告白をしていること、スローバラードで語りかけるように歌っていること、他のパートのように別の声とのハーモニーが(ほぼ)ないという点で、Bパートは最も真摯に自分の心を告白しているとも解釈できる。

C)オペラ・パート(3分04秒~4分09秒)

最も論争の的となるパート。突如としてオペラ風に変調し、バラード・パートとは似ても似つかない喧騒に満ちたユニークな展開となる。謎の中心はもちろん、唐突に現れる5つの固有名詞とおぼしき語である。オペラ風ということもあり、前半はイタリアあるいはその系統、そして後半は中東風のエキゾチックな雰囲気と共に宗教的な印象を与える。

スカラムーシュ(C-①)とは、16世紀イタリアに始まり、17世紀ヨーロッパ全体で流行した即興喜劇(コメディアデラルテ)の道化を表す。道化師の、一見華やかだが孤独なイメージはフレディ自身のそれと重なり、彼自身を表しているという説もある。また、同じ理由でその直前の歌詞「一人の男の小さなシルエット」がフレディであるとも言われる。プロモーションビデオに登場する影は確かにフレディのものではあるが。

ガリレオ(C-②)は、言わずと知れたイタリアの物理学者であり天文学者。ただし唐突であり、脈絡はなさそうである。科学者ということでブライアンを指すのではという人もいる。

フィガロ(C-③)とは、オペラで有名な『セビリアの理髪師』『フィガロの結婚』の元になった18世紀フランスの劇作家ボーマルの戯曲の主人公フィガロを表すのではと言われている。いずれも軽快でコミカルなオペラだが、主人公がクイーンにおける静かなる男・ジョンを思わせるという説もある。
ここまではイタリア的な登場人物が次々に現れ、主人公は彼らに対し哀れみをかけてほしいと懇願する。同情した彼らは救済の手を差し伸べるようだ。両者のかけあいは、宗教色が色濃くなる後半でさらにエスカレートしていく。

ビスミーラ!(C-④)はコーランの一節で「アラーの神よ!」の意である。アラーの神は容赦ないようだ。主人公は逃がしてほしいとさらに恩赦を求める。彼を赦してやれという(おそらくイタリア的)人物たちと、絶対に逃がさないという声が対立する。さらに、僕を逃がしてという強い懇願は悲痛な叫びになり、絶対にダメだという強い声に押しつぶされそうになる。

なんてことだ(mama mia)と叫ぶ彼は、ベルゼブブ(C-⑤)――キリスト教新約聖書では魔王、悪魔を表す――が自分に悪魔を差し向けてくるとまで思いつめる。かけあいはエスカレートしていき、主人公はさらに追いつめられていく。
ベルゼブブはメンバーの中ではロジャーにあたるのではという説がある。女性ファンがあまりにも多く、「悪魔のように」魅力的であるからという理由のようだ。

好奇心旺盛なメディアがフレディに「悪魔学に興味があるのですか?」と尋ねる一幕もあった。フレディが笑顔で「あるよ!」とお茶目に切り返していたのが印象的であった。

D) ハードロック・パート(4分09秒~5分12秒)

前パートのコーランの一節からの流れを受け、ここでも「石をぶつけ顔につばを吐きかける」という箇所に宗教的な含みが見られる。愛とその破綻、見殺しにするといった、厳しく悲劇的で救いようのない展開。主人公は逃げようともがく。

ブライアンのギターが唸り、フレディのボーカルに対するもう一つのボーカルのごとく――ツインボーカルと呼ぶ人もいる――、存在感を見せつけるパートである。

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「僕にとって、ギターとはリードする楽器であり、声にもなり得るけれど、どんな時もヴォーカルのもとでプレイされなければならないもの」by ブライアン・メイ

B) バラード・パート(5分12秒~)

そしてなにも解決してはいないのだが、ギターも合唱もおさまり、主人公は「何もたいしたことはない」という境地に至る。「どうだっていい」というのはすべてをあきらめた上での観念した心持ちなのか、あるいは投げやりな態度なのか。

「たいしたことじゃない」は、前に挙げた『マクベス』の“Life's but a walking shadow, a poor player. That struts and frets his hour upon the stage. And then is heard no more. ”(人のいのちは歩き回る影法師、哀れな役者にすぎぬ。精一杯出番を勤めるが、それが終われば、なにも残らぬ)の台詞に通じ、それはすなわち「無」を表すという意見もある。戸惑いから始まり、自らの感情を激しく告白し、裁かれ、赦しを乞い、ギターと共に心の叫びをぶつけた主人公は、このように静かな時を迎える。

歌詞の解釈は多岐にわたり、とりわけインターネットでは「まとめをまとめた」ようなサイトも多く、実のところ収拾がつかない。それでも、上記に挙げた個別的な解釈以外に全体的な流れをまとめるとすると、これは殺人を起こした若者の物語であり、前半では、繰り返される「ママ」への呼びかけが象徴するように、罪悪感や自分の人生を自らだいなしにしてしまったことへの後悔、恐怖、絶望が告白される。後半では、あたかも裁判が繰り広げられているような展開となり、宗教的、倫理的に彼を裁こうとする者と、彼を救済しようとする者が現れ、主人公は混乱のまま恩赦を求め逃げまどう。そして最後には諦念の域へと向かっていく。

人を誤って殺した若者が自分を救済するために悪魔に魂を売ろうとする、ファウストのモチーフになぞる学者もいる。あるいはカミュの小説『異邦人』の冒頭、有名な「今日ママンを殺した」という一節との比較も可能だろう。

また、“Mama”「ママ」という呼びかけがロックの歌詞としては異質であるという指摘も見逃せない。つまり、母親を“Mama”「ママ」と呼ぶのはイギリスではきわめて限られた上層階級のみであるからだ。後ろにストレスを置いて「ママ」maMaと発音する――と言うとわかりやすいだろうか?「お母様」、あるいは日本語で子供が甘えて「ママー」と呼んでいるような感じ。かなり時代錯誤な表現だし、フレディは良家の子女ではあるが、1970年代において彼が実際に母親を“Mama”「ママ」と呼んでいたとは到底考えられない。母ジャー氏の話からも、普段は“Mum”と呼んでいたようだ。つまり、フィクションとしてかなり作りこんだ、技巧を凝らした上での言葉の選択と考えられるのだ。とすると、この主人公を単純にフレディ自身と見立てるのは安直かもしれない。

ちなみに、チャールズ皇太子が2012年エリザベス女王即位60周年記念式典で、正式な場で使われる “Her Majesty”(女王陛下)ではなく“Mummy”(お母さん)と呼びかけたことが大きな話題となった。知らされていなかったらしく、女王は一瞬目を丸くして驚きの表情を隠さなかったが、ほのぼのとしたよいシーンとして受け止められた。ハリー王子のアイデアだったそうだが、キャサリン妃人気の影響もあり、開かれた王室をアピールするよい機会ともなった。

チャールズ皇太子が普段女王をどのように呼んでいるかは好奇心旺盛な市民の一つの「謎」のようだが、少なくとも公の場や談話では女王を“Mama”と言及している(ただし呼びかけではないようだ)。基本的には、王室のようなごく限られた上流階級が正式な場で使う語彙である。ただし文脈によっては特別な親愛の情を示したり、幼さを表したり、また、わざとおどけてきどった印象を意図して使われることもある。したがって『ボヘミアン・ラプソディ』がこの言葉を用いてなにかのパロディを目指したという読み方もできるだろう。

また、実際に人を殺してはおらず、二つの世界(現実と幻想)自体がすべて仮のものであるという読み方もできそうだ。次に紹介するオックスフォード大学の学者たちは(詳細は次回以降にも記すのでご覧いただきたい)、主人公の青年をフレディと重ねながらも、冒頭の箇所を「いやいや…殺してないから….」とも評している。いずれにせよ、解釈はこの曲を読み解こうとする人の数だけあるといっても過言ではない。インターテクスチュアリティ(間テキスト性)豊かで、解釈を鑑賞する者に委ねる、オープンエンドの形式に則っていると考えればよいのではないか。

オックスフォード大研究者たちの解釈

The Story of Bohemian Rhapsody(2004年BBCドキュメンタリー)ではオックスフォード大学の研究者たちが楽曲を分析している。彼らの解釈は第四章でも再びとりあげるが、一般的にも影響力があったのではと思われるので、会話の形でそのまま紹介しておく。

興味深いことに、Bバラード・パートの歌詞の構造に「性的な感覚」が見られると話し合われている。

「震えがとまらない、痛み……多かれ少なかれあらゆる性的な感覚がみられるね。」
「なるほどね。詞の構造は、ある種の性的なリズムをたどっているね」
「そして最後は性交で終わる ……でも虚無的な感じではなくて、単に行為の後の疲れに包まれた淡々とした、無防備な状態 ……」

Cオペラ・パートでは次のような会話が交わされる。

「ガリレオ、ルネッサンス期の科学者で天文学者――ガリレオがここに来る理由はないな。」
「フィガロはたぶん『フィガロの結婚』…モーツアルト?」
「マグニフィコ(貴き者よ、あるいは貴族の意のイタリア語)――フィガロに音が似てるからだな。フィガロはガリレオに似てる。」

オペラ・パートを聴きつつ、話は続く。

「関連しあう文化的なほのめかしがいろいろ混ざり合っているね。」
「それぞれを結びつけてみることはできるな。」
「でも我々がそれを言い出したらちょっと行き過ぎだな。」
「私もそう思うな。音がいいからだけじゃないの。」
――「我々が詞についてあれこれ口出すなんてフレディが知ったらどう思うかな?」
「気にしやしないさ。『ばかばかしい!』ってね。」

要は、お堅い学者たちが大ヒット曲について真剣に、ああでもないこうでもないと実に楽しそうに語り合っている風景なのである。つまり、本当のところは誰にもわからないということだ。

だからこそ、この歌に惹かれるのかもしれない。歌詞の謎を解きたいが一筋縄には解決しない。わからないから、謎めいているからさらに好きになる。
作詞作曲はフレディで、レコーディングの段階においても曲の全容は彼以外誰も知らなかった。本人はもちろんメンバーたちも、その後何年にもわたり繰り返しあちこちで尋ねられることになる――これはどういう意味なんですか?――と。音楽ファンの憶測や解釈も増えていく。しかし、彼らが歌詞について説明したり解説したことは一度もなかった。 

クロスオーバーの魅力

フレディの曲作りはメロディ先行で、次に曲の全体的な構成を組み立て、最後に歌詞を合わせていくことが多かったという。本楽曲も例にもれない。

「歌詞は苦手」「僕の歌詞はファンタジー、作り物である」という発言もある。気の利いたフレーズが散りばめられていたり(『キラー・クイーン』などはまさにそうだろう)叙事詩のようにスケールの大きな、豪華絢爛な世界を生き生きと描く歌詞も多く生み出しているのに、意外なことに、彼を熱心な読書家であったという人は見当たらない。インスピレーションの源は必ずしも読書ではなかったということか。

しかし一方で、『ボヘミアン・ラプソディ』がカミュの『異邦人』を彷彿とさせるという意見もわからないではないし、初期のアルバム数作ですでに円熟を極めているといってもいいような技巧的な歌詞が、まったく文学を好まない人物の作だというのも難しいようにも思える。天才の創作活動の秘密をうかがい知るのは容易ではないが、確実に言えるのは、その土台に高い美意識と豊かな想像力があったことだろう。周知のとおり、フレディは美しいもの――音楽、美術、ファッション、オペラ、バレエなど――をこよなく愛した。

1970年代半ばからバレエ好きであることを公言し、1979年にはロイヤル・バレエ団との共演を実現。フレディはダンサーでもあったのである。コンサートでバレエの衣装(あるいはそれに近いもの)を身に着けることもあった。バレエとのコラボレーションはモーリス・ベジャール・バレエ団による舞台『バレエ・フォー・ライフ』に今も引き継がれている。クイーンの大ファンだというベジャールは、フレディとジョルジュ・ドン(奇しくもフレディと同じ45歳で早逝した)という失われた二人の天才にこの舞台を捧げている。
また、憧れのオペラ歌手であったモンセラート・カバリエとのアルバム制作(1988年)も果たしている。

これも意外であるが、オペラに関してそれほど詳しいわけではなかったという。ただ、バレエにしてもオペラにしても、自らの美意識に忠実でチャレンジ精神に富み、ジャンルの枠にとらわれることなく、軽々とその垣根を越え自分の世界を作り上げていく姿は、とても彼らしいことのように思える。そのクロスオーバーな様相の一端が、本楽曲にすでに如実に表れていたわけだ。一曲の中に何曲分もの味わいがあり、歌われている物語はミステリアス。特殊効果を駆使した映像でみなの度肝を抜き、一夜にして本国のヒットチャートを駆け上り、世界へとその熱狂は広がった。そしてこの歌がいまだ愛され続ける理由の一つは、この歌が謎に満ちているからではないだろうか。

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書き手:すがはら・ゆうこ/学術博士(名古屋大学)
専門は映画研究。元々の洋画好き&洋楽好きが高じて、現在は非常勤にて名古屋市内複数の大学で英語講座を担当。
『ボヘミアン・ラプソディ』は大学1年生対象の授業で曲を扱ったのがきっかけで、その後カルチャーセンターから愛知サマーセミナーの講座へと発展。ファンの方々の熱い思いに直に触れ、リサーチをまとめたものを書き下ろしました。『ボヘミアン・ラプソディ』の謎解きの、さらに向こうにお連れします。現在、出版するべく奮闘中。応援よろしくお願いします!

最後まで読んでいただきありがとうございました。みなさまの「スキ」が出版に繋がります。ぜひお願いします!

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クイーンの名曲『ボヘミアン・ラプソディ』にこめられた、とある「謎」を映画研究者の菅原裕子さんが追いかけます。

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