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共感を得ようとはまったく思っていなかった――エンタメ小説家の失敗学38 by平山瑞穂

過去の連載はこちら。

平山さんの最新刊です。

第7章 “共感”というクセモノを侮ってはならない Ⅲ

納得できないタイトル

 なお、この小説の原稿には当初、『グリッター』というタイトルがつけられていた。グリッター(本来は「輝き」の意味)とは、琥珀の標本の内部にときどき見られる、白く輝く亀裂のようなもののことを指している。樹液が地中で化石化する際、もともと樹液に含まれていた気泡が地熱で膨張し、周囲の固まった樹液にひび割れを生じさせた痕跡なのだが、「外側からはどうにも手のつけようのない空洞」ということで、本作のテーマにうってつけだと考えたのである。

 しかし『グリッター』では、どんな物語なのか読者に想像させることはできない。ある時期以降、僕は各社から何度となく、同じ理由で改題を求められるようになっていた。「平山瑞穂」の名前だけでは売れないから、という判断が背景にはあったのだろう。『僕の心の埋まらない空洞』は編集部から提案されたタイトルで、僕自身は納得していなかったが、争う術もないので受け入れた。実のところ、今もってこのタイトルには納得していない。

 さて、この作品を通じて僕が伝えたかったことは、大きく見て二つある。ひとつは、特定の相手に執着し、しつこくつきまとって苦しめてしまうような人間にも、その人間なりの「道理」があるのではないかということ、もうひとつは、心の中の空洞を埋めようとして不倫に走ってしまうような危うさは、自覚の如何にかかわらず、実は少なくない人が共有しているものなのではないかということだ。

伝わらなかった背後設定

 先に言っておかなければならないが、実をいうと、僕自身の考えた背後設定としては、鳥越は紗菜絵を殺害していない。鳥越との泥仕合に疲れ果て、うつ病を発症していた紗菜絵は、鳥越との口論のさなか、自暴自棄になって橋の上から自ら身を投げたのだ。しかし、紗菜絵をそこまで追いつめたことについて本人なりに深く悔悟していた鳥越は、最終的には、嫌疑のかかっていた紗菜絵殺害の事実をはっきりと認めることで、自らを殺人罪で起訴するように、荒城を誘導したのである。

 ただし、そのあたりの叙述については、かなり遠回しな書き方をしている。どうやら遠回しにしすぎてしまったらしく、僕のその意図が読者に正しく伝わった気配は感じられなかった。それもあって、鳥越については、「不倫した相手を殺害までしていながら、身勝手な言い訳ばかり並べ立てている最低の男」という烙印が捺されてしまった。

 殺害の事実はなかったとしてもしょせん五十歩百歩ではあるのだが、鳥越についてそう解釈されたことが、事態をさらにやっかいなものにしてしまったのではないかと僕は考えている。鳥越がより凶悪であり、より激しい非難の対象とみなされればみなされるほど、その言い分を正面から理解しようという読者の意志は阻害されるであろうからだ(その点については後述する)。

読者への問いかけ

 ともあれ、(紗菜絵を殺害したにせよ、単に「死に追いやった」だけにせよ)鳥越のしたことは、許されることではない。妻の真紀を恋人時代も含め数年にわたって裏切りつづけていたことも、紗菜絵を執拗に責めたり、ときには待ち伏せして一方的に問いただすようなことをして、心を病むレベルまで脅かしたりしたことも、いかなる理屈をもってしても弁解することはできない。そういう意味では、この男はまぎれもない「悪者」である。しかも、その語りは過度に理屈っぽく、偏執的で、人によってはそこに、狂気に似たものを感じるかもしれない。

 そういう人物の語ることに、人は普通、まともに耳を傾けようとはしないだろう。「またわけのわからないことをまくし立てている」と決めつけて、まじめに聞くに値するものがそこにあるなどとは夢にも思わない。

 しかし荒城は、検事という職業柄、真実はどこにあるのかを探ろうとして、好むと好まざるとにかかわらず、果てもなく続くかに見える鳥越の供述に、辛抱強く耳を傾けざるをえない。その中で荒城は、一見、身勝手なだけの鳥越の言い分の中に、ある種の筋道だった論理性が、そしてある種の「正しさ」があることに次第に気づき、その巧みな弁舌に心ならずも惹き込まれていってしまう。

 鳥越の行為の数々が許されないものであるのは事実だが、では紗菜絵には、非はなかったのか。鳥越にいずれ結婚することになる正規の相手がいることを知りながら、あえてこの男との性愛関係に入っていったことは、本人の意志によるものだ。ところが鳥越が真紀と結婚するや、「鳥越さんのことは先輩として尊敬していただけ」などと言って、自分だけ安全地帯に逃げ込もうとしたのが紗菜絵だ。

 その態度を鳥越は「ずるい」と断じているわけだが、紗菜絵にそういうずるさがあったことも、それはそれとして厳然たる事実ではないのか。鳥越が非難されるべき存在であるからといって、その事実が、紗菜絵の側にもあったかもしれない非を帳消しにするわけではない。それとこれとは別の問題なのだ。

 もちろん、だから鳥越が紗菜絵にしたことも妥当だなどと弁護するつもりは、僕にはさらさらない。ただ、そうして鳥越を「悪者」と決めつけ、言い分をいっさい認めないという態度を取ることで幕を引いてしまう前に、なぜそんなことになってしまったのか、鳥越にそうさせてしまったものはなんだったのかを、冷静に、分析的に見て取ろうとする姿勢も必要なのではないか――僕は読者に、そう問いかけたかったのだ。

共感を得ようとはまったく思っていなかった

 そんな鳥越の言い分を、いわば精神病質者のようなねっとりした(ある意味でうんざりさせる)語り口で表現しえたことで、ストーカーと呼ばれるような人々の心の深層にあるものがなんなのか、彼らがなぜそういう行為を犯してしまうのか、その理由の一端を、ある程度まであきらかにすることができたはずだと僕自身は自負していた。「なるほど、彼らはこういう脈絡で犯行に及んでいるのか」と読者に膝を打ってもらいたかった。それを果たせれば、この作品を書いた僕の所期の目的はあらかた達成できたといってもよかった。

 もうひとつの問いかけ――「心の中の埋まらない空洞」を埋めたいという衝動は、多くの人が抱きうるものなのではないかという問いかけも、究極には同じ問いの別の側面にすぎないのかもしれない。世間のおおかたの人は、「悪者」をただ「悪者」として断罪し、自分は違うとみなして安心しているようだが、ちょっと待ってほしい。あなたは本当に、自分自身が(不倫も含めて)罪を犯す可能性はないと言いきれるのか。自覚していないだけで、案外あなた自身も、そうした危うさと隣り合わせのところにいるかもしれないではないか――。

 つまり僕は、この小説を世に放つことによって、読者の共感を得ようなどとはまったく思っていなかったということだ。鳥越の思考の道筋について、あるいは、誰もが罪と紙一重のところにいる可能性があるという見方などについて、「なるほど」と思ってもらいたいという思いはあったが、それは共感を求める気持ちとは違う(共感とは、往々にして、もっと情緒的で感傷的ななにかだ)。この小説には、共感とは異なるチャンネルを通じて対峙してもらいたかったし、それを介して評価されることをこそ、僕は望んでいた。(続く)


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