そもそも「アファーマティブ・アクション」とは何か?|高橋昌一郎【第34回】
「多様性」と「アファーマティブ・アクション」の矛盾
「アメリカ合衆国第36代リンドン・ジョンソン大統領の演説の話だが、白人と黒人が徒競走をしているとする。白人が50メートル進んだ段階で、黒人は10メートルしか進めない。なぜなら黒人には足枷が嵌められているからだ」と比較文化論の授業をしていると、「足枷って何ですか」と質問が出た。「足枷とは、両足に嵌める手錠のような、自由な歩行を阻害する器具のことだよ」と答える。
「それでは不公平だから、黒人の足枷を外すことにする。だが、それでも白人と黒人の間には40メートルの距離がある。だからその差を埋めるために、黒人を40メートル進めて白人と同じ50メートル地点に導こうとするのが、ジョンソンの主張する『アファーマティブ・アクション』の主旨である」と説明する。
そこで「なるほど、わかりやすい比喩ですね」と即座に理解する学生もいるが、とくに高校時代に「世界史」を選択しなかった場合、その「差別」の深刻な根深さをイメージできないような学生もいる。そもそも今から164年前のアメリカには「奴隷制」が存在した! 1860年のアメリカ合衆国の「国勢調査」によれば、アフリカ出身の黒人奴隷が約400万人も登録され、その約95パーセントが南部に居住していた。「奴隷」は、基本的に「人間」ではなく「物」として扱われ、金銭で売買・譲渡され、過酷な綿花・サトウキビ栽培などの重労働に従事させられ、主人の命令に従わなければ鞭打ちなどの残酷な刑罰が与えられた。
1861年3月、エイブラハム・リンカーンがアメリカ合衆国第16代大統領に就任し、翌年9月に「奴隷解放宣言」を行った。これに猛反発した南部11州が合衆国を脱退し、北部23州に敵対する内戦が始まった。これが「南北戦争」だが、4年以上に長期化して激戦となり、1865年の戦争終結までに両軍合わせて50万人以上が戦死したとみなされている。北軍の勝利によって、黒人は、法的に最低限の「人権」を保障されるようになったが、参政権は認められず、住宅や財産の所有も制限され、公共機関やトイレでも白人から分離される「人種分離法」が適用された。彼らは、その後も100年近く「差別」に苦しめられたのである。
1964年7月、アメリカ合衆国内で「人種差別」を全般的に禁じる「公民権法」が成立した。その際、ジョンソン大統領が冒頭に述べた「アファーマティブ・アクション」の必要性を演説したわけである(その根底に存在する「平等愛」の議論については、拙著『愛の論理学』(角川新書)をご参照いただきたい)。
連邦政府の介入により、1970年代以降は黒人やアメリカ先住民などの「社会的マイノリティ」の大学進学率や就職率が飛躍的に高まり、人種的バランスに大きな変化が生じた。さらに、その世代の卒業生たちの子孫によって、かつては白人が独占していた医師・弁護士や大学教授・研究者などの専門職、あるいは政府機関職員や民間企業経営者にも「社会的マイノリティ」が増加した。一方、「アファーマティブ・アクション」を白人の基本的人権に対する「逆差別」とみなす訴訟や「反優遇」住民運動も生じ、とくに「反アファーマティブ・アクション」を公然と掲げるトランプ政権以降はその傾向が激しくなっている。本書は、その「アメリカの苦闘」を歴史的に綿密に調査し、その意味を分析する。
本書で最も驚かされたのは、現代の「多様性」が「人種主義、植民地主義、家父長制、異性愛主義、資本主義」に基づく「差別や不平等」に起因することを認める一方で、「多様性」が「差別是正への積極的アプローチ抜きには実現しない」という著者・南川文里氏の結論である。つまり「多様性」は「差別」から生じるが、その「差別」を是正しなければ「多様性」は達成できない。この「多様性」と「アファーマティブ・アクション」の矛盾をどう解決すべきなのか?