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名曲という大河は、どこから流れてきたのか? ――7分でわかる、名曲と「リヴァイヴァル」の歴史

好評連載中の川崎大助さんの『教養としてのロック名曲100』ですが、残すは10曲のみとなりました。カウントダウンをじらすわけではありませんが、ここで二度目の特別コラムを挟みます。さて、ヒット曲というのは突然生まれるものではありません。そこには深くて長い源流があります。400年にわたる源流を遡る旅をお楽しみください。

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ヒット曲の誕生とリヴァイヴァル

名曲の源流を、探ってみよう。最も近いあたりで、大体400年ぐらい前まで遡る必要がある。そこらへんからの「あれやこれや」が、いま我々の目の前にある、たった1曲の後ろには積み重なっているからだ。まずはその旅の入り口として、「ヒット曲の誕生」というところから、行ってみよう。

前コラムで記したとおり、「ヒットした曲」が、より広く「名曲」として世に広がり、そして評価が定着するという回路がある。売れた曲、ある程度の数の人に愛された曲は、「その事実」が金看板となって、さらに多くの聴き手を呼び込んでは、雪だるま式にどんどん大きくなっていく、というメカニズムだ。

今日最も一般的な「ヒット」の構造であるこれは、資本主義社会の興隆と同期しながら固まっていった。だから現在の意味での「ヒット曲の誕生」とは、1920年代のアメリカに端を発する、という考えかたが主流だ。同国ではこのころラジオ放送が大きく発展し、レコード(SP盤)の販売も拡大した。ミュージカルも隆盛となり、映画はサイレントからトーキーへと移行していった。

つまり、ありとあらゆる「商業的なメカニズムにのっとって」音楽が広められていく時代の素地、そのほとんどがこのときに整ったわけだ。資本主義システムそのものが、聴き手に音楽を届けるための「媒介」となった、と見ることもできる。

この時代とは、つまり「ジャズ・エイジ」だ。第一次と第二次大戦のあいだに挟まれた「戦間期」の前半、アメリカは好景気に沸いていた。フィッツジェラルドが『グレート・ギャツビー』で描いた世界だ。「ポピュラー音楽」は、ヒット曲という概念は、このときアメリカで誕生した。そして大恐慌によって底が抜けてしまうまでのあいだ、この文化様式は、ものすごい勢いで地球上のいたるところへと波及していく。

音楽的に言うと、このときの流行は「スウィング音楽」だった。黒人の音楽であるジャズを、白人が希釈したものだ。ビッグ・バンドで演奏し、ダンスによし、歌のバッキングにもよし――という音楽スタイルが、このあとも長くアメリカ商業音楽界のメインストリームとして君臨する。第二次大戦後あたりまで、世は「スウィングの時代」だった。

そして50年代、極初期のロックンロール・ブームとは、まさしくこの「スウィングの流行」を焼き直したものにほかならない。たとえばロックンロールの名付け親であるDJアラン・フリードが、少年時代よりスウィングに深く傾倒していたのは、有名な話だ。だから黒人の音楽を「白人の若者に聴かせる」というアイデアや、新しいリズムの音楽で「踊る」という行為などは、なにも50年代の人々が突如発明してしまったわけではない。かつてのスウィング・ブームのありようが、次の世代のなかで、その時代の要請に沿ったフォーマットの上でリヴァイヴァルされた、というのがことの真相だ。

ロマン主義芸術の影響

では「ジャズ・エイジ」のほうは、なにもかもが新しかったのか?というと、これも違う。この時代はこの時代で「リヴァイヴァル」が盛んにおこなわれていた。古いものを発掘し、新たに再構成するという行為だ。代表的なものが、映画音楽だ。

映画がトーキーとなってから、テーマ曲はもとより、いわゆる「劇伴」が、大きな存在感と意味を発するようになった。俳優のセリフや効果音などと同時に、これら音楽も「サウンドトラック」に収録されて、映像と同期した形で観客に提供されるようになったからだ。こうした「まったく新しい媒体」の上で展開された音楽は、しかし分類すると、後期ロマン派の流れを汲むものだった。つまり、リスト、ワーグナーから、ブルックナー、マーラーらの達成があったからこそ、映画音楽の原型は形づくられたわけだ。それは『風と共に去りぬ』(39年)のマックス・スタイナーから、今日も活躍するジョン・ウィリアムズまで、基本形は変わらない。

この「基本形」とは、どういったものか? 端的に言うと、音楽が「情感の乗り物」となる、というありかたを指す。観客の、聴き手のひとりひとりの胸を「個別に」ノックしていくかのような「パーソナルな情緒性」の発揮を、最重要視している点だ。音楽が「詩やストーリー」と交感するのが得意であること、これも重要だ。ゆえに、こういった音楽は容易に「音楽そのものの外側」に存在する大きなテーマへと、その身を捧げるかのようにして奉仕していくことを厭わない――という特徴をそなえることにもなる。捧げる相手は、とくに「神様」とかでなくとも、構わない。その「ストーリー」へと、「テーマ」へと、ストーリーの「登場人物」の内面へと、音楽は奉仕していく……と、これらはすべて「ロマン派以降」の音楽の特徴だ。

こうした特徴は、それそのままで、ロックンロール以降のポップ・ソングのほとんどすべてに当てはまることは、僕がここであらためて指摘するまでもない。言い換えると、18世紀末以来のロマン主義音楽の精髄が「資本主義」というマシーンを通過することによって「リヴァイヴァル」したものこそが、20年代に、そして50年代に世を覆っていった「新しい」音楽の――スウィングやロックンロールの――正体だった、ということだ。

そしてロックにおけるロマン主義芸術の影響は、音楽だけではなく、文学からのものも無視できない。詩人としてのウィリアム・ブレイク、あるいはジョン・キーツ、バイロンらを好むソングライターは、挙げ出したらきりがないほど多い。いつの時代も多い。

バラッド・オペラ

もうひとつ、別方向に位置するロックの源流として、バラッド・オペラの存在も巨大だ。たとえば「既存の曲を使用する」バラッド・オペラの名作として『ベガーズ・オペラ』(1728年)があるが、これをそのまんま「焼き直し」したのが、ドイツ演劇界の前衛ブレヒトによる『三文オペラ』(1928年)だった。デヴィッド・ボウイやジム・モリソンが深く愛したブレヒトもまた「リヴァイヴァリスト」だった、ということだ。言い換えると、ここで挙げた人々はみんな「教養の人」だった、という見方もできる。

そもそも18世紀に誕生したバラッド・オペラとは、イタリアのオペラなどに反発し、「より庶民的な」欲求に根ざしたストーリーに立脚したのが特徴だ。つまりはイギリス発のニューウェイヴだった。だからフォーク・ソングやバラッドなど、人々のあいだで、口伝えで歌い継がれてきた「愛唱歌」や「民俗歌」を、どんどん取り入れていくという柔軟な構造があった。ゆえにソングライターたちは、既存曲から「サンプリングして」自作曲もつくった。これらの「新曲」は、舞台での実演はもちろん、印刷された楽譜「シート・ミュージック」としても販売されていく。購入した人が、自宅の居間や応接間にあるピアノなどで弾いて楽しむために、これを買う……つまり「複製した曲を売る」という行為は、直接的にはここから、19世紀の楽譜販売から始まった。商業音楽としてのヒット曲の源流が1920年代だとしたら、さらにその「源流」はここだ。

とはいえ、19世紀に初めて「歌の言葉が印刷された」わけではない。そのオリジンはさらに、16世紀のイギリスにまで遡る。この当時「ブロードサイド」と呼ばれる軽新聞、瓦版がイギリスおよびアイルランドで広く販売されていた。ここに掲載されていた詩であるバラッドが、「ブロードサイド・バラッド」として普及していった。ここでは1枚の紙の片面に、バラッドやニュースなどと木版画のイラストが、いっしょくたに印刷されていた。そしてブロードサイドの売り子は、バラッドを「実演」した。印刷されている詩に節をつけて歌うことによって、客引きをした……つまり言うまでもなく、今日のインターネット空間(の一部)にも近い内容が、印刷という最新技術を下地にして「安価に」人々に提供されていたわけだ。

そもそものバラッドとは、14世紀から15世紀にヨーロッパで大きく発展した、吟遊詩人による「ストーリーのある詩」だった。しかしブロードサイドに「英語で」掲載されていたバラッドは、かつて王侯貴族のあいだで好まれていた英雄譚や宮廷ロマンスものなどではなかった。もっと世俗的な題材が主だ。

たとえば「マーダー・バラッズ」と称されるサブジャンルがあって、ここでは文字どおり殺人者の独白スタイルにてストーリーが語られる。つまりジョニー・キャッシュら、一連の「アウトロー・カントリー」の直系のご先祖さまは、そっくりそのまま、ここ、ブロードサイド・バラッズのなかにあったわけだ。酒の話や女の話、笑い話もあった。そしてゲーテらロマン主義時代文学のスーパースターらも、これらの「俗な」バラッドから多大な影響を受けていた。

アメリカのブルース・アーティストたちもバラッドから影響を受けた。アパラチアの山間部などで、スコッツ・アイリッシュの歌い手たちとの直接的な交歓から、あるいは、それらの歌から「サンプリングした」ティン・パン・アレイのソングライターの作品、とくに舞台にて上演されたものから、影響された。そしてもちろん、逆コースもあった。ブルースもフォーク・ソング同様にサンプリングされて、とにかくこれら全部が、より大きな「ポピュラー音楽」のなかへと溶かし込まれていった。

つまりボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞した理由の一端は、ここにある。バラッドはもちろん、もっと古い詩や歌も含む歴史の重層性につねに意識的であり、豊富な知識をそなえた上で、さらにはなんと「この現代の時空間にて」吟遊詩人以来の歌の精髄を、まるで息を吸って吐くかのように、次から次へと再現してくれた――からだ。彼の身ひとつで、いや、ギターを抱えた彼ひとりで、軽く400年以上にもわたる人類の泣いたり笑ったりが「1曲」という針の穴から、垣間見えてくることもあった、からだ。

ロマン主義の要諦とは、それまでの合理主義に対して、あるいは教条主義、古典主義に対して、言うなれば人間の「情」や「想像力」の優越を主張するものだった。そしてロマン主義の出どころも、言うまでもなく「リヴァイヴァル」だ。その名称(Romanticism)どおり、ローマ帝国時代の庶民の口語であるロマンス語を基盤とする文化を振り返り、そこにあった「良きもの」を、ふたたび取り戻そうという運動だったからだ。

だからそのせいで、少なくともロックンロールとは、元来、きわめてロマンチックなものだったのだ、と言い切ることができる。言葉本来の意味で。

「古きを知る」ことの大切さ

21世紀に生きる我々と同様に、この数百年ばかりのあいだの人類も、日々いろいろな情報に触れて生きていた。音楽も美術も演劇も文芸も、その境界線など、受け手側の頭のなかにおいては、あってないようなもの。それぞれがそれぞれに呼応し、「影響」し合って、ときに意識的に「サンプリング」されたものが、新しい時代の息吹を身にまとって「ヒットする」こともある。だから「古きを知る」ことは、未来へと直結するアイデアの宝庫にアクセスする、という意味を持つ。これはルネサンスあたりからの人類の真実であって、もちろん、ポップ音楽だってその例外のわけはない。

たとえば70年代のイギリス、オリジナル・パンク・ロック・バンド三羽烏のひとつ、ザ・ダムドの名物男だったキャプテン・センシブルは、82年、初のソロ・アルバムからのシングル・カットで、いきなり全英1位を獲ってしまうのだが、その曲がなんと「ハッピー・トーク」だった。名作ミュージカル『南太平洋』(49年)の挿入歌のカヴァーだ。名匠ロジャース&ハマースタインの筆による1曲で、だからドリス・デイほか、綺羅星のごとき名唱が残されている……ところに、パンク野郎が嬉々として歌い踊ったという点が、国民的に受けた。諧謔味と笑いが親しまれたわけなのだが、こんなカヴァーがさらっと出てくるところに、(パンクスと言えども)イギリス庶民の教養程度、文化的な「厚み」を感じざるを得ない。

なぜならば、こうした例の大半は、その背景に「両親の世代が、ミュージカルやジャズが好きだった」ので、なんとなく自分も耳に覚えがあったのだ、なんて逸話が多いからだ。エルヴィス・コステロのジョージ・ガーシュウィン好き、コール・ポーター好きなんかも、根はほとんど同じだ。

つまり我々は、いまこの21世紀に生きていたとしても、決してこの時空間に「囚われている」わけではないのだ。たとえばそこに、たった1曲の「名曲」さえあれば、かなり長距離の精神的跳躍を果たすことが、容易にできる。過去へとひとっ飛びすることで、未来を幻視できる。理想のともしびを「なんにもない荒野」に掲げることすら、できる。

そう考えた――あるいは「感じた」人々の、無数とも言える喜怒哀楽の繰り返しから、時折生み出されることもある「文化的宝石」。それこそが、いまあなたの目の前にある「名曲」と呼ばれるものの、真の姿にほかならない。(了)

(次回は本連載に戻り、いよいよ10位の発表です。ここからは毎週金曜更新予定です)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。2010年よりビームスが発行する文芸誌「インザシティ」に短編小説を継続して発表。著書に『東京フールズゴールド』『フィッシュマンズ 彼と魚のブルーズ』(ともに河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』(光文社新書)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki 


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