タイポグラフィ・ブギー・バック|馬場紀衣の読書の森 vol.57
マニアックな本だなぁ、と思う。でも、この本を嬉々として読んでいる人も、まちがいなくマニアックである。そしてこんなことをさらりと書ける著者に、私はくらくらしてしまう。なんの本かといえば、タイポグラフィ。書体、についてである。
書体について退屈な、つまらない印象を持つ人があるとすれば、その人はたぶん世界の、街中の、日常にあるものの半分も楽しめていない(と、ごくごく個人的に思う)。たとえ読書家でなくたって、人は文字に囲まれて生きているのだ。それはもう、音楽のように空間にただよっている、といってもいいくらいに。
1970年代を席巻したのは「タイポス」書体。創刊当時の「an・an」「non・no」が採用し、竹宮惠子の「風と木の詩」でも「ちびまる子ちゃん」でも強い存在感を放った。矢沢あいの「NANA」が「石井太教科書体」であることを意識しながら読んでいた人は少ないかもしれないけれど、この書体でなくては、あの印象的なモノローグはこれほど強く読者の心には残らなかったと思う。それでなくても、一般的な漫画は縦書きが標準である、と思いこんでいた子ども時代の私からしてみれば、横書きで書かれた表紙絵はもうそれだけで鮮烈な印象を残した。ちなみに、「NANA」と同じ年に連載がはじまった羽海野チカの「ハチミツとクローバー」はゴシック体。特色すべきは「ひとつのページのなかに異なる時制と空間が同時に存在し、縦書きと横書きのモノローグが混在している画面構成」で、私はこれを漫画のひとつの到達点と思うのだけれど、それはまたべつの話。
と、こんなふうに書いてしまうと、年代がばれてしまいそう。つくづく書体(文字)というのは時代を映す鏡だな、と思う。著者のいうとおり「時代は文字によってかたちづくられている」のだ。そして書体には、見る者、読む者の感情を喚起する力がある、ということもこの本が教えてくれる。
この本を書いた作者についての説明をすこし。著者は「新ゴ」で書かかれた「きゃりーぱみゅぱみゅ」が好き。寺山修司の「書を捨てよ、町へでよう」は、二冊もっている。おなじ「岩田」でも活字書体と写植書体〈IML-A〉とがあって、読み比べる愉しさを味わっているのだ。これを「活字版は肝油みたいななつかしい味だけど〈IML-A〉版は口のなかでころがしていたくなる飴玉のよう」と表現しているのだから、骨の髄まで書体好きなことが伝わってくる。著者にとって書体とは、読む、というよりも舐めるにちかいらしい。さらに「古畑任三郎」のタイトルバックに引っかかりを感じたことから、犯人に疑惑を抱いた古畑任三郎よろしく調査をはじめ、ついには異なる書体が混在していることを突きとめる。結果、毎回出てくるキャストや制作人の名前は「ナウ」という書体で、犯人役は「ゴナ」書体であると判明した。なにを隠そう、誰よりも作者がいちばんマニアックなのだ。