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新書が1冊できるまで ①:原稿整理の長い道

こんにちは、光文社新書編集部の江口です。配属されてから早3か月。社会人1年目の夏が終わろうとしています。今年の春まで大学生だったわたしにとって、この時期といえば「夏休み」。大学に通った5年間、毎年2か月もの休みを貪っていたのがすでに懐かしいです。

とはいえ、忙しい編集部のみなさんもしっかり夏休みをとっています。1週間ほどまとめて休む方もちらほらと。「夏休みとか、本当にとれるのだろうか?」と心配していたので、これはいい意味で驚きでした。わたしも9月後半に大型連休を爆誕させるべく画策しているのですが、果たしてどうなるか……。

▲ 夏の陽を浴びる光文社の本社ビル。文京区の音羽、
『夢十夜』で知られる護国寺の近くにあります。

さてこの3か月の間、わたしは先輩のお仕事を手伝うかたちで本づくりの流れを学んでいました。これまで、曲がりなりにも本には親しんできたつもりですが、それはあくまで完成形に触れてきただけ。目の前の1冊がどのように作られているのかは、まったく未知の世界です。

「こんなところまで編集者が作るのか!」と、驚きの連続。どのプロセスも初めての経験で、うまくいかないことばかりです。甲子園で高校球児たちが熱い汗を流しているあいだ、わたしは編集部の片隅で冷や汗をしたたらせていました……。

このnoteをご覧になっている方でも、意外と「新書が1冊できるまで」の過程はご存じないのではないでしょうか。書店で手に取る1冊には、どのような来歴が秘められているのか。それを知れば、きっと、もっと、その本を楽しめるはずです。そんな思いもあって、ここから数回、やっと新書づくりの流れを一巡したばかりの新人が、自身の備忘録も兼ねてその手順を記していきます。

企画を通す(……?)

なにはともあれ、企画を通さないことには始まりません。本来であればここで企画会議の様子などをお伝えしたいのですが、わたしもまだ3度目の会議が終わったところ。毎回、なんとか自分の企画案を説明し、他のみなさんのアイディアに舌を巻くので精いっぱい。とても写真を撮ったりする余裕はありません。企画に関しては、またあらためて記事を書きますので、ひとまずは以下の潜入レポートで雰囲気を味わっていただければ……。

原稿を整える

無事に企画が通ったら、いよいよ著者の方に執筆をお願いします。とはいえ、もちろんすべての依頼が「OK」となるわけではありません。ここでは仮に快諾いただけたとしましょう。そこから先は、ひたすらにやりとりを重ねます。すると手元には、著者からいただいた原稿が……! わたしが先輩のお手伝いをはじめたのはこの段階から。つまり、すでに原稿がそろっている状態からのスタートでした。

今回いただいた原稿は11.5万字ほど。わたしの卒論は約3万字だったのですが、その4倍の分量と考えると卒倒しそうです。新書は一般に「薄い」イメージがあると思いますが、文字換算で考えるとけっこうな量ですよね。これを書き上げている世の書き手のみなさんに、あらためて頭が下がる思いです。

ちなみに光文社新書のレイアウトは、標準的なもので1行あたり41文字、見開き2ページに30行が収まる体裁になっています。Wordをこのように設定し、行数を表示させたり、「校閲」機能を使って変更履歴を残したりしつつ、お預かりした原稿を本の形に落とし込むべく整理していきます。

▲ 「校閲」機能の赤字も、見慣れるまでは目がちかちかします……。

どこからどこまでを一つのまとまりとして、どのような見出しをつけるのか。論の展開はこの順序が望ましいのか。この箇所には補足の説明が必要なのではないか。言葉づかいなどの小さなところからはじまり、本の構成にかかわる大きなところまで。すこしでも分かりやすく、そして読みやすくなるように整えていきます(大きな変更はWordの「コメント」機能を使って、著者の方に提案させていただくかたちです)。

InDesignと格闘する

今回は写真や図表が多い原稿のため、これをどのように配置するかも重要なポイントになります。図表が置かれる場所には、当然ながら文字を載せることはできません。これを考慮しないと、あとあと大幅にページ数が狂うことになります。

Word上で大まかなレイアウトを決めたら、最終的な調整は「InDesign(インデザイン)」というソフトで行っていきます。

▲ InDesignの編集画面。たぶん、用意された機能の1%も使いこなせていない気がします。

このInDesign、一言で言ってしまえば本のレイアウトをそれはもう細かく調整できるソフトです(合っていますよね?)。文字をどの位置に、どのようなフォントで、どのように配置するのか。光文社新書では本文のフォントは決まっているのですが、目次やキャプション等に使うフォントは、その種類から大きさまで、各編集者が自由に決めることができます。

もちろん、図表の調整もここで行います。サイズから、本文との間隔から、基本的にはすべてこちらの思うままに調整することができます。それだけに、作り手のセンスというか、美意識というかが、もろに反映されます。

これを最初のページから最後のページまで、今回で言えば250ページほど繰り返すと、やっと本の「設計図」が完成です。次の段階ではこれをプリントアウトして「指定紙」と呼ばれるものを作り、印刷会社の方にお渡しすることになります。いわゆる「入稿」です。そういうわけで次回は「入稿&校正編」をお届けできればと思います。

▲ ちなみに、編集に携わったのはこの本です。

……新書づくりの道は長い。


【追記】

▲ つづく「入稿&校正編」も更新しました!


***


新入社員、人生の推し本

自分の人生に予定をたてた覚えはないのだが、予定外だ、と思うことはしばしばあって、可笑しいと思う。

江國香織『泣く大人』角川文庫、2004年。

「江國香織」という名前を知ったのは中学1年の春のことで、それは授業中だった。出席番号が4番だったわたしの座席は、廊下側の後ろから2番目。授業とは関係のない本を読んでいても、ほとんど見咎められない位置だった。

国語便覧なる、それまで手にしたことのない種類の本が珍しくて、「国語」以外の時間でもぱらぱらめくっていたのだと思う(不思議なことに、国語の時間にそれを開いた記憶はほとんど残っていない)。たしか〈現代の作家〉とかいうひどく投げやりな枠組みの中に、作家の名前と顔写真と最低限の略歴と、それから作品の抜き書きが並べられた見開きのページだったと思う。江國香織さんを見つけたのは、そこでだった。

江國さんからの引用は、今ならとても有名だと知っている短篇の一節で、かたわらには「ジェームス・ディーン」のポートレートが添えられていた。その一節になのか、やわらかな笑みをたたえた著者近影になのか、あるいは「江口」と違ってしっかり詰まった名前になのか、何に惹かれたのかはもう定かではないけれど、その週末には便覧に引用されていた短篇集を買い求めたはずだ。

歩きながら、私は涙がとまらなかった。二十一にもなった女が、びょおびょお泣きながら歩いているのだから、他の人たちがいぶかしげに私を見たのも、無理のないことだった。それでも、私は泣きやむことができなかった。

「デューク」『つめたいよるに』新潮文庫、1996年、12頁。

表題短篇集の、最初の一篇の、そのまた最初の一節。はじめてこの文章を読んでから10年以上が経つというのに、わたしはこの「びょおびょお」という擬音の響きに、今でも心引かれつづけている。だからかどうかは分からないけれど、「読む本がない」という、ふつうに考えればありえないのに、にもかかわらずしばしば陥る状態に際して、わたしは江國さんの、わけてもエッセイを手にとることが珍しくない。

当時12歳だったわたしにとって、主人公の21歳という年齢はとても大人に思えた。わたしはもう21を優に超しているというのに、まだ「びょおびょお」と泣けたことはない。

私は「泣く大人」になりました。
実際の行為として泣くかどうかはともかく、大人というのは本質的に「泣く」生き物だと思います。「泣くことができる」と言った方が正確かもしれません。それはたぶん、心から安心してしまえる場所をもつこと、です。

「あとがき」226頁。

江國さんの著作のなかに、『泣く大人』と題された一冊がある。あまり泣けない大人になったわたしが、一等好きなエッセイ集のひとつだ。この「あとがき」の、「安心してしまえる場所」という表現も忘れがたい。

短篇集やエッセイ集のいいところは、各篇を読むのにたいてい時間がかからないところで、眠れない夜に気安く読むのにうってつけだ。この本のどのページを開いてみても、それぞれに違う夜の栞が挿まっている気さえする。

去年の十二月、歯医者の帰りに雨を買った。十九万円だった。雨はデパートの屋上にいた。そして、何だか知らないが、私は彼を連れて帰ってしまった。生後二カ月の子犬で、キャラメル色の毛は長く、憎らしくなるほど無邪気な様子をしていた。

「アメリカンな雨のこと」10頁。

東京生れの東京そだちであるせいか、光のない闇というものを知らない。
寝る前に電気を消すと、窓の外があかるくておどろく。広範囲に街灯がつけられているために、空がうすぼんやりと奇妙な色になり、雲がちゃんと見えるのだ。部屋の中の方が、余程闇が濃い。
生活が夜仕様なので、私は夜によく出歩く。私にとって、夜はあかるいものだ。なんというか、精神的に。

「居場所がある、という気持ち」21頁。

「歯医者」「十九万円」といった実際的な語の隙間に、そっと「雨を買った」が置かれる。その詩情とユーモアが、とても江國さんらしいと思う。子犬に「雨」と名づけるその感性にせよ、「夜はあかるいものだ」までの運び方にせよ、江國さんの散文は本当に軽やかで、なにより心地がいい。

本屋は落ち着く。持っている本、持っていた本、かつてくり返し読んだ本、読んではいないがよく見知っている本。考えてみれば、子供のころからの知りあいに囲まれているようなものだ。なつかしい、寡黙な知人たち。

「深夜の青山ブックセンター」68頁。

ハイジのような、やさしい心が欲しい。
ずっと、そう思っている。私はあんまりやさしくないのだ。たぶん。
ハイジのどこに憧れるかというと、自分と他人にわけへだてがないところ。普通はわける。他人より自分をまだ少しは信じているので、他人の方に少しやさしくする。ハイジは違うのだ。他人を信じている。

「ハイジのような、やさしい心」192頁。

そういえば江國さんはまた別のところで、次のようなことを書いている。

詩的でささやかでユーモラス。これは、私にとって物語の理想三要素であり、日常の理想三要素でもある。

『絵本を抱えて部屋のすみへ』新潮文庫、1997年、52頁。

詩的でささやかでユーモラス。江國さんの書かれるものを形容するのに、これほど似つかわしい言葉もないだろうな、と思う。

先にも一部を引いたこの本の「あとがき」が、わたしはとても好きだ。できることならすべて引用してしまいたいくらいなのだけれど、それはきっと、野暮にすぎると思う。とくに最後の2行には、詩的でささやかな生活と、照れ隠しのようなユーモアが覗いている。気になった方は、「あとがき」だけでも読んでみてください。

「二〇〇一年六月」の日付をもつその文章が記されてから20年が経つけれど、江國さんは今でもそこに描かれたような生活をしているように思う。たぶん。

(新書の新人 江口)


▼ この記事で引用した江國さんの本

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