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エロス身体論|馬場紀衣の読書の森 vol.50

人間は矛盾した生き物だ。そもそも、この「身体」が矛盾している。現代人は長らく「精神と肉体」とか「心と物質」だとか分かりやすい言葉で身体を説明しようとしてきたけれど、心身二元論も物心二元論も、あるいは心身一如論にしても、あくまで抵抗の姿勢としてあるにすぎない。身体について本当に語る言葉というのを、私たちはまだ持っていないような気がする。そういうわけで、私にとって身体というのは、いつも薄膜に覆われたわけのわからない存在である。世界と関係を結び、他者と触れ合い、出あうことだけが「私」を立ちあがらせる。身体という概念の周辺をうろつきながら、身体が出あう実在的な課題について具体的に語るこの本は、だから私のための本といっていい。

たとえばエロス(愛)について。著者は性的(エロス的)であることを次のように説明する。「個体が他の個体と切り離されたものとしてしか存在し得ない事実をつねに気にかけるということである」。この欲求を好意的に解釈すれば、人間は矛盾していて、そのうえ孤独ということになる。私はすべての性愛的な身体のなかに、生身で生まれてしまった人間の寂しさを感じるのだ。

孤独は性愛と結びつき、自分の身体を性愛的身体に仕立てるのだと著者はいう。他者の身体へ直接触れることのできないという事態、つまり孤独であることが自慰行為を促すと。人の性欲は刺激にのみ依存しているのではないから、自らを性愛的身体に仕立てることは、他者の身体を性愛的な身体とみなすためにも必要な行為だ。人は、自分で自分の性的意識を育み、自己高揚させるという性愛行為の演技者として涙ぐましい努力をしながら、着飾ったり、化粧をしたり、生身の身体を飾りたてることも忘れてはいけない。

隠すこと、装うこと、飾ることは、人間の「性欲」が、それらの振る舞いやたたずまいを前提としながら、その日常的な具備をはぎ取ってゆく時間過程を通してしか高められないものであることを示している。そしてこのことこそは、人間の性愛が、幻想的な意識の媒介を不可欠の条件として成り立つものであることを象徴しているのである

隠したり、飾りたてたり、見せつけたり、見たり、見られたり。相手を気にかけることは、人間が個的な存在であることを突きつけると同時に、性愛的な身体がもつ幻想性をさらに高いところへと運んでくれる。禁止と侵犯の競り合いによって支えられる性愛の世界では、欲望をじりじりと持続させることが大切なのであって、はじめからすべてを丸出しというのではいけない。誰かと愛しあう経験をしたことのある人なら、性的な視線は幻想によって支えられている、という著者の言葉に納得するはずだ。

小浜逸郎エロス身体論平凡社新書、2004年。


紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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