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唇が動くのがわかるよ|馬場紀衣の読書の森 vol.40

舞台の出しもののひとつとして娯楽になるずっと前、腹話術は魔術のたぐいと信じられていた。これを古い時代の大いなる誤解と笑い飛ばしてしまえないのは、腹話術をしてみせた人たちが監獄に放りこまれたり、最悪の場合、死罪になったりしたからだ。そういうことが、中世の暗黒時代にはしばしば起こった。

「腹話術師」という言葉は、ラテン語の「腹の話し手(ventriloquus)」を意味する。その歴史は聖書にも言及があるほどに古い。書かれていることをそのまま信じるのなら、腹話術師は「穢れた悪魔にとり憑かれた魔法使い」で「悪魔に魅入られたもの」であり、「腹部から喋りだす悪霊を所有」する悪魔の行為とみなされていた。なかでも信仰にしがみついた教会の疑心ぶりは強かった。なにせ体の下の部分には不潔な悪魔が住んでいると信じられていたから、腹話術師は悪魔の助けを借りているとか、地獄そのものから生み出された実践にちがいないと囁かれた。

腹部や胸部からはっきりと聞こえてくる声の持ち主に関してヴァチカンのアラティウスやイタリアの解剖学者ユリウス・カセリウスらが記した古い記述は、当時の神学的な論争も相まって読んでいるだけで充分に面白いのだけれど、この本では腹話術のはじまりの時代から、その人気が舞台芸のなかで確固たる地位を築くまでの長い、長い歴史がまとめられている。人と言葉を話す人形との不可思議なお付き合いは約3000年前に占いに使用された瞬間から始まる。私たちのよく知る、あの口を動かすタイプの人形が導入されたのは18世紀からだ。だけど腹話術の出し物として人気になるには、もう100年ほど待たなくてはならない。そのあいだ、腹話術師は自分たちの内部の霊を見えないまま隠しておきたがった。


ヴァレンタイン・ヴォックス『唇が動くのがわかるよ 腹話術の歴史と芸術』清水重夫 訳、池田武志 監修、アイシーメディックス、2002年


最初は口を動かす頭だけしかなかった人形は、人形職人の技術が上達するにしたがって、より洗練されたものになっていく。空気圧で動く人形、鼻に電球をつけた人形。人形が個性を獲得していく様は、人の手で作られたピノキオが人間の男の子に変身するのを見るような驚きと、不気味さがある。「音というものには偉大で素晴らしい効力があり、この力を最も与えられたものは人間の声である」と語ったのは、リジューの司教ニコル・オルセメ。彼は1370年に腹話術は魔術の根本原理のひとつであると述べた。

腹から話す人、という意味の腹話術が生体による技能だと理解していても、人形が話しはじめるやいなや、私はいつも人形から目を離せなくなってしまう。奇妙、というのは腹話術の人形を表現するのにぴったりの言葉だと思う。こんなに奇妙な生きものって、人形のほかにそうないと思うのだ。




紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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