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「こうすれば必ず売れる」という鉄則は存在しない――エンタメ小説家の失敗学20 by平山瑞穂

過去の連載はこちら。

平山さんの最新刊です。

第4章 編集者に過度に迎合してはならない Ⅱ

決定権があるのは作家?

 小説家デビューしてまだ日が浅い頃、「書こうとしている新作について自分はこう考えていたが、新潮社の担当編集者であるGさんに却下されたのであきらめた」「これこれについて、Gさんと意見が合わず、取り下げざるをえなくなった」といったことをブログに縷々綴っていたら、次に打ち合わせで顔を合わせた際、当人にこんな苦情を申し立てられた。

「平山さん、あんな風に書かないでくださいよ。まるですべてを私が偉そうに決めてるみたいじゃないですか。決定権があるのは編集者じゃなくて、あくまで作家さんなんですから」

 僕はその場では笑ってやりすごしたものの、内心では強い違和感を覚えていた。きれいごとだ、と思ったのだ。

 決定権があるのは作家? ――たしかに、売れっ子の場合はそうだろう。出す本出す本が何十万部も売れるようなヒットメーカーなら、出版社もその作家におんぶに抱っこしているようなものだし、本人の意向を優先するのも当然だ。仮にそれが、出版社側の思惑と異なるものであったとしても、その作家の名前だけで一定数は確実に売れることが保障されている以上、些細な仕様の違いなど、本質的な問題にはならない。そこで意見を押しつけたことで、作家の機嫌を損ね、原稿を引き上げられてしまったら元も子もないという面もある。

 だが、相手が売れていない作家だった場合にも同じ流儀が通用するとは、絶対に言えないだろう。編集者に異を唱えられ、それに納得できないからといって、「こうでなければいやです」と作家側が我を張ったところで、ともすれば「それではこの作品をわが社で出版することはできません」と突っぱねられるのが落ちだ。

 売れるかどうかもわからないその作品を出版しないことによって発生する逸失利益よりも、社の方針に沿わない形でそれを出版したことによって発生する損害のほうが大きいかもしれず、そのリスクをあえて負う義理など、出版社側にはみじんもないからだ。

 もちろん、問題とされている点の影響範囲にもよりけりだとは思うが、少なくとも(商品として見た場合の)作品の根幹に関わるような大きな枠組みについて、現時点で売れていない、そして過去に売れたという実績もない作家に付与される発言権あるいは決定権は、ゼロとはいわないまでも、きわめて小さい。そのことは、覚悟しておいたほうがいい。

 それでも、「作家さんの意向が第一」という意識――少なくとも建前が、編集者の間にはまかり通っている。だから、詳しすぎるプロットを僕に提示されたくだんの編集者も、「作家本人がここまで作り込んでしまっているのでは、もはや自分になにか意見を言う余地はない」と感じてしまったのではあるまいか。

「発注元と受注先」という意識

 ところが、作家としてほとんど常に「弱い立場」でありつづけた僕にしてみれば、担当編集者とは、自分の作品を本にしてくれる命綱みたいなものなのだ。その意向に背けば、作品を出版すること自体がかなわなくなってしまうかもしれない。だからその意向は、可能なかぎり受け入れざるをえない。細かすぎるプロットだって、覆される部分もあるかもしれないということは当然の前提として提示しているものなのだ。

 そういう意味で、僕にとって編集者とは、第一義的には、「仕事をくれる人」という位置づけになっている。仕事を進める間に「パートナー」と感じる瞬間もなくはないが、それもあくまで、ビジネスとしての利害関係の上に成り立っている仮構のものなのだという醒めた認識に根ざすものにすぎない。

 ひとつには、僕が私企業のサラリーマンとしてもそれなりに長く経験を積んでしまっていることが、そうした認識に影響を及ぼしているのかもしれない。ビジネスのロジックというものをひととおりは理解しているし、出版社といえども、結局はその仕組みの中に置かれて初めて機能しているものなのだということを、ことあるごとに意識してしまわずにはいられないからだ。

 仕事仲間は、友だちではない。重要なのは利益を生み出すこと、それも、僕だけが印税をもらえればいいというわけではなく、出版社側にも利益をもたらす形で「ウィン・ウィン」の関係になることなのであり、その意味においては編集者と作家の関係も、「発注元と受注先」でしかありえないのだということだ。

「こうすれば必ず売れる」という鉄則は存在しない

 では、編集者の言うことは常に絶対なのか。売れていない作家は、常に百パーセント、編集者の意向を汲み、編集者が望むがままの形で執筆に当たらなければならないのかというと、決してそんなことはない。事実この僕も、いくら売れていなかったからとはいえ、「それは違うと思う」「そういうふうにはしたくない」と彼らの意見や提案を拒んだことは数知れずある。

 おたがいに意見を言い合って、双方が納得できる落としどころを探っていけばいいのだ。その意見が通るかどうかは別として、「意見を言う権利」まで剥奪されているわけではない。

 ただそこで問題になるのは、文芸書には明瞭な「正解」がないという点だ。

 たとえばノンフィクションなら、まず「伝えたい事実」というものがあり、その事実をどういう展開で、どんなロジックで、どんなデータを例証として挙げながら論じていくのが効果的かという問題をめぐって、「これが妥当なのではないか」という判断を下すことは比較的容易だし、その分、編集者と作家の間でも合意を形成しやすい。「正解」は必ずしもひとつしかないわけではないにしても、両者の合意のもとに、いずれかの「正解」に作品をかぎりなく近づけることが可能だ(本業で生計を立てることが厳しくなってから、僕はノンフィクションの代筆なども請け負っているので、この分野にもそこそこの心得がある)。

 しかし、作家個人の想像力を駆使して生み出す創作物――フィクションとしての小説に、「正しい/正しくない」という違いなどがはたして存在するのだろうか。

「なんでもアリ」の純文学と違って、エンタメ文芸の場合、そうした「正しさ」にも、ある程度の目安はある。たとえば、明瞭な起承転結が見られず、さまざまな場面がただランダムに、無軌道に描かれているだけでは、エンタメ文芸をエンタメ文芸たらしめる大きな「文法」に反しているから、「これは適切ではない」と言うことはできる。また、最近の時流や流行りに照らして、「もっとこういう展開、こういうテイストにしたほうが読者に支持されるのではないか」といった形で日和ることも、ある意味では「正解」となりうる。

 しかし、創作される物語など千差万別で、作者の資質にも大幅に左右されるし、「こうすれば必ず売れる」といった鉄則などどこにも存在しない(もしそれが見出されているなら、世の中には似たり寄ったりの小説ばかりが無数に並ぶことになる。現状、事態はすでになかばそうなりかかっている気配もなくはないが)。

 そこで問われるのは、まさに編集者が、その作品をいかに適切にディレクションできるかだ。とはいえ、編集者も人の子であり、個人としての好き嫌いもあるだろうし、それを度外視してビジネスに徹したとしても、セールスに直結する形で「より正しい」方向を常に示せるわけでもない。それが「正解」なのかどうかは、その時点では誰にもわからないし、往々にして、結果が出たあとになってもわからないものなのだ。

 それでも、何年も経ってからでさえ、「あれは失敗だった」とほぞを噛みたくなるケースが、僕にもいくつかある。いずれも、担当編集者の意向を汲みすぎて、過度に迎合したことから生じた不手際だ。以下にその実例を挙げよう。(続く)


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