股間若衆|馬場紀衣の読書の森 vol.63
信号機も電信柱も看板も街のなかにあるものはすべて街のなかにあるものらしく、その場所に馴染んでいるように見える。晴れの日も曇りでも風が強く吹いていても、そこにあるのが当然という雰囲気でそこにあり、そこにあることで安心感すら与えてくれるものたち。街を街らしくするための小道具はたくさんあるけれど、その中でも裸体彫刻というのは、すこし異質な存在だなと常々思っていた。
それはおそらく、この人たち自身(裸体彫刻)が困っているようにもとぼけているようにも見える表情をしているせいだと思う。そして私が戸惑っているのは、ひっそりとした横顔の下の曲線というのがいつも、全裸なのか、それとも下着だけは履いているのか判然としない姿形をしているせいだと思う。だから街中で予想外に出会ったりすると、私と彼らとのあいだにすこしだけ気まずい雰囲気が流れる(ように私には感じる)。その一方で、街を歩くときには、いつ彼らに会えるかとわくわくした気持ちでいるのもほんとう。その存在を疑問視する声があることは知っている。たしかに裸体彫刻を見たときの芸術的感動は低いのかもしれない。それはそれで作者に失礼な気がしなくもないけれど、裸体彫刻とのふいの出会いは、いつも私にちいさな喜びを与えてくれるのだ。つまり、私は彼らがけっこう好きらしい。
これは、つまりそういう本である。どういう本なのかというと、物言わぬ彼らの裸体と股間表現をめぐる至極真面目な考察。だから表題も「古今和歌集」をもじって「股間若衆」。東京は赤羽駅の前に立つふたりの青年の彫刻にはじまり、日本初の裸体画展、額縁ショーの裏話、刺青を着る男たち、雑誌『薔薇族』の男性ヌード、写真、絵画、風俗から彫刻にいたるまでテーマはつきない。東京大学の文化資源学の教授である著者による股間をめぐる考察はきちんとした専門性に裏づけられていて、いろんな意味で勉強になる。著者はいたって真剣だ。それに、ユーモアもある。こむずかしい話にも笑いを忘れない。全然どこにも力が入っていない、自然な言葉。著者の小粋な言語センスに引き込まれて、ほんの数ページですっかりファンになってしまった。
日本の裸体表現に関わるもっとも名高い出来事は、おそらく黒田清輝の「裸体婦人像」をめぐる「腰巻き事件」だろう。街中におかれた女性裸体彫刻は、数でいえば男性のそれよりもずっと多いように思えるが、「男が裸になるためには方便としての小道具がいる」という著者の指摘は興味深い。裸は「一に飛脚、二に駕籠舁き、三に相撲取り」だそうで、横浜開港資料館が所蔵する風俗写真には裸の男たちの写真が残されているが、意外にも裸で登場する男たちは少ないという。ほとんどの職人たちは法被に身をつつんでいる。
それにしても、この本のおかげで街中の裸体彫刻をこれまでよりずっと好きになれたのがこの上なく嬉しい。古寺巡礼ならぬ「股間巡礼」が付録についているあたり、股間表現に対する著者の愛を感じずにはいられない。