美とミソジニー|馬場紀衣の読書の森 vol.36
ひっきりなしにお腹をしめつけるワンピースとか、気の抜けないヒール靴とか。メイク、ファッション、美容整形など女性がそうすることを社会から期待される美容行為のなかには、美しさと引きかえに身体への負荷を求めるものがある。こうした美容行為は男性による支配であり「有害な文化習慣」で、女性の従属を促進している。西洋中心的で男性中心的な価値観に美の規範を押しつけられた女性たちは、男性消費のフェティシズム的な興味に合わせて体を変形させているのだ。
という著者の痛烈な批判は、いささか強引な主張にも思えるけれど、無視できないところもおおい。この本に書かれているすべてに賛同できなくても、章を一つでも読めば自分がすでにミソジニーに巻きこまれていること、それが社会にどんな影響を与えているのかについて考えずにはいられない。
著者が有害な文化習慣と呼ぶものは、とてもわかりやすい形で社会に表れている。たとえばポルノについて。ポルノに出演している女性には陰毛がない「状態」だが、こうした傾向は1980年代以降にみられるようになったものだ。ポルノ女優のようなルックスの女性が性的に興奮する対象なら、と男性パートナーを喜ばせたい女性たちは性器にワックス脱毛をするようになった、と著者は指摘する。たちまち納得とはいかなくても(なにしろ女心はもっと複雑なので)、毛の一本に至るまでこの体は自分だけのものだ、とも言い切れないのは、私たちの体が社会的な存在であるためだ。ファッション業界が男性の視線を釘づけにするために女性に極小の素材を身につけさせるようになったことも、脱毛を促進させたかもしれない。そういう意味では、ファッションもまたポルノ同様、強烈な性的差異に基づいた業界といえるだろう。現代女性は体毛にたいする文化的な恐怖と嫌悪を抱いている。
この本ではトランスヴェスタイト(性的満足のために女性の服を着ることにマゾヒスティックな関心を持つ男性)についても触れている。「女らしさ」を男性側が実践することで、女らしさが社会的に構築されたものであり、男性とちがって女性は女らしさを「選ぶ」立場にないことが浮き彫りになる。美容行為は選択の問題ではなく、女性に文化的慣行を押しつける権力システムの結果に過ぎない。美容行為は女性の創造的表現のための女性の個人的選択や「言説空間」などではなく、女性抑圧のもっとも重要な一側面だと著者は主張する。
ところで、この本が刊行されてから10年の月日が流れている。10年のあいだにフェミニスト批判にはいくつか変化が起きた。さまざまな地域でポルノと売買春に反対するフェミニストの活動が活発になったし、美容行為にたいする批判的なフェミニスト研究も増えつつある。この本には、日本についての議論は登場しないけれど、取り上げられる話題はすべての女性に関係するテーマだ。そして男性にとっては、著者が「有害な文化的慣行」と呼ぶものがアクチュアルなものとして実感できるのではと思う。