時間の終わりまで|馬場紀衣の読書の森 vol.34
誰かに教えてもらわなくても、とうに私たちは知っている。どんなものもやがては亡びてしまうし、自分の住処である惑星でさえ、いつかは滅びてしまうということを。私たちは知っている。永続するものなど何もないし、自分が消滅した後も世界は何事もなかったかのようにありつづけるということを。日常生活では、なんでもないように振る舞ってはいるけれど。
こうした認識は、自分がつかの間の存在であることを気づかせてくれる。失ったものを嘆いたり、人と交流したり、楽しいときに笑ったりすることが、どれほど驚くべきことであるかを教えてくれる。宇宙がどのように出現したか、そしてどのように終わるのかを説明しようとするのもそのためかもしれない。人は、さまざまな世界を生きる者たちの物語を創造し、全知全能の神々の領域を描いてきた。自分はたしかにここに存在していたのだと証言するみたいに絵を描き、像を彫り、歌ったのだ。「人間であるとはどういうことか」という果てしない問いの答えは、もしかすると、こうした活動のなかに見出せるかもしれない。
旧約聖書には、はじまりの物語が綴られている。献身の程度や具体的な教義に差こそあれ、地球上にある宗教にはいくつかの共通点をみつけることができる。たとえば、どの宗教にも尊ばれる人がいる。その人たちは、ものごとのはじまりと終わりについて知り、我々がどこへ向かい、目的地に到達するための最善の手段を説く立場にある。おそらく、人は知りたいのだ。世界をいかに生きるべきかを教える物語や、行動の指針になる言葉を待っているのだ。でも、世界に目を向けるための隠喩的な方法としての神話ですら、世界がどのようにして始まったのかについて満足のいく答えを用意してはくれない。
想像してみる。もし、人類史における知識のすべてを包括するような統一的理解があるとしたら、それはどんなだろう。宇宙素粒子物理学の分野で長年第一線に立ってきた物理学者である著者もまた、そんな小さな問いから本書を書き始めたのではないだろうか。著者の知見を総動員して語られるのは、自然科学の内部の階層をはじめとした時間、心と意識、思考、芸術、宗教……テーマは果てしない。
こんなふうに書いてしまうと、読み通せそうにないと思われてしまいそう。あるいは、一歩足を踏み入れたら最後、出られなくなってしまう混沌みたいな本、と思うかもしれないけれど、心配はご無用。この作者はやみくもに読者を混乱させたりはしないし、そしてこれこそがこの本の最大の魅力なのだけれど、それぞれの章にそれぞれの物語があり、それぞれの思考の原理的な可能性が説かれているのだ。
息を飲むような見事な洞察がなされたかと思えば、その隣には疑問が寄り添うようにもたれかかっていて、洞察は流れるように次章へとバトンタッチされる。どの章も語り口は誠実で、親しみやすい。この著者は聡明であるだけでなく、優しい人物なのだ、という気がしている。だって、そうでなければ圧倒的なスケールに足をとられて、ページのどこかに置いていかれてしまったはずだから。
そうして読み終えたとき、今、自分がとてつもない場所にいるように感じたのはどうしてだろう。まるで、目の前にある現実とはべつの時間が流れているみたい。「われわれがこの宇宙に存在するひとときを、科学的な文脈に置いてみるなら、われわれの存在それ自体が驚くべきこと」なのだと語る著者の言葉に胸がときめいた。