4:イングランドの「夢」とは、なんだったのか?——『教養としてのパンク・ロック』第18回 by 川崎大助
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第2章:パンク・ロック創世記、そして、あっという間の黙示録
4:イングランドの「夢」とは、なんだったのか?
この当時、77年のイギリス社会がどれほど病んでいたか。端的に述べると、こうだ。「IMF(国際通貨基金)から融資を受けねばならないほどの、最悪の財政状態だったのだ」と。国家として、ほぼ破綻していたのだと。
76年、辞任した労働党ハロルド・ウィソン首相のあとを受けた同ジェームズ・キャラハン内閣は、猛烈なスタグフレーションによるポンド安危機に対応しようと為替介入を繰り返した結果、深刻な外貨準備不足に陥る。そして、まるで開発途上国のようにIMFに緊急支援要請をあおぐことになる。融資の条件が財政赤字の削減だったので、政府は公共投資を大幅にカットするほかなく、その影響で失業者がさらに増加。戦後最悪と言われていた76年をも超えて、77年の夏までに失業者数は140万人を越え、全労働人口の6パーセントを占めるまでに至ってしまう。50年代から70年代までのイギリスでは失業率の平均はおよそ3%、ほぼ完全雇用状態であったことから考えると、すさまじい悪化ぶりだった。
こんな状況下だったから、ピストルズはジュビリーを敵視したし、クラッシュは労働者階級のやるせなさを歌った。だからロットンは「女王は人間じゃない」と吠えたし、ストラマーは「デンジャー・ストレンジャー」になっちゃうぜ、と「1977」のなかで主張したのだ。
このときのイギリスの「危機」は、直接的には、73年から始まるオイル・ショックに端を発していた。74年の総選挙の結果、保守党が下野し、労働党主導の内閣が誕生しても、状況が改善することはなかった。当時の日本のように「オイル・ショックをてこに」新たなる産業構造へとシフトしていくことは、このころのイギリスには無理な相談だった。
74年当時のイギリス社会を描写した一文がある。イギリス人作家、デイヴィッド・ピースが、ノワール小説シリーズ「ヨークシャー4部作」の第1弾となる長編『1974 ジョーカー』日本語版の序文として記したものだ。それをここに引いてみよう。
イングランド北部を舞台としたノワール小説である同作の「暗く危険な男たち」とは趣を異にするものの、しかし同様の社会的ひずみのなかで、精神と肉体をさいなまれ、ほんの数年後の大爆発にそなえて、このころ日々燃料を蓄えていた若者たちが未来のパンク・ロッカーとなったことは、ご想像いただけるかと思う。
しかし、ここま追い詰められてしまう前には、イギリスにも明るい日々があったはずだ。「イングランドの夢」が、あったはずじゃないか?――という問いに「そんなものは、はなっからなかったのだ」という苦い考察がある。ジョン・ライドンの嫌みではない。これを言ったのは、イギリスの軍事史家コレリ・バーネットだ。彼によると、第二次大戦後のイギリスの産業衰退の起点は、戦時中に抱いてしまった「夢」のなかにこそあったという。
それは、どんな「夢」だったのだろうか? このつらい空襲を耐えきれば、ナチス・ドイツが倒れれば、きっと平和が訪れる。「素晴らしい戦後」が、勇者とその家族たちにもたらされるに違いない――といったような希望、だったのか。ならばそれは、人間としてごくごく当たり前の、持っていてしかるべき、ささやかなものではなかったか?
だがそれは「甘すぎた」のだ。そんな夢は、終戦早々に叩き潰されてしまう。なんとそれも、同盟国であるアメリカによって。
10億7千5百万ポンドもの債務
日本が降伏した1945年8月15日、つまりVJデイのすぐあとに、アメリカが武器貸与法(レンドリース法)にもとづくプログラムを打ち切った。戦時中、アメリカがイギリスへと提供した武器や食糧ほか、あらゆる軍需物資の料金支払いを猶予していたこの法律の停止によって、イギリスは突如、10億7千5百万ポンドもの債務を背負うことになる。戦勝国だったのに、このときの日本と大差ないぐらいの財政状態になってしまったわけだ。戦争が終わっても基本物資の配給制が続いたところまで、日本と同じだった。
ここに湧いて出たのが、元祖テディ・ボーイズである「エドワーディアン・ルック」の不良どもだった。闇屋を根城にする、アメリカかぶれのワルたちだ。ここもまた、焼け跡の日本同様「自由と豊かさの象徴」としてのGIたちからチューインガムやチョコレートを「恵んで」もらいながらも、重い債務によって「未来への夢」を木端微塵にされたところから、戦後のイギリスは始まった。ちなみに幾度かの返済延期のあげく、この債務をイギリスが完済し終えたのは、なんと2006年12月29日だった。
イギリス社会は、60年代の半ばから、長い不況のあとに短い好景気期間が来る、という循環を繰り返していた。この波が、直接的に若者文化にも影響する。好況期の可処分所得の増加がモッズを生んで、不況になるとスキンヘッズがあらわれた。とくに67年の「ポンド切り下げ」後は、スキンズの増殖に拍車をかけた。スカやロックステディを好む初期スキンヘッズのアイデンティティが確立したのは、68年ごろと言われている。
こんなイギリスの「持たざる者」をかろうじて支えていたのが、「ゆりかごから墓場まで」と評されていた高名な社会保障制度だった。46年の労働党アトリー政権が推し進めたこの「大きな政府」路線は、しかし一面、悪名高い「英国病」を生み出したとして非難された。とくに60年代後半以降は、経済成長の鈍化や労使紛争の多さによる社会的停滞を、「ヨーロッパの病人」などと、ほかのヨーロッパ諸国から嘲られる始末だった。
イギリスを捨てたロックスターたち
そんなときに幾人も、イギリス生まれのロックスターが国を捨てていた。60年代から70年代初頭に大成功をおさめたアーティストのなかには、イギリスを離れて、海外で王侯貴族か新興財閥の当主みたいな、優雅な暮らしを満喫している者もいた。
もちろん、みんながみんな、そうしていたわけではない。しかしジョン・レノンが「イギリスを捨てた」のは、どう考えてみても大きかった。71年以降の彼のニューヨーク移住はほとんど亡命にも等しいもので、イングランドの労働者が階級から「解放」される機会は、このとき永遠に失われてしまったと言ってもいい。
ローリング・ストーンズの3人も、同じ71年にイギリスを脱出していた。ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ビル・ワイマンの3人が、南仏に移住した。「イギリスの税金が高すぎる」ことが理由だとされていた。つまり、とても高額の税金を払わねばならないほど「稼ぎすぎた」がゆえの、優雅なる逃避行だったということだ。コート・ダジュールのリゾートにあるリチャーズが借り上げたヴィラにて録音されたアルバムが『エグザイル・オン・メイン・ストリート(邦題『メインストリートのならず者』)』となった。
デヴィッド・ボウイがロサンゼルスに移住したのは74年だった。絶望的な孤独を胸に抱えた少年少女たちが手を伸ばした、異装のグラムロック・スター、ジギー・スターダスト時代に幕を引いた彼は、アメリカに渡り、ソウルやファンクに傾倒していった。「コカインと牛乳とコショウしか摂らなかった」という、伝説のドラッグ漬け時代がスタートしていく。75年、(あこがれだったはずの)ジョン・レノンと共演したボウイは、シングル「フェイム」にて、念願の全米1位を獲得する。
さらに75年、フェイセズ解散を機に、ロッド・スチュワートもロサンゼルスに移住する。大ヒットした同年発表のソロ・アルバムは、いみじくも『アトランティック・クロッシング』――大西洋横断、と題されていた。ピストルズ「~ザ・クイーン」の全英1位を阻止したあのナンバーも、このアルバムに収録されていた。
「捨てられた」側の古くて新しいロックンロール
つまり平たく言って、イギリスの若者たちは、あるいは「持たざる者」たちは、ある意味「見捨てられた」のだ。70年代の、この時期に。セレブリティに、「新種の貴族」にまで成り上がっていた自国のロックスターたちから、連続して裏切られていた。60年代においては「恐るべき子供たち」だった彼らはしかし、功成り名遂げたあとのこのころは「なんだかよくわからない大人」になってしまっていた。相変わらず素晴らしい音楽は作り続けていたのかもしれないが、もはや彼らが「ストリート」に立つことはなかった。
彼らは反戦平和を希求したり、いろんな哲学を学んだり、納税額に頭を悩ませたり、ジョージ・オーウェル『1984』をロック・オペラにしようと腐心したり、スーパースターは金髪をお好きになったり――「いろんなこと」に没頭しつつ、みんな盛大に、高級酒やヘロインやコカインやマリワナを消費していた。そんなものを買うぐらいのカネなら、文字どおりいくらでもあったから。
ゆえに、沈没のさなかにあるイギリスにて、失業保険にしがみつくようにしてかろうじて生きている、名もなき若者たちが生きようが死のうが、「スター」たちの目に入るわけもなかった。そんな小さき者を視界に入れることや、さらには心を寄せることなど、事実上、困難きわまりないことでもあった。ビッグなロックスターと「市井の現況」とのあいだには、もはや修復不可能なほどの巨大な乖離が生じていた。
その隙間に捩じ込まれたのが、パンク・ロックだった。「捨てられていた」側が、俺らの、私たちの魂の鼓動だと感じられる「古くて新しい」ロックンロールだった。
【今週の2曲と映像2つ】
From Rude Boys to Skinheads in the 1960's
Symarip - Skinhead Moonstomp
Rod Stewart - Sailing (Official Video)
David Bowie 'Fame' 1975.
(次週に続く)