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どうしてこんな寝覚めの悪い結末になったのか――エンタメ小説家の失敗学27 by平山瑞穂

過去の連載はこちら。

平山さんの最新刊です。

第5章 「編集者受け」を盲信してはならない Ⅳ――『ネオテニーたちの夜明け』執筆をめぐって

「黒いランチ」

 自己啓発本にハマり、「デキる女オーラ」を撒き散らしているが、実際には仕事の要領が異様に悪く、無駄な残業ばかりしている三二歳の既婚女性、冴えない見かけながらカラオケのスキルだけは秀でており、社内の複数の若手女子が「サシカラ」の誘いに応じることから自分を「モテ男」と誤認している三〇歳の未婚男性、そして、無類のBL小説好きで、早々に結婚してしまった夫に飽き足らないものを感じ、社内での「恋愛ごっこ」に興じている二九歳の既婚女性――それが、本作の三人の主人公である。

 作中では、この三人が三者三様、自らのアイデンティティを守ろうとして悪戦苦闘するさまが描かれている。そして折々に、「黒いランチ」と題した断章が差し挟まれる。それは、ランチタイムに会議室に集ってきた女子社員が、この三人の「イタくてサムい」ありさまを口々に、サディスティックにあげつらう様子を描いたものだ。

 本作は書き下ろしだったので、原稿がある程度の量に達するたびに、中途の段階で何度かNさんに託し、意見を聞いてから書き進める形を取っていたのだが、Nさんは毎回、原稿の余白にびっしりと書き込みを入れてきていた。もちろん、疑問点や意見などもあったが、どちらかというと、場面場面に対する「感想」が目立った。

「……笑」とか、「ひえ〜〜〜っ」「助けてーーー!」「これはイタい!」といった、読んでいて直感的に浮かんできた寸評をその場で書き留めたようなものが中心だったが、それらはいずれも、僕がこの作品で意図したことは、Nさんにはまちがいなく正確に伝わっているという確信に結びつく感想だった。ほかにもNさんは、口頭でこうも言ってくれていた。

「“黒いランチ”の部分での、口さがない女子たちの悪罵が、現代の若い女性たちが悪口を言うその感じを、口調も含めてものすごくリアルに再現していると思います」

 原稿に目を通しながら、主人公たちと同世代であるNさんがしばしばおおいに笑ってくれたらしいことも、僕の自信につながっていった。そう、僕は何よりも、読者に笑ってもらいたかったのだ。「こういうタイプの人、あなたのまわりにもいるでしょう?」と水を向けつつ、その滑稽さを克明に描き出すことで、「現代社会」のありようを浮き彫りにすることこそが、僕の狙いだったのだ。「黒いランチ」は、いわば免罪符として用意した断章だった。「彼らのことは笑っていいんだよ」と読者に示すために、あえて遠慮会釈のない罵詈雑言を並べ立てていたのだ。

 そこに大きな、非常に大きな見込み違いがあったことに僕が気づくのは、ずっとあとになってからの話だ。

「もうひとつの失敗」

 Nさんとの間では、執筆はおおむねスムーズに進み、Nさんのリクエストに応じた改稿もあったものの、やがて脱稿した。いつしか、二〇一〇年になっていた。ところがそこで、僕は思わぬ障壁にぶち当たることになる。そこからのいきさつこそが、本章のテーマとは別の、「もうひとつの失敗」に当たる部分だ。

 Nさん経由で、今度は編集長として僕の原稿を受け取ったGさんも、この作品を大筋では「おもしろい」と評価してくれていた。ただしそこには、三人の主人公のうち二人が似すぎているから、どちらかの設定を変えるべきではないか、という意見がついていた。

 これが僕には、容易には受け入れられなかった。主人公三人中一人の設定を変更するというのは、口で言うほど生やさしいことではない。それはほぼ、一章をまるまる書き改めることを意味するし、その主人公が、他の主人公とからむ場面すべてにも影響が及ぼされるわけだ。担当であるNさんとの間では慎重にコンセンサスを形成しながら書き進めてきて、その上でこの形に仕上がっているのに、これからそれを一から組み替えろと言うのか――。

 第4章で述べたとおり、僕は少し前に、小学館で書いた『株式会社ハピネス計画』で、担当編集者Mさんの要求に納得もしないまま屈してしまうという苦い思いをしたばかりだった。いくら信頼しているGさんの意見とはいえ、ここでまた言いなりになってしまってもいいのか。

 変に依怙地になってしまった僕は、もちろん、さんざん悩んだ末にではあるが、以下のような回答でこれに応えた。

「Gさんの言っていることもわからなくはありません。でも、僕には僕なりの必然性があってこういう形にしてきたわけだし、ここでGさんの言うとおりにしたら、“課長に言われてこうしたのに、部長が違うことを言うから、それに合わせてまた変えた”というのと同じことになってしまう。それは、作家としての僕がすべきことではない気がします」

 そう言っておいてから、僕は続けた。

「ただし、Gさんにも立場があることはわかっています。その意見をただ無視するというわけにもいかないので、この原稿については、この際、新潮社から引き上げることにします。といっても、喧嘩別れがしたいわけではありません。Nさんとはひきつづき、これとは別の作品を、新潮社のために一緒に作っていきたいと考えています。遠くない将来、別の案をNさんに提示することになると思います。そういうことで、了承してはいただけないでしょうか」

 その時点では、それが最良の――少なくとも「いちばんマシな」事態の収拾の仕方だと僕には思えたのだ。

 Gさんは、「たしかに、お話を伺うとそのとおりだなと思います」と、この話を受諾してくれた。そして後日、こんな言葉をメールで書き送ってくれた。

「私にとって平山さんは、デビュー当時から担当した初めての作家さんとして思い入れがありましたし、編集長となって立場が変わってからまだ日が浅かったこともあって、“自分の意見も反映させたい”という思いから、ちょっと執着してしまいました。申し訳ありませんでした」

 Nさんも、「間に立つ私がうまく立ちまわれずに、こんなことになってしまってすみませんでした」と頭を下げてくれたのだが、頭を下げたいのはむしろこちらのほうだった。どうしてこんな寝覚めの悪い結末になってしまったのか。でも、僕には僕の、ギリギリのプライドがあったのだ。

 今となっては、そのまま原稿を引き上げずに、Gさんの意見を容れて再度改稿した上で、新潮社から刊行してもらうのがベストだったのではないかと思えてならないのだが、覆水は盆に返らずだ。ともかく、新潮社との関係が冷え込むことは本意ではなかったので、僕はその後、Gさんとの約束を守り、あらためてNさんを担当者とした長篇の書き下ろしを新潮社から出している。二〇一二年九月に刊行された、『僕の心の埋まらない空洞』だ(この作品については、第7章で詳述する)。(続く)


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