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頭上運搬を追って|馬場紀衣の読書の森 vol.48

人間て、美しいな、と思った。
若いとか、痩せているとか、目が大きいとか。美しいとされる規格は無数にあるけれど、そのどれともちがう、ほんとうの意味での美しさ。人が生きて、生活があって、労働のなかから生まれてきた生身の動作である。厳しくて強い、人間の姿を正面切って見つめる作者の目もいい。

「頭上運搬」というのは、言葉のとおり頭の上でものを運ぶこと。今のように自動車などでものを運べなかった時代、人が両手でものを運ぶのには限りがあるから、人はものを頭に載せて運んでいた。日本ではかつて伊豆諸島、東西諸島、瀬戸内沿岸、志摩などで見られたという。そして今もアフリカや中南米、東南アジア一帯では広く行われている。だから頭上運搬は失われたというのではないし、その光景も過去の記憶ではない。でも、忘れられ始めている。

手では運べないような重さでも、頭上運搬でなら運ぶことができる。具体的には30キロ以上。しかもそれを何キロにもわたって運搬するのだから驚く。頭上運搬は身体技法のひとつだから、やったことのない人が見様見真似で頭に載せてみたところで、できるというものではない。本書によれば、頭上運搬を行ってきた人たちは4歳くらいから頭の上に薪などをぽんとのせられて運んでいたそうで、思春期になるころには、運び手として重いものでものせられるようになっていたそうだから、幼少期からの習熟あってこその身体技法といえる。

頭上運搬の美しさは、その姿勢にこそあると思う。それがテレビだったか雑誌だったかすっかり忘れてしまったけれど、はじめて女性の頭上運搬の姿を見たとき、その姿勢のインパクトと言ったらなく、私はしばらくその光景から目が離せなかった。あれは背筋がよいというよりも、身体の緊張と弛緩のバランスによるものだなと思った。背中と腰は妙に緩く力が抜けているのに頭から腰に抜けて、まっすぐな芯が通っている。それも金属みたいにぴんと張りつめた、固い軸。

そして頭上運搬には「ゆるんでいること」が必要なのだと読んで、長いこと不思議に感じていたことがようやく理解できた。「物理的な重力線の変化を感じるには、できるだけ、筋肉を脱力させている必要」があり、「身体意識を形成するためには『ゆるんだ体』が必要」で、「『ゆるんだ体』になってくると、さらに身体意識が強化されていく、というサイクルに入り、どんどんパフォーマンスが上がっていく」のだという。

人間の体は、ビール瓶のように常に真っ直ぐであるわけでもないし、静止してもいない。頭の上は平らではないし、体のパーツはさまざまに分かれている。しかも、頭上運搬は「運搬」こそが目的なのだから、ものを運ぶために、体を動かさなければならない。ここで行われなければならないことは、運ぼうとするものの重心が体の重心と重なり、体を真っ直ぐ重力線に沿わせること、しかも、歩いて運ぶのであるから、動くたびに、その重力を感知し、微調整されていかねばならない、ということである

こういう感覚は、実際に自分の体で経験してみなくてはわからない。ところで伊豆諸島では、あえて異性の目の多い夕方に頭上に水をのせて歩いた娘もいたという。運搬する姿の美しさと、頭にものをのせているからこそ生まれる細やかな動作。その姿に魅了された男たちの気持ちが分かる。ちなみに頭上運搬を行っていた地域では、年齢を重ねても腰が曲がらずに美しい姿勢のまま老いていったと語られる。労働のなかで生まれ、日々培われた、まっすぐでゆるんだ体。そういう美しい体を持つ人に、惹かれないわけがない。


三砂ちづる『頭上運搬を追って 失われゆく身体技法』光文社新書、2024年。


紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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