パレードのシステム|馬場紀衣の読書の森 vol.39
不思議な懐かしさに覆われた小説だ。それでいて、なんだか床が抜けてしまったみたいに心もとない。終わりまでずっとそこはかとない不安にくるまれている気分だった。
うら若い現代アーティストの「私」は、亡くなった祖父に一目会うために10年ぶりに生まれ育った町に帰って来る。そこで会った従姉妹の「ねえ、知ってた、おじいちゃんってガイジンだったんだって」という言葉から、物語はゆっくりと動きだす。
自死だった祖父の部屋からでてきたのは、古い写真、絵葉書の束、どこの国の言葉なのか分からない記事の切り抜き。そこには生前には語られなかった祖父の記憶があった。祖父が台湾で生まれたこと、第二次世界大戦後に日本本土に引き上げた湾生だったことを知った「私」は、東京へ戻ると父親の葬式のために帰国するという台湾出身の「梅さん」と一緒に台湾へ向かった。「私」は街を散策し、台湾の文化や慣習を学んでいく。そして日本とは様子の異なる葬式を目にして、心をうたれる。台湾では、死に対する態度が日本とはちがっていたから。
小説を読んでいると無数の顔に行きあたる。古い写真の子どもたち、パスポートの顔写真、遺影、肖像画。台湾では、死者が戻るとされる鬼月には、生きている人は顔写真を撮ることがよくないとされているのだと、この小説を読んではじめて知った。「花というものは、植物を擬人化したときに顔として見立てられることがほとんどだけれど、実際に構造として考えると植物の性器にあたる」「人はそれを、簡単に人の顔に例えて眺めて顔を寄せ、楽しんできた」との言葉は、主人公が顔をテーマにした作品を発表していることと関係しているのだろう。「私」の作品は「たくさんの人の顔を組み合わせ、ドローイングをした壁面に貼ったり、プロジェクターで映し出したりするもの」で、モンタージュや顔のぼかし加工で存在しない人の顔を再構築している。
それでいて多くの人は、顔のわずかな配列のために嫌悪を抱いたり、悲しんだり、執着したりする。顔に宿る冷酷さは、ときに人を死に追いやる。旅の終わり、「私」はすでにこの世にいないカスミという友人のことを思い出す。
世界は、無数の顔に溢れている。誰も自分の顔から逃れて生きることはできない。他人の顔からも。アートを通して顔を見る「私」に、人の顔はどのように見えているのだろう。
物語は、梅さんのお父さんのお葬式の場面で幕を閉じる。はじまりとはうって変わり、賑やかな雰囲気だ。葬式のパレードが「私」を、生者と死者の境目に立たせる。楽隊の奏でる音が、死んでいった者たちへのレクイエムに聴こえた。