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パレードのシステム|馬場紀衣の読書の森 vol.39

不思議な懐かしさに覆われた小説だ。それでいて、なんだか床が抜けてしまったみたいに心もとない。終わりまでずっとそこはかとない不安にくるまれている気分だった。

うら若い現代アーティストの「私」は、亡くなった祖父に一目会うために10年ぶりに生まれ育った町に帰って来る。そこで会った従姉妹の「ねえ、知ってた、おじいちゃんってガイジンだったんだって」という言葉から、物語はゆっくりと動きだす。

自死だった祖父の部屋からでてきたのは、古い写真、絵葉書の束、どこの国の言葉なのか分からない記事の切り抜き。そこには生前には語られなかった祖父の記憶があった。祖父が台湾で生まれたこと、第二次世界大戦後に日本本土に引き上げた湾生だったことを知った「私」は、東京へ戻ると父親の葬式のために帰国するという台湾出身の「梅さん」と一緒に台湾へ向かった。「私」は街を散策し、台湾の文化や慣習を学んでいく。そして日本とは様子の異なる葬式を目にして、心をうたれる。台湾では、死に対する態度が日本とはちがっていたから。


高山羽根子『パレードのシステム』講談社、2023年。


小説を読んでいると無数の顔に行きあたる。古い写真の子どもたち、パスポートの顔写真、遺影、肖像画。台湾では、死者が戻るとされる鬼月には、生きている人は顔写真を撮ることがよくないとされているのだと、この小説を読んではじめて知った。「花というものは、植物を擬人化したときに顔として見立てられることがほとんどだけれど、実際に構造として考えると植物の性器にあたる」「人はそれを、簡単に人の顔に例えて眺めて顔を寄せ、楽しんできた」との言葉は、主人公が顔をテーマにした作品を発表していることと関係しているのだろう。「私」の作品は「たくさんの人の顔を組み合わせ、ドローイングをした壁面に貼ったり、プロジェクターで映し出したりするもの」で、モンタージュや顔のぼかし加工で存在しない人の顔を再構築している。

固定された線画と動画に映し出される線描、貼られた顔の写真と、映し出された顔というものたちには、相互作用を仕掛ける余地がたくさんあった。そうして、世界中で顔を持たない人はたぶん、ほとんどいない。

それでいて多くの人は、顔のわずかな配列のために嫌悪を抱いたり、悲しんだり、執着したりする。顔に宿る冷酷さは、ときに人を死に追いやる。旅の終わり、「私」はすでにこの世にいないカスミという友人のことを思い出す。

あのときカスミは、私の作品の中のひとつにカスミ自身の顔ととても似たものがあるので、削除か差し替えをしてほしいと告げてきた。自分の顔が大画面に投影されることがとても苦痛だから、カスミ自身の問題として、なくしてほしい、と。

世界は、無数の顔に溢れている。誰も自分の顔から逃れて生きることはできない。他人の顔からも。アートを通して顔を見る「私」に、人の顔はどのように見えているのだろう。

私の作品として存在する顔はどこかの誰のものでもなく、そのぶん、どこかの誰にでもなりうるようにと意識して作ったものだった。だから、その顔が自分に似ていると考えられることは、悪いことではないとさえ思っていた。

物語は、梅さんのお父さんのお葬式の場面で幕を閉じる。はじまりとはうって変わり、賑やかな雰囲気だ。葬式のパレードが「私」を、生者と死者の境目に立たせる。楽隊の奏でる音が、死んでいった者たちへのレクイエムに聴こえた。



紀衣いおり(文筆家・ライター)

東京生まれ。4歳からバレエを習い始め、12歳で単身留学。オタゴ大学を経て筑波大学へ。専門は哲学と宗教学。帰国後、雑誌などに寄稿を始める。エッセイ、書評、歴史、アートなどに関する記事を執筆。身体表現を伴うすべてを愛するライターでもある。

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