『独ソ戦』新書大賞受賞のお祝いに、岩波書店の永沼浩一さんを訪ねてみた!
岩波書店の永沼浩一さんが、「B面の岩波新書」で光文社新書編集部をお訪ねくださったのは2年前のこと。ちょうど『バッタを倒しにアフリカへ』が新書大賞をいただいたタイミングでした。ならば、「岩波新書の真のライバル」である私たち(笑)としては、『独ソ戦』が2020年度の栄誉に輝いた今この時こそ永沼さんをお訪ねしよう!ということで、「B面の岩波新書」へのオマージュ企画として打診させていただきました。永沼さんには、ご自身の部署異動の直後だったにもかかわらずご快諾いただき、心より感謝いたします!
聞き手/三宅貴久(光文社新書編集長) 構成/田頭 晃(光文社新書)
――まず『独ソ戦』が新書大賞で1位をとられたということで、本当におめでとうございます。
永沼さん(以下、敬称略) ありがとうございます。
――けっこう早い段階で、これは新書大賞じゃないかと言われたりしませんでしたか?
永沼 言われましたし、三宅さんからもたしかにそう言っていただいたと思います。
――やっぱり新書大賞受賞作には、オーラがあるといいますか、勢いを感じさせるものが選ばれると思っていまして。部数が出ていることも重要ですけど、この『独ソ戦』のように読み物として読ませる力が非常に大事なんだろうと感じます。
受賞にあたっては率直にどういうお気持ちでしたか?
永沼 期待はあったんですけれども、まさか本当にいただけるとは思わず、著者の大木さんともども大いに驚きましたね。
――新書大賞をとれた要因はいくつかあると思うんですが、どういうふうに分析されていますか?
永沼 去年の新書大賞が中公新書の『日本軍兵士』で、これは前編集長の白戸さんが担当された本ですけれども、何か新書の流れが「教養新書」というものに対して回帰しつつあるという感覚があります。読ませる新書、それでいてアカデミズムの裏打ちがある、しっかりとした新書というのがまた求められ始めているのかなと。
そういう意味で『独ソ戦』がご高評いただいたのは、単なる読み物というだけではなくて、やはり学術的な裏づけを感じさせるところを評価していただいたのかなと思っています。
――なるほど。いま部数は10万部を突破して、12万部ぐらいですか?
永沼 そうですね。受賞ということを聞いて緊急重版がかかりまして、累計12万部です。
――岩波新書としては二度目の大賞ですよね。一度目は『ルポ貧困大国アメリカ』で、2009年だったでしょうか。
永沼 そうでしたね。よく覚えていらっしゃる。
――大賞も素晴らしいんですが、岩波新書の底力を感じたのは、7位に『女性のいない民主主義』が入っていて、『AIの時代と法』が17位、『流言のメディア史』が20位。順位が出ている中に4点も入っているのは、やはりすごいことだなと。そのあたりは永沼さんの編集方針が間違っていなかったということでしょうか。
永沼 どうでしょうか。この数年、個人的には岩波新書の役割をどう再確認していくかで非常に苦しかったので…。
――再確認ですか?
永沼 はい。先ほども申し上げたように学術的な裏打ちのある新書に戻していく必要があるという思いで編集長を務めていましたので。ここに来て、それがようやく実を結んできたのかなという思いです。
――なるほど。すると永沼さんからは編集長になられる前というのは、肝心なアカデミズムの部分が弱くなっていたということなのですか?
永沼 弱くなっていたというよりも、少し後ろに下がっていたという感じでしょうか。2011年の震災と原発事故からしばらくの間、岩波新書は、日本で顕在化してきた様々な問題に対して批判的なスタンスをとりながら、ある種の社会的な使命を感じながら本を作っていたんですね。そのため当時は学術的な部分、言い換えれば教養新書という意味合いは少し後ろに下がっていたんです。その意味合いをまた前面に出して、「岩波新書とは何か」ということを自分なりに再確認しようと努めてきました。
――今回の結果でその目的もある程度達成できたというところですか?
永沼 そうですね。でも、私の前の前の小田野編集長のときは、学術的な教養新書を前面に出していた時期なんですよ。それでいて、先ほどの『ルポ貧困大国アメリカ』や、『反貧困』といったジャーナリズム的な新書も出していて、いわば学術的なものとジャーナリズム的なものがいい形で絡み合った時期だったんですね。
――2000年代初めのほうですよね、小田野編集長の時代は。
永沼 そうですね。私にとって、その時期が岩波新書のいいあり方のひとつのモデルでした。ただ、震災や原発事故という大きな社会的事件があると、どうしてもジャーナリスティックなテーマが前面に出てこざるをえない部分があったわけです。それをもう少しアカデミズムのほうに引き寄せるといいますか、私の編集長時代はそういう作業をしていた5年間でした。
――ちょっと振り子を戻すみたいな感じだったんですね。
永沼 そうですね。
――『独ソ戦』にお話を戻しますと、著者の大木毅さんに依頼をされたきっかけというのは何だったんでしょうか?
永沼 前々から「独ソ戦」というテーマで新書を作りたかったんです。
――もともとテーマを持たれていたって、すごいですね。
永沼 ただ、書き手がなかなか見つからなくて(笑)。というのは、日本の歴史学では、「軍事史」というテーマは必ずしも正面から研究されてこなかったという背景があって……。そうした中で、大木さんは近年、作品社さんでドイツ軍事史の翻訳書を次々に出して、非常にしっかりした仕事をされていたんですね。大木さんご自身は大学院の博士課程も出ていて、学問のトレーニングを受けてきた人でもある。もしかしたら行けるかもしれないと思って、アプローチしました。
――ちなみに「独ソ戦」を前々からやりたいというふうにお考えになっていたのはどういう理由からなんですか?
永沼 独ソ戦の悲惨さというものは非常に際立っていて、人類史の中でも極めて異質な戦争だと思うんですね。たとえば、ソ連側の犠牲者の数だけをとっても桁が一つ違うような、想像を絶する戦争です。「絶滅戦争の惨禍」という副題にあるように、ホロコーストとも深い関わりがあります。ところが、独ソ戦のそういう実態は日本ではあまり知られていなくて、一部のミリタリーファンの興味関心の対象でしかないように見られていたんですね。私は、独ソ戦という戦争は「人類の体験」として知っておくべきだと思っていたものですから、前々からこれをテーマとした新書を作りたかったんです。
――この本には、新しい史料の発見にもとづく内容が含まれていますが、ドイツで歴史研究がいろいろ見直されているということ自体はご存じだったんですか?
永沼 ええ。冷戦後、ソ連側の機密資料というのは開示されてきましたが、いろいろな制約下で歴史研究が滞っていたのは西側のほうでも同じあって。それがようやく進み始めたということを聞いていましたから。
――なるほど。これは前にお聞きしたことですが、この本はある意味であまり岩波新書らしくないとおっしゃっていたと記憶しています。それもあって企画会議で通すのに時間がかかったと…。永沼さんが民主的に企画を進めたいので、全員の賛成が得られるまで粘ったということだとは思うんですけれど。
永沼 ええ。よく覚えていらっしゃる(笑)。岩波書店の企画会議というのは合議によって決めるんです。一人でも反対があれば成立しないというわけではないんですが、部員の意見をいかに取り込んで企画化していくかが大事かなと思っていまして。だから、編集長の企画といえどもダメ出しされるときはありますし、逆に編集長個人がゴリ押しで決めるということもないんです。
――この企画を永沼さんが提案されてから、出版までどれぐらいのお時間がかかったんですか?
永沼 著者の大木さんに依頼したのが2018年の5月です。企画が編集部の中で成立したのは12月の初めだったでしょうか。3回ぐらい企画会議にかけたと思います。私の企画ってしばしばそうなんですよ。すぐにはうんと言ってもらえない、岩波新書らしくない企画ばかりなので、苦労するんです(笑)。
――いやいや(笑)。そのあたり、どういうところが岩波新書らしくないのかということをもう一度詳しくお話しいただけると。
永沼 どう言ったらいいのか……。まず岩波書店の本は総じて戦争に対して反対の意思を表明するというのが基本だと思うんですね。ですから『独ソ戦』についていえば、ひとつには、軍事をテーマとして扱うということの難しさがあった。もうひとつには、特に独ソ戦の場合、ミリタリーファンのマニアックな興味の対象に過ぎないのではないか、という疑念があったと思います。
――なるほど。戦記ものみたいに受け取られてしまう可能性を懸念されたわけですね。
永沼 そうですね。だから他の編集部員としても、そういう心配というか、岩波新書として扱うべきテーマなのかという問題意識があったのだと思いますね。
――もし岩波書店でやるんだったら、どちらかというと戦争否定という方向じゃなきゃいけないということなんでしょうか。
永沼 そうですねえ……表現が難しいですが、単なる興味本位でこういう戦争の本を作ってはいけないのではないか、という危惧と言えばよいでしょうか。
――ものすごく端的にまとめると、こういうテーマだと売れる、という狙いだけではないということですよね。
永沼 はい。決して興味本位ではなくて、「戦争」というものが何か皮膚感覚で感じられるようになってきているからですね。
――なるほど、時代の要請ということですね。
永沼 つい最近もアメリカとイランが一触即発のような局面がありましたけど、戦争というものが以前よりも身近というか、ひしひしと迫って感じられるような状況にあると思うんです。その意味で、「戦争とはいったい何か」ということを知りたい読者がいるのではないか。それも、ただ興味を満たすためではなくて、しっかりとした研究の成果に基づいた著作を読んで知りたいという人が。なので、大木さんが書く『独ソ戦』ならば、確実に読者がいると思っていました。
――戦争の悲惨さを伝えるにはもうこれしかないというテーマですよね。4000万人という死者の人数を考えても。
永沼 そうですね。あとは大木さんがこの本の中でも書いていますけれども、独ソ戦は単なる軍事的な衝突ではなく複合的な戦争であって、お互いの存在を完全に抹殺する、まさに「絶滅戦争」という表現に端的に象徴される性格もあったわけです。私たち日本人が想像する戦争とはまったく違う戦争だったと思いますね。それはやはり同じ人類として知っておく必要があるのではないか、そういう問題意識で大木さんには執筆を依頼しました。
――戦争というと、外交の延長といいますか、ある種の合理性に則ってやるものだという考え方がそれなりに支配的だと思うんですけれど、こういう形で行くところまで行ってしまった怖さはすごくありますよね。
永沼 人間の理性や軍事的な合理性を乗り越えてしまった戦争といいますか。この本の中にもありますが、クラウゼヴィッツが言うところの「絶対戦争」を本当に遂行してしまったところがあるんですよね。
――よく旧日本軍が兵站の問題や、まったく合理性のない作戦遂行が反省材料になっていますが、この本を拝見するとドイツ軍もあまり変わらないんじゃないかと思いましたね。
永沼 そうですね。この流れで言うと、先ほどの「岩波新書らしくない」のお答えになっているかわからないんですが、編集部内で慎重論が出たのは、軍事的な合理性に焦点が当たることへの懸念があったのかもしれません。軍事の世界というのは、これはカッコ付きですが、非常に「理性的」なんです。軍事的な合理性に基づく作戦で、命令一下、何千人、何万人の人間を死地に追いやるような、そういう活動なわけです。軍事とは「理性的」でありながら非人間的な営為の極致でもあって、たぶんそういうものに対する懸念や嫌悪感から、そんな本を本当に作っていいのかという意見が出されたのではないかと思っています。
――なるほど。
永沼 これは感想として率直に述べたんですが、大木さんの最初の原稿は、怖くなかったんですよ。すごく残虐な、生々しく人間が血を流して死んでいくような描写は必ずしもなくて……。ところが、大木さんは研究者としてもっとメタのレベルで戦争というものを捉えていて、人間の「理性」や軍事的な合理性のもつ危険性は、実はそういう俯瞰した視点からでなくては見えてこないんですね。そのことを私はよく理解していなくて、「戦争ってもっと怖いものなんじゃないですか」というようなことを言ってしまいました。そんな素人の素朴な感想を大木さんはよく受け止めてくださって、「絶滅戦争」という第三章をかなり書き込んでくれましたね。
――大木さんはこの「中央公論」のインタビューでも、編集者のかたから「怖さ」を加えてほしいとリクエストがあったと答えられていますよね。ただその塩梅が絶妙ですね。あまり悲惨なものばかりでもそれは読み物として難しいでしょうし、冷静な部分と感情に訴える部分のバランスがすごくよいと感じました。そのあたりの加筆は何度もお願いされたんですか。
永沼 ええ。というのは、編集部の企画会議でそうした懸念が出ましたから。やはり戦争の本当の残虐性とか、非人間性というのは盛り込んでいかなければならないと、私自身も思い直したんですね。それで大木さんに目次をブラッシュアップしていただくのを3回ぐらい繰り返して、編集部員たちの意見を取り入れてもらいました。
――会議では難産だったけれど、やっぱりその懸念をどんどん取り入れていったことで最高の結果になったということですね。
永沼 おっしゃるとおりです。必ずしも望んでいない意見であっても、取り入れるといい結果につながることは往々にしてあると思っています。『独ソ戦』の場合が、やっぱりそうでしたね。こういう視点が足りないんじゃないのか、このテーマの本を出したらこういう影響があるがそれはいいのか、という問題提起までされましたから。それをいかに取り込みつつ、自分の実現したい企画に賛同してもらえるようにするかというプロセスに、なかなかの時間がかかりましたね。
――素晴らしいですね。
永沼 最初に懸念が示されなければ、もっと純軍事的な内容に寄っていたかもしれません。「絶滅戦争」というキーワードも出てこなかったでしょうね。
――このシンプルなタイトルは、初めから永沼さんの中で決まっていたんですか?
永沼 『独ソ戦』というメインタイトルは初めから決まっていましたが、「絶滅戦争の惨禍」というサブタイトルは目次案ができた後でしたね。
――あと、この帯がすごくいいなあと思って。「戦場ではない 地獄だ」って、小説の帯みたいですよね。すごくエモーショナルに訴えるといいますか。アカデミズムに裏打ちされた、エビデンスに基づいた冷静な記述もありつつ、エモーショナルでもあるバランスが素晴らしいと思うんですけれど、これは永沼さんが考えられたんですか?
永沼 ええ。これは早い段階から帯の絵も浮かびましたね。キャッチコピーと併せてスパッと。
――やっぱりうまくいくときというのは、バチッバチッとはまっていくものでしょうか?
永沼 そうかもしれません。何か呻吟してひねり出したということではなかったですね。先ほどから申し上げているように、独ソ戦は戦車と戦車が砲火を交わす勇ましい戦場というようなイメージで語られることが多かったと思うんです。しかし、実はそんな勇ましい戦いなどではなかった。まさに生き地獄というべき光景が出現した4年間だったと思いますし、それをこそ伝えるべきだと思いました。
――その永沼さんの思いがやはり多くの人を動かしたわけですよね。本が発売された後の話なんですが、出てすぐに売れ行きはよかったんですか?
永沼 よかったですね。アマゾンの予約が始まった段階から、通常とはちょっと違う動きをしているなという感覚がありました。
――予約の段階からですか。
永沼 予約の段階からでした。総合ランキングで500位ぐらいからでしたけど、発売までわりとその位置をずっとキープしていたんですよ。大木さんがTwitterで告知してくれてから、さらに反応がありましたしね。
――その後ですごく伸びるきっかけはあったんですか?
永沼 発売早々に「HONZ」で成毛眞さんが、これは2019年のベスト新書だということを書いてくださったので、それが一つのターニングポイントだったかなと。というのは、それまでは基礎部数をクリアしていたところから、もうひとつ外側に読者層が広がったという感じでしたね。
――7月20日刊行で、成毛さんの書評は8月2日に出ているみたいですね。
永沼 どこかのポイントでいきなりグーッとものすごく伸びたというわけでもないんです。成毛さん書評がグッと高度を上げてくれたんですけど、そこからは凧揚げみたいな感じで、少し落ちそうになると、別のどなたかがクイッとまた上げてくれたり。私たちもいろいろ話題にするために活動はしたんですけどね。
――先ほどのお話にもありましたが、永沼さんはけっこう岩波新書らしくない企画をたくさん担当されているということなんですが、たとえば大竹文雄先生の『行動経済学の使い方』や、少し前は成毛眞さんの『面白い本』もそうですよね?
永沼 はい、そうですね。
――成毛さんの本はすごく柔らかいですし、大竹先生の行動経済学については、岩波新書で経済というと思想的なものが多い印象がありますし、今までのカラーと違うものを出されているので、すんなり通らないということなんでしょうか…?
永沼 それはあるかもしれませんね。
――ただ、永沼さんとしては、今までにないものをやるという形で企画を考えられているわけですね。
永沼 あまり明確にそういう意思をもって考えているわけじゃないんです。作りたい本といいますか、こういう本があるといいなと思って企画を立てているだけです。それが図らずもすんなり通る企画じゃないものになってしまいがちで(笑)。
――じゃあ、永沼さんとしては別に意図的にやっているというより、面白いものをというふうに考えると、そうなってしまうということなんでしょうか。
永沼 そういうところがあると思います。たくさんの人に読まれる本というのは、何か違和感じゃないですけど、ちょっとしたズレがあるところにひとつのきっかけがありそうだという感覚があるんです。編集部の中でも一度話題にして、議論したことがあるのですが、先ほどお話しした中公新書の『日本軍兵士』の吉田裕先生は、むしろ岩波書店で著書の多い方なんですね。そういう方が版元を違えて、中公新書で出していることのズレ感といえばいいでしょうか。しかし出来上がったものは、これは中公新書だなという本になっているところが見事だなと思っていまして。そういうズレ感のある本こそがブレイクするといいますか、読者にフックする本になりうるのではという気がしますね。
――おっしゃっているのは、岩波新書の持っているイメージから、ちょっとズレた本ということですよね。先ほどの成毛さんや大竹先生の著書のような。
永沼 ええ。意外なテーマであっても、出してみたらやはり非常に岩波新書らしい本になっていることがいい結果を生むのではないかと。『独ソ戦』もやはりそういう評価をいただいたのかなと思っています。大木さんはこれまでまったく岩波書店と関わりはありませんでしたし、在野の研究者と言ってもいい方なんですよ。その意味でも岩波の著者としては、ちょっと異質な方ではあるんですよね。そういう方が軍事をテーマに書いて、それでもなお岩波新書らしい一冊ができたというところに、本が読まれていくヒントがあるのかもしれないという気はしています。