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【第85回】無名兵士にとって「戦争」とは何か?

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★現代の日本社会では、多彩な分野の専門家がコンパクトに仕上げた「新書」こそが、最も厳選されたコンテンツといえます。この連載では、高橋昌一郎が「教養」を磨くために必読の新刊「新書」を選び抜いて紹介します!

「戦死」ではなく「水死・病死・餓死」

1942年(昭和17年)6月、大日本帝国海軍は、すでに日本の暗号を解読して待ち伏せしていたアメリカ海軍機動部隊にミッドウェー海戦で大敗した。航空母艦4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)が沈没し、艦載機約290機全機を失うという致命的な作戦の失敗だったが、大本営はその事実を隠蔽した。
 
8月にはソロモン諸島のガダルカナル島にアメリカ軍の海兵隊が上陸を開始し、圧倒的な戦力で日本の陸軍を追い詰めた。ソロモン沖海戦で敗れた日本は補給輸送することもできず、1943年2月に総兵力約3万人のうち約1万人を撤退させた。戦闘による戦死者は約5千名、残りの約1万5千名は戦病死か餓死という悲惨極まりない結末である。ガダルカナル島が兵員から「餓島」と呼ばれていた事実は伏せられ、大本営は「撤退」を「転進」と発表した。
 
5月にはアリューシャン列島のアッツ島にアメリカ軍が上陸し、弾薬を使い果たした日本軍守備隊は、「降伏」を呼びかけるアメリカ軍の陣地に日本刀と銃剣で突撃して全滅した。彼らは、総理大臣兼陸軍大臣・東条英機が示達した「戦陣訓」の一節「生きて虜囚の辱を受けず」という無謀な「命令」によって死んだのである。大本営は、ここで初めて「玉砕」という言葉を用いた。
 
その東条は11月に「大東亜会議」を開催して「得意絶頂」だった。中華民国主席の汪兆銘、満州国総理の張景恵、フィリピン大統領のホセ・ラウレル、ビルマ総理のバー・モウ、タイのワンワイタヤーコーン殿下、自由インド首班のスバス・ボースが東京に集結した。日比谷公園の「大東亜会議国民大会」では東条と各国首脳が10万人の大衆の前で演説した。もはや取り返しのつかない戦局の悪化から国民の目を逸らすためには、いかに「面従腹背」な傀儡政権であろうと、「アジア団結の芝居」を打つ必要があったに違いない。
 
本書の著者・山本茂実氏は1917年生まれ。松本青年学校在学中に召集され近衛歩兵第3連隊入隊。終戦後は農業に従事、早稲田大学文学部聴講生、青年海外協力隊専任講師などを経て作家となる。1998年に逝去。主要著書に『あゝ野麦峠』(朝日新聞社)や『山本茂実全集』全7巻(角川書店)などがある。
 
さて、東京で華々しく大東亜会議が開かれている頃、ひっそりと松本を出発したのが、陸軍歩兵第百五十連隊、通称「松本連隊」の約550名である。召集された彼らは輸送船に詰め込まれ、海上では潜水艦の餌食になりながら、どうにか半数がトラック諸島まで辿り着く。ところが弾薬や食料の補給はなく、グラマン戦闘機の攻撃から逃げ惑いながら、栄養失調になり餓死に至る。

本書で最も驚かされたのは、当時の日本近海にはアメリカの潜水艦が180隻も潜航し、輸送船が撃沈される可能性が非常に高かったにもかかわらず、大本営が狂気の出撃命令を出し続けたことだ。松本連隊の輸送には3隻の船が割り当てられたが、連隊長は3隻すべてが沈められることも覚悟した。そこで彼が何よりも恐れたのは、兵員ではなく「軍旗」が沈められることだった! 彼は司令部と交渉して「軍旗」を護衛の駆逐艦に移そうとするが、結果的には護衛さえ現れないまま3隻に出港命令が下る。不条理すぎて言葉もない!

本書には、地獄のような世界から生還した人々の生の声が綴られている。終戦後、連隊長は、命よりも大事にしてきた「軍旗」を泣きながら奉焼した。


本書のハイライト

戦記といえば必ず高名な将軍か参謀のものが多かったが、近代戦は決してそれだけで表現出来るものではなく、戦争はもっと大きなスケールで激動している奔流のようなものではないかということである。松本連隊の帰還者みんなと話してみようと大それたことを考え出したのもそのためである。……名もない兵隊たちの気持ちをいかにしてありのままに伝えるか、善悪はすべて長い歴史の判断にまかせる(pp. 428-429)。

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著者プロフィール

高橋昌一郎/たかはししょういちろう 國學院大學教授。専門は論理学・科学哲学。著書は『理性の限界』『知性の限界』『感性の限界』『フォン・ノイマンの哲学』『ゲーデルの哲学』『20世紀論争史』『自己分析論』『反オカルト論』『愛の論理学』『東大生の論理』『小林秀雄の哲学』『哲学ディベート』『ノイマン・ゲーデル・チューリング』『科学哲学のすすめ』など、多数。

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