香りの愉しみ、匂いの秘密|馬場紀衣の読書の森 vol.32
嗅覚のメカニズムを化学的な視点から解明しようとするルカ・トゥリンと私とのあいだに共通点はまるでない。しいて挙げるなら、彼も私も香水をコレクションしている、ということくらい。古道具屋で古い香水を探しまわっている、ところもおなじ。でもその先の、たとえば嗅覚のメカニズムや調合のレシピについては、彼に教えられてばかりだ。
香水にすっかり魅了された著者は「香水は、それになれると正確な時計のように機能する」と語る。匂いと記憶は不思議な力で結びついているから、懐かしい匂いがたちこめると、たちまち時間旅行へ出かけたような気になる。でも、ここでいう「時計」とは、記憶ではなくてもっと具体的で、現実とむすびついたものだ。
こんなふうに香りの体感をユニークに説明してしまえるあたりに、著者の香水にたいする深い愛を感じる。彼の嗅覚にかかれば「バニラは合成香料化学で初めてのサクセスストーリー」であり、「スズランはマックスフィールド・パリッシュの絵のような、おぼろげな永遠の朝の光をあびたミュゲの領域」であり、「アンバーは本物のビニール盤レコードの手入れに使われた昔なつかしいクリーナー液」なのだ。ほかにも、香水が作りだす匂いの空間を「ランドスケープ」と表現したり、「化学の詩」と呼んだりする。広大な香りの地図をもっている人なら、本書を読んだあとで、つい戸棚の香水瓶をひとふきしたくなるだろう。
本書によれば、匂いは生物学的な現象にすぎない。匂いは分子に固有の属性ではなく、人の体の細胞が分子に触れたときに感じるものなのだ。ただ、匂いの分子について解明すべきことは分かっているのに、鼻がその匂いを読みとる仕組みはあまりよくわかっていない。世界ではつねに新しい分子が作られているにもかかわらず、である。この嗅覚の中心問題を解読するのが本書のテーマだ。
香りに満ちた人間社会では、匂いが問題になる場面もある。幸い、本書で語られるのは香り高い「匂い」の秘密だ。「香料化学者」と自らを呼ぶ著者は、香りの不思議さと魅力を化学と物理の視点から探ってゆく。匂いが作られるまでの道のりは私たちが想像するよりずっと広大で、ずっと極小だ。そして秘密にみちている。