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〈NFT〉Web3の要素技術の短い紹介②――『Web3とは何か』by岡嶋裕史 prologue6

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NFTーー「同じものはいっぱいあるけど、これが本物」とする仕組み

利点や欠点もブロックチェーンに準ずる

NFTとは、ノンファンジブルトークンの略で、日本語で表現するときは非代替性トークンとすることが多い。

そもそもの話として、デジタルと唯一性は喰い合わせが悪い。デジタル技術は常に高い精度で、ゼロに近いコストで、データをコピーする技術を獲得してきたからである。

それが今のインターネットの活況につながっているし、コンテンツの二次利用はコンテンツそのものの活性化にも寄与している。でもいっぽうでそれで困っている人もいる。作曲家や演奏家、画家である。

当然のことだが、オリジナルの作品は大きな価値を持っている。その価値の源泉は、「唯一無二であること」に起因しているものが多い。贋作や劣化コピーが出回ってもオリジナルに値段がついていたのは、オリジナルが最も高品質でそこからしか得られない価値があったからだ。

ところが、デジタル技術によって映像や音楽が無劣化でコピーできるようになってしまった。コピーの精度が極端に高まったのである。しかもそれがタダで出回り、ものによってはオリジナルよりも先に、使い勝手のよい形で消費できる。

オリジナルとコピーが違わないのであれば、人は大事なお金をわざわざオリジナルに払わない。音楽業界や映像業界で円盤が売れずに頭を抱えているのは、ここに大きな原因がある。

古典的な考え方では、創作物の価値を維持して高値で取引するためには、オリジナルの唯一性を担保しなければならない。そこで、誰でもいかようにもコピーできてしまうデジタルデータに刻印を刻み、「同じものはいっぱいあるけど、これが本物」とやるのがNFTである。

誤解したくないのは、この種の技術は昔からあることだ。いろいろなバリエーションもある。NFTは刻印技術にブロックチェーンを使った点に新規性がある。だから、利点や欠点もブロックチェーンに準ずると考えていい。

NFTとアート

いまNFTが最も使われているのはアート分野だ。金融の、しかも特定部分でしかいまいち使いどころがなかったブロックチェーンが他分野で活用できる事例で、だからこそ期待され、もてはやされている。ブロックチェーンの人たちはそうした事例こそが欲しかったのである。

でも、その分野用に設計されていないシステムを他分野に転用するのはけっこうなリスクがともなう。受け入れる側がそのギャップを理解して、差分を埋めるようなしくみを作れるならいい。でも、アート分野は必ずしもITと親和性が高いとは言えない。

ではなぜNFTが表舞台で視線を注がれているかといえば、「最初にそこに到達した者は儲けられる」という、いつものやつである。多くのフォロワーが参入すれば、その空間のリソース(たとえばビットコイン)に対して需要過多となり、すでにビットコインを握っていた者に巨利をもたらす。

いっぽうで、後から参入した者は初期の値とは比較できないほどの高値でリソースを購入する。市場が過熱する段階によっては、まだ値が吊り上がるかもしれないが、初期メンバーが売り抜けると一気に暴落することもある。

他にも懸念点はある。

NFTはそんなに民主的だろうか? アーティストがみんなプログラミング言語を駆使してスマートコントラクトを書き、自分の言い値で売りたい時期に作品をさばいているだろうか? アート市場でアーティストは主体的に、主役として振る舞う権利を手に入れただろうか。

ほとんどのアーティストはそうではないだろう。技術的な知見はなく(アーティストのせいではない。そんな知見を磨く暇があれば、作品を作るべきだ)、そうした箇所は取引所にまかせる。取引所の力は大きい。今までの画商とアーティストの関係と差異があるかは疑問である。

取引所の不正防止には効力がない

後で詳しく述べるが、ブロックチェーンはブロックチェーンで流通するデータの透明性は担保するが、取引所の不正防止にはなんら効力がない。ブロックチェーンが山手線、取引所が駅だったとして、山手線内で不正や暴力が行われていないことは相互監視によって保証されますといっても、駅で誰かがぶん殴られているかもしれない。

その解決策が、「取引所に第三者の監視を入れます」ならば、今まで企業が作り上げてきた既存システムと同じである。処理速度が遅く、電力も余計に喰うブロックチェーンを本当に使う意味があるだろうか。

NFTの場合、作品にハンコが押されていることを証明してくれる。印影がいじられていないこともわかる。でも、そのハンコが他人の三文判であるかどうかは頓着しない。ハンコは本物だけれども、それが押されている作品自体がダ・ヴィンチのパクリかどうかは判定しない。そこは取引所次第である。

同じ作品をブロックチェーンA、ブロックチェーンBで売ったり、ブロックチェーンと並行して手渡しの即売会で売ることだってできる。「あれ? 二重売りしてるのでは?」とは、ブロックチェーンは思ってくれない。この場合、デジタルデータなので、二重売りされている作品は完全に同一で、事後的にどっちが真物でどっちが贋作と判別することすら不可能だ。同じなのだから。

別の例をあげて説明してみる。

ビットコインだと、系の中にお金が閉じ込められているのだ。それはさながら子どものころに見たアクリルのアリの巣観察キットのようだ。透明になっているので、巣の中でアリがどう動いたのか、何を運んだのか、全体を把握することができる。

そのアリの巣から松葉と粘土を20gほど持ち出して、先生に渡したとする。先生はある日言う、「10gしか受け取っていないぞ」。

アクリルケースの中の世界がどれだけ透明で、どれだけトレーサブルでも、そこから持ち出した瞬間に世界は不透明になる。先生が10gなくしたのかもしれないし、自分が落っことしたのかもしれない。第三者が食べた可能性だってあるだろう。だから、ビットコインのブロックチェーンがどれだけ安全ですよと言われても、そこと外界を行き来する場所である取引所では事故が起こる。

NFTの場合はさらにやっかいだ。ビットコインはアクリルケースのなかで真物であった。間違いない。でも、NFTだと売りたいデータは外部にある(ブロックチェーンの中に埋め込む方法もあるが、とても制限がきつい。後述する)。アクリルケースの中にあるのは、そのデータ(絵画とか音楽とか)と1対1で紐付いたチケット(NFT用語ではトークン)だ。

アクリルケースの中でそのチケットを偽造するのがどれだけ困難でも、唯一性を担保できても、同じ作品AをアクリルケースBでもアクリルケースCでも売っているかもしれない。他人の作品を売った事例すらある。

そんなのは出品するときにチェックすればいいと思われるかもしれないが、アート作品をはじめとするコンテンツの類似性・真正性チェックは本当に難しい。それなりの身体検査をしたはずのオリンピックのロゴでパクリ騒動が持ち上がったのは記憶に新しい。

NFTが証明してくれるのは、持ち込まれた作品に対して発行したチケットが、ちゃんと作品と1対1に対応していることと、改ざんされないことである。そもそもの作品の真贋や市場的価値を裏書きしてくれるものではない。

日本の法律ではデジタルデータに所有権はつかない

こうした懸念をことごとく回避できたとしても、そもそもNFTは何を売買しているのかが不分明である。

よく、「デジタルデータの所有権」と説明されるが、日本の法律ではデジタルデータに所有権はつかない。有体物だけである。所有権がないのであれば、ぼくらは何を買っているのだろう。同じデータはネット上でいくらでも見つけて、ダウンロードすることができるのに。

NFTではトークンという用語を使うが、まさに売買したり、独占したりしているのはトークンなのである。トークンとはチケットのようなものだ。新幹線のチケットを持っていることは、新幹線を所有していることとイコールではない。

アート作品の場合はそこをイコールとして売買しているわけだが、おおもとの発想がチケットであるから「他人の作品でチケットを作って売ってしまおう」、「チケットを買って独占したつもりだったけど、買ったはずの作品は相変わらず多くの人が好きに鑑賞している」という事態が起こるのである。

また、アーティストは自分が主体となって作品売買を行いたかったのではなかっただろうか。

たとえば、通常の美術市場ではポリコレとコンプライアンスの制限によって売れない作品を、自己責任で世界に向けて発信してみたい、というならば、その是非はともかくとして、しくみがブロックチェーンであることは意味があるだろう。

でも、現時点で取引所がそのような作品の売買を許すことはないだろう。世の中でインフラになるとは、そういうことである。自己責任で誰でも何でもできる、がブロックチェーンの最大の利点だと思う。でも社会インフラになればそれは許されない。必ず監視と介入が発生する。

この監視と介入がまともに機能するのであれば、そのシステムの根本部分がブロックチェーンでなくてもいいのではないか? あるいは監視と介入によって、「できない送金」や「売れない作品」が出てくるのであれば、やはりそのしくみはブロックチェーンでなくていいのではないだろうか?

他にも「転売益を得ることができる」といった例が、NFTを使う利点としてよく出てくる。

たとえば私は本を書くが、著者に印税が入るのは最初に本が印刷された(契約によっては売れた)瞬間だけである。それが紙の本だったとして、読んでくれた人が古本屋に持ち込み、別の人がそれを購入したとしても著者に収入はない。

本を書く人や絵を描く人の中には、ここからも収益を得たいと望む人がいたが、これまでの商習慣や、何よりもしくみの不全によって実現することは難しかった。

ブロックチェーンで商品のライフサイクルを管理していくなら、たとえば古書店での転売からもロイヤリティが得られる可能性は出てくる。ただし、あくまで「システム的には可能です」というだけで古書店やその利用者が応じてくれるかどうかは別の話である。

ブロックチェーンのしくみの外で売買されれば、それはブロックチェーンからは監視できない。監視して確実にロイヤリティを得たければ別のしくみが必要で、そうした取り立て方法なら以前からあった。あったのに使われていないのはプロフィットよりコストのほうが大きいからだ。

社会インフラとブロックチェーンは相性が悪い

私は社会インフラとブロックチェーンは相性が悪いのではないかと考えている。ブロックチェーンが有効な場面は、社会のしくみそのものが信用できないような荒廃地などに限局される。

ビットコインだってこの点は怪しいのだ。国際送金はきちんと整備されたしくみがある。ただ、そのしくみは大企業向けで個人の小口送金には向いておらず、手数料も高かった。そのニッチに入り込んだのだ。それでも、当初想定されたその用途に使っている人は稀で、人気に当て込んだ投機対象として扱われていることはみんなが知っている。

特に荒れているわけでもない地域や国家で社会のインフラになるためには、前述したようにどこかで責任主体による監視と介入が生じる。それがブロックチェーンのそもそもの発想と食い違う。

いや、その「監視と介入」をみんなでやるんだ、権力や大企業などに介在させないんだ、といってもそれは画餅だろう。そのモデルではすべてが自己責任になる。自分のお金を間違った相手に送金したときに、銀行のシステムであれば組み戻してもらうことができる。でも、ブロックチェーンでは取り戻すことはできない。一元管理を行う主体がないのだから、構造的にそうなる。

銀行の預金通帳を失くすことは致命傷ではないが、ブロックチェーンの秘密鍵を紛失したらそのシステムで何億、何十億の権利を持っていても一瞬でパアである。政府に監視されない自由は手に入れたけれど、そこは自己責任の荒野である。自由と聞くとつい無条件でいいものだと思うし、飛びついてもしまうが、責任がセットであることは失念しがちだ。

ほとんどの人はそんな荒野を望んでいないし、そこで生き抜く自信もないので監視と管理と救済措置が欲しくなる。その時点でブロックチェーンでなくていい。

この種の誤解はけっこう起こるのだろうと思う。

以前に勢い込んで研究室にやってきた学生さんがいた。

「どうして大学の事務システムはブロックチェーン化していないのですか。怠慢ではないですか」
「たぶん必要がないからです」
「ブロックチェーンというのは新しい、すごい技術で、これを使えばデータの改ざんなどを防ぐことができるんですよ。成績証明書の発行などに最適だと思います」
「ビットコインのように不特定多数の人が参加するしくみならともかく、もしその運営を事務がやるならブロックチェーン内での改ざんも可能だと思いますよ」
「事務じゃなくて、みんなで運営するんです」
「けっこうめんどうですよ。仮想通貨なら、『お金になる』ってインセンティブがありますけど、事務システムの運営にそんなに協力してくれるかなあ。仮にそこがクリアできても、本気で事務が成績の改ざんをしようと考えるならブロックチェーンにデータを投入する前の段階で改ざんするでしょうから、あんまり意味がないかもですよ」
「……ブロックチェーンなら、最初に発行した日付や人を記録したりできて、しかもそれを書き換えたりできないそうです」
「それって、デジタル証明書とかでブロックチェーン以前から使われているので、時間とお金をかけてブロックチェーンに切り替える動機としては弱いかも」

概ね、こんなやり取りがあったのである。

学生さんにしてみれば、「なんて頭の固い年寄りだろう」と思っただろうし、私自身も「へーっ、大学の事務システムをブロックチェーンで。面白そうだな」と思ったし、できれば学生さん発案のシステムを実現して自信を持ってもらいたかったのだが、それはあくまで実験や楽しみの範囲であって、本番の事務システムをブロックチェーンで再構築するほどの理由は見つけられなかった。

草の根ネットワークとして定着すれば、大学がつぶれた後もブロックチェーンが存在し続け、卒業証明書を発行し続けてくれる可能性はあるが、どちらかと言えば大学よりも先に草の根ネットワークのほうがなくなると思う。

ブロックチェーンやNFTでできることと、ブロックチェーンやNFTでなければできないことが、かなり混同して広まっている。

インフラを握る者に富は集中する

どんなしくみでも、インフラを握る者に富は集中する。インフラという言い方が衒学的であれば、土管や胴元でいい。

彼らだけが得をする世界から脱却したくて、彼らがいなくても回る世界を作りたくてWebやブロックチェーンをひねり出すわけだが、Webのしくみ(HTTP、HTML、URIなど)を完璧に理解してWebサイトを構築する一般利用者はごく少数にとどまった。ほとんどの人はそうした器を用意してくれる事業者のもとへ集まり、そこに文章や写真をアップした。

個人でも情報発信ができるようになったと褒めそやされたが、情報発信の見返りは精神的なものばかりで、それによって生じるアクセスの集中やそこから導き出される広告益はインフラを提供した事業者が総取りした。

全体の構図を見れば、「個人が情報発信権を得た」ことよりも、「本来、文章や写真といったコンテンツは事業者が対価を払って用意し、アクセスを集めていたが、それを一般利用者がただでやってくれるようになった」インパクトのほうが大きいだろう。胴元はもうかったのである。

Web3でも、ブロックチェーンのネットワークに直接参加できる利用者は限定されるだろう。世界に住むすべての人が理想の実現に燃え、自分のリソースを供出し、意識高くブロックチェーンの運営にコミットし続ければ、権力や大企業を排した社会システムを構築できるかもしれない。

でも、ほとんどの利用者はめんどうなことはしない。めんどうな部分を代わりに行ってくれる取引所などの事業者を媒介してアクセスすることになる。事業者は利用者が自分を頼るのであれば、その収益を最大化する行動を取る。Web3やブロックチェーンのもともとの理念とは違う方向へ、事態は転がるだろう。事業者としては、理念につきあって収益を減らす理由はない。

ブロックチェーンに個人として参加するのではなくこれら事業者を介し、たとえば秘密鍵を自己責任で運用するのが怖くて預けてサービスを利用するのであれば、情報の自己コンロトール権も、単一障害点のない常に稼働し続けるネットワークも、相互監視による高いセキュリティも、砂上の楼閣めいた話になってくる。(続く)

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