全ての人が公平に認められる社会とは、成功者を崇めない社会―僕という心理実験22 妹尾武治
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第2章 日本社会と決定論⑭―成功者を崇めない社会
人間には優劣がない。犯罪者も成功者も一流アスリートも引きこもりもLGBTQも身体障害者も天才も学者もホームレスも、全ての人間は等しく価値があり、努力できるかどうかもただの運であり、事前に決まっていたことなのだ。
メディアに登場する人物は、一面だけを提示された虚像だ。誰も尊敬してはいけない。同時に誰も蔑んではいけない。長嶋茂雄も長嶋一茂も、侮蔑も尊敬もしてはいけない。それぞれのタイムライン。それがそのままあれば良い。
そもそも、生涯浮気を一度もしなかった男性の愛情が、多目的トイレで1万円を渡す愛情よりも本当に強く美しいものであるのか?については、我々は知る術がない。表出された行動は、心と相関する可能性はあったとしても、その主観の強さは、本人以外に知る術がないのだ。
であれば表出された行動をベースに人を批判したり擁護したりすることは、とても的外れである可能性さえある。そしてこれこそが、人間の尊厳である「孤独」だ。(もちろん、それでも我々は実社会の構成員として適切に妥協して共生せねばならないのはわかっている)。
全ての人が公平に認められる社会とは、成功者を崇めない社会のことであり、犯罪者に寄り添い出来るだけ事前に治療を提供する社会のことだと思う。それでもマジョリティは、この意見を「狂人の戯言」として一笑に伏すかもしれない。今はそれで良いと思っている。
笑いの教科書
1982年の年の瀬、『ザ・テレビ演芸』において、横山やすしがダウンタウン(正確にはこの時はまだ“ライト兄弟”だった)の漫才を「そんなもん漫才やない! チンピラの立ち話やないか!」と評したことはあまりにも有名である。やすしは、自身のスタイルで笑いを極めた、圧倒的な天才であった。
自分の分野に真摯であるからこそ、新しいものを安易に高く評価する訳にはいかなかったのだろう。新しいものは、正しいものばかりではない。いや、むしろほとんどは間違いであり正しくない。だから、真摯な求道者であるほど、それをまずは否定してみることこそが正しい仕事となる。
それでも時代は進み「チンピラの立ち話」は「笑いの教科書」になった。
1985年、立川談志は横山やすしにTV番組で面と向かって、やすし(の笑いへの態度)を「稚拙」だと評した。邪推だが、これは当時既に私生活が荒れていた、天才漫才師に対する談志なりの叱咤だと思う。
1996年1月21日。過度な飲酒と不摂生から、慢性の肝硬変で横山やすしが死去した。その晩、ダウンタウンはコント「やすしくん」で笑いを取っていた。その数日後、北野ファンクラブ第218回で、ビートたけしは「私生活の破天荒は演技であって欲しかった。やすしは私生活の演技が出来なかった。その分で天才という言葉が足りない。」と彼を評した。そして「やすしくん」の意図、“ルール”を汲めない世間に対してごく軽く苦言も呈している。
彼らは、思いを繋げようとした“芸人”だった。
松本人志は笑福亭鶴瓶最強説を唱えた。それは、人を楽しませられるなら「低く見られることさえうれしく感じる」という人の大きさのことであり、変なおじさんの精神だ。それは今も、名前を間違われて怒る芸などにきちんと受け継がれている。
世界には(千葉に限らず)白もあれば黒もある。表もあれば裏もある。理解者も必ず同時代にいる。時代はまだ心理学的決定論を受け入れられる段階まで来ていない。今はまだ「狂人の戯言」で構わない。それでも人間は繰り返し屍を越えていき、やがてそれは教科書になる。
因果関係
間違えた者が、正しく反省した場合、誰よりも人に対して教えるべきことを持っているはずだ。なぜなら、人の業の哀しみ・辛さを知っているから。
“過ち”を犯さねばならないほど、心に穴を開けた原因はなんだったろう。結果があれば原因がある。ResponseにはStimulusが必要だ。世界に現れた事象から、その原因を探し高い精度で因果関係を推定する作業。それが科学と呼ばれるものだ。
バナナを食べても、エネルギーとしてそれは世界に残る。そのエネルギーは、例えば発話に変換され、他者に影響をもたらす。存在として有ったバナナは無になったが、無くなったわけではない。それは、昼間にも月と星が出ている事実と同じだ。誰かに傷つけられた心は、誰か別の人を傷つけようとしてしまう。この世界からは、何も消えない。
あいつは異常と、線引きし分断せずに、自分も心の穴を埋めるために、他者の心を消費したことを思い出して欲しい。
人を愛せない愚か者にさえ、「あなたが大事です」と心から言ってくれる人が現れる。その時、彩やかな笑顔を向けられる自分でいられるように。(続く)