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3:そしてロンドンには、モッド・ポップと「牛肉心」が……——『教養としてのパンク・ロック』第24回 by 川崎大助

『教養としてのロック名盤100』『教養としてのロック名曲100』(いずれも光文社新書)でおなじみの川崎大助さんの新連載が始まります。タイトルは「教養としてのパンク・ロック」。いろんな意味で、物議を醸すことは間違いありません。ただ、本連載を最後まで読んでいただければ、ご納得いただけるはずです。

過去の連載はこちら。

第3章:パンク・ロックの「ルーツ」と「レシピ」とは?

3:そしてロンドンには、モッド・ポップと「牛肉心」が……

セックス・ピストルズの「素材やレシピ」

 では、ロンドン・パンクのトップランナー、セックス・ピストルズの「素材やレシピ」とは、基礎的な音楽アイデアとは、いかなるものだったのか?  すでに書いたとおり、ストゥージズらアメリカのガレージ・バンドからの影響がある。ほかにアメリカ方面からは、「プロトパンク」バンドの雄、ニューヨーク・ドールズからの影響もある。とくにギタリストであるジョニー・サンダースからの影響を、スティーヴ・ジョーンズのなかに見ることは容易だ。ラモーンズからの影響は、音楽的にはたぶん、ほとんどない――というのがピストルズ・サイドの言い分なのだが、一方のラモーンズ側では、そうではない。

 ラモーンズの側には、じつは、鬱屈があった。サード・アルバム『ロケット・トゥ・ロシア』(77年11月発表)のレコーディング時、ギタリストのジョニー・ラモーンが、ピストルズの「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」のギター・サウンドを聴いて「俺のパクリだ!」と激怒した(シングル盤をスタジオにまで持ってきて非難した)という。そしてジョニーは、アルバム全体の音作りを「ピストルズよりもずっとシャープにする」ことをエンジニアのエド・スタジアムに強く要請したそうだ。

 さらにのちに……ずーっとのちの、なんと2019年にまで、この鬱屈の余波はあった。とあるイベントの壇上で「ラモーンズ対ピストルズ」の遺恨対決が勃発しかけた(?)のだ。米ケーブルTV局エピックスにて、イギー・ポップが製作総指揮をつとめるドキュメンタリー・シリーズ『PUNK』のためのパネル・セッションがLAでおこなわれたのだが、その場でジョン・ライドンとマーキー・ラモーンが衝突して、ののしり合ったのだ。まあアメリカン・プロレス的な、エンターテイメント調の「やり合い」とも言えるものだったのだが……しかしそれでも、双方の文言のなかには少なからぬ「本音」が混じっていたと見るべき内容ではあった。「あの当時から」抱え続けていた心中のもやもや、その幾許かは開陳された一幕だった、というか。公開されている映像から、その模様を描写してみよう。

「ピストルズなんて安いパクリ野郎どもだ」

 口火を切ったのはライドンだった。ラモーンズのレガシーについて語るマーキーを嘲笑し、「お前なんかオリジナル・メンバーでもないくせに!」とかます(マーキーは二代目ドラマーだった)。これに対してのマーキーの返しが振るっていて「でも俺はリチャード・ヘルと『ブランク・ジェネレーション』作ってんだよ。お前らみんな、リチャード・ヘルのイメージをパクってたよな。結局それだけなんだよ、お前らがやったことって」――と、つまり一気に話題は、およそ40年以上前の「当時のムカツキ」へと移行。じつはこれがマーキーの胸中にくすぶり続けていたのは有名な話で、彼いわく「ピストルズなんて安いパクリ野郎どもだ。たんにリチャード・ヘルの真似なのに、パンクの元祖としてメディアに売り込めただけ。ヘアカラーを買えたから」という常日頃の主張を、ついに本人に、公衆の面前でぶちかましてやった――という瞬間だった、のかもしれない。このときマーキーの胸中には、天上にいるほかのラモーン兄弟たちに「見てるかこの俺を!」といったような高揚はあったのか、なかったのか。しかしもちろん、すぐに激しく逆襲したライドンが場をさらう。「そんでシド・ヴィシャスがスターだったよなあ」とあざけるように言うマーキーの言葉尻を取ったライドンは、「ああそうだ。奴はスターだったよ、お前らみたいなアホタレのニセモノくそ野郎のな。お前もドラッグ楽しんでハッピーに死にやがれ」とカウンター。そして――ここからが、やけに本音がにじんだライドン節だったのだが――続けて彼はこう力説したのだった。「俺にとって、パンクとはポジティヴなものだった。音楽で人生を変えられるということを、俺らは明確に証明したんだ。俺らが言ったこと、政治システムへの攻撃がそれだ。なのにこの馬鹿野郎は、ドラッグに夢中ときてやがる」。さらには「自分を見てみろよ? できそこないのヘヴィメタ野郎みたいじゃないか」とマーキーを口撃した。

 とまあ、老いてもなお盛んなライドン節だった。加えて彼は、このとき初対面だったヘンリー・ロリンズ(ハードコア・バンド、ブラック・フラッグの元ヴォーカリスト)にもイヤミを飛ばしていた。そんなことがあった。

 2022年に公開された、彼らの成り立ちと終焉までを描いた配信ドラマ『Pistol(邦題は『セックス・ピストルズ』)』にも面白いシーンがあった。メンバーが集まって演奏しつつ「アナーキー・イン・ザ・UK」をまとめていこうとする。最初は「ラモーンズみたいに」早いテンポでやってみるのだが、これが全然ダメ。そこでテンポ・ダウンして「リズムをレゲエに!」との発想でやってみたところ、「あの必殺の」イントロダクションが生まれたのだ……という描写だった。まあかなり創作は入っているのだろうけれども、「ピストルズらしい」逸話ではないかと僕は感じた。

モッド・ポップなどからの影響(パクリ?)

 ところで前述の「屈折」理論にのっとって言うと、セックス・ピストルズの場合、やはりイギリス人であるだけに、ラモーンズたちとはまた違った「排除と吸収」の構造があった。まず、60年代の音楽からの影響は大きいのだが、「かなり狭くセグメントされた」系統からのみ、養分を吸収したような傾向が強い。つまりビートルズやストーンズではなく、「まずはモッド・ポップ」というような点だ。言うなればここが「より込み入って」いて、ラモーンズよりもこじれていた。さらにこの偏食のせいで、米ガレージ・バンドのネタとしての優先度が低下。だから「一重屈折(第一次ブリティッシュ・インヴェイジョン組)からの直接摂取」が意外に多く、つまりこの場合はピストルズの時点でようやく二重屈折。ゆえに二重と三重の、言うなれば「屈折の重層構造」が顕著だった点が、彼らの巨大な爆発力へとつながっていったのかもしれない。

  モッズとは、元来は音楽ジャンルを指すものではない。日本語にするなら「モッド族」となるだろう、50年代に誕生した、特定の若者風俗を指した用語だ。映画『さらば青春の光』(79年・原題『Quadrophenia』)にて描かれているとおり、まずはロンドンにて、60年代前半に最高潮を迎えた。アメリカの黒人由来の音楽、モダン・ジャズやR&B、ジャマイカ産のロックスティディやスカを好み、男性ならば、イタリア産の生地を使ったタイトなテイラード・スーツの上に米軍放出品の大きなパーカ(M-51)を着て、改造したヴェスパなどのスクーターを駆って街をゆく――そんなライフスタイルの「族」を指す。

 といった流行に、当時「乗っかった」イギリスのバンドが作った音楽が「モッド・ポップ」と後年呼ばれることになった。たとえばそれは(1)モッズが好む音楽である、アメリカ製のR&Bなどをカヴァーしたり、模倣したもの。(2)そこから発展させて、よりロック色の強いポップ・ソングを創作したもの――といった具合だった。

 そんなモッド・ポップの数々から、ピストルズはこんな曲をカヴァーしては「練習」していた。スモール・フェイセズ「オール・オア・ナッシング」「マイ・マインズ・アイ」、クリエイション「スルー・マイ・アイズ」、そしてザ・フーの「サブスティチュート」は、ライヴでもよく演奏されていた。意外なのがR&B色の強い、60sロック・アイドル、デイヴ・ベリーの「ドント・ギヴ・ミー・ノー・リップ・チャイルド」もカヴァーされていた点だ。ただしそこはピストルズなので、決してR&Bそのままではなく、なぜか突如くずれレゲエ調のリズムにロットンが吠える、というしつらえとなっていたのだが。

 こうしたカヴァーの方向性について、スティーヴ・ジョーンズは、前述のドラマ『Pistol』の原作にもなった自伝のなかで、こんなふうに述べている。

「よく言われることなのだが、オレたちがどんなバンドになろうかと考えていたときに演奏したカバーの多くが――「ノー・ファン(No Fun)」、「ドント・ギブ・ミー・ノー・リップ、チャイルド(Don't Give Me No Lip, Child)」、「(アイム・ノット)ユア・ステッピング・ストーン((I'm Not) Your Stepping Stone)」だったが――タイトルにはすべて「No」が入っていた」

「またロットンの態度によるところが大きかった。少しでもポジティブなものや幸せや愛や感謝に関するものは、ヤツは吐き気を及ぼしていた。あのマンコ野郎は「オブリガード(ありがとう)」の言葉の意味がまったくわかっちゃいねえ」(ママ)

スティーヴ・ジョーンズ『ロンリー・ボーイ ア・セックス・ピストル・ストーリー』川田倫代・訳/イースト・プレス 2022年より

 だがジョーンズは、ロットンが歌のなかで嘲笑する姿について一定の評価を与えていた。「とくにデイヴ・ベリーのみたいな安っぽい曲に、ちょっとした刺激を加えたわけだ」と(ジョーンズは原曲が大嫌いだったそうだ)。もちろんライドンも嫌っていた。というか彼は、モッド・ポップ全般に冷ややかな態度をとっていた。それらを選曲したのはおもにベースのグレン・マトロックだったという。ライドンはつねに「スモール・フェイセズのカヴァーなんか、やる気はない」と述べていて、同じ60年代バンドなら、彼はザ・プリティ・シングス推しという渋い選択だった(「教養」の人だったので)。

 ちなみにマトロックいわく「アナーキー・イン・ザ・UK」のベースラインは、フェイセズの「ハッド・ミー・ア・リアル・グッド・タイム」からのイタダキなのだという(「誰も気づいてないみたいなんだけど」との前置き付きで告白)。

 こうしたオマージュを超えたイタダキ、あるいは「パクリ」もパンクには付きもので、最もあからさまにして悪辣な事件をキメたのも、もちろんピストルズだった。主犯は「盗みのプロ」でもあるスティーヴ・ジョーンズで、被害者はザ・ジャムだった。作曲当時は18歳だったポール・ウェラーが生み出したジャムの記念すべきデビュー曲「イン・ザ・シティ」(77年4月発表)のギター・リフ、のっけから(オープニングのイントロダクションから)ぶちかまされるあの印象的なフレーズが「そのまんま、まるごと」パクられた。それがピストルズ「ホリデイズ・イン・ザ・サン」のイントロにて盛大に鳴り響いている、あれだ。77年10月発表のシングル曲であり、彼ら唯一のアルバムのオープニング・ナンバーともなったあの曲は「おもにパクリ」から生み出されたものだった。

 だから当然モメた。伝説となっているのが「スピークイージーの対決」と呼ぶべき一件。ある夜、ロンドンにあるナイトスポット、ザ・スピークイージー・クラブにて、ポール・ウェラーとシド・ヴィシャスがばったり顔を合わせる。そこでヴィシャスは、おそらくはウェラーをからかいたかったのだろう。自ら近づいていっては「お前らの曲をパクってやったぞ」てなことを言う。そしていきなりウェラーに頭突き攻撃。応戦したウェラーがヴィシャスをひっぱたく――という、どうしようもない一幕があって、2人は店を追い出されてしまったそうだ。小競り合いそのものはどうやらウェラーが制したようだが、勝敗という点ではよくわからない(ウェラーいわく「どっちが勝ったかはわからない。やられたから、やり返した。あっちが始めて、俺が終わらせた」)。さらにウェラーが言うには、この喧嘩のせいでヴィシャスは病院送りになったという(が、信憑性は謎。マトロックもこれを言いふらしているのだが)。

「ピンク・フロイド嫌い」の真実 

 話を戻して、そのほかのライドンの趣味というか、「教養」についても見ていこう。彼はパンクのすこし前に大流行したグラム・ロックも好んでいて、T・レックスはもちろん、ゲイリー・グリッターも聴いていた(という点は、ホアキン・フェニックス版のジョーカーっぽいかもしれない)。そしてカン(とくに71年の『タゴ・マゴ』)やノイ!などのジャーマン・ロックも、好んでいた。ドイツ製のこれらの冷たい、破調の感じに僕は、PiLのアイデア原点および、ロットン~ライドン・スタイルのあの無双なる奇矯ヴォーカルの原点の一部をも見る。だからライドンの歌唱法には、『タゴ・マゴ』当時のカンに在籍していた異能の日本人ヴォーカリスト、ダモ鈴木の影響だって、あったのかもしれない。

 特筆すべきは、ライドンが「ポスト・ヒッピー・ロック」を好んでいた点だ。たとえばピーター・ハミルやニール・ヤングの名を挙げることもあり、マルコム・マクラーレンにとても嫌がられていた(彼はそれは「ピストルズらしくない」と考えていた)。そのほか個性的なレゲエ・アーティストのキース・ハドソンや、マイルス・デイヴィスの名作『ビッチェズ・ブリュー』(70年)も好んでいた。

 そして、ピンク・フロイドだ。なにしろプログレは、なかでもピンク・フロイドはパンクスの「敵」だということになっていた……のだが、その因縁を「作ってしまった」人がジョン・ライドンだったことは有名だ。だからそのエピソードおよび長い時間を経てからの顛末を、ここで書いておかねばならない。

 ことの起こりは、こうだ。1975年のある日、若きライドンはピンク・フロイドのTシャツを着てキングス・ロードを闊歩していた。ただし、そのTシャツの「PINK FLOYD」とプリントされた文字の上方には、手書きで「I HATE」と記されていて、Tシャツは切り裂かれていて……この若者の「原・パンク」的な佇まいに目を留めたバーニー・ローズ(のちに初期クラッシュのマネージャーとなる)が声をかける。そして若者はのちにセックス・ピストルズとなるバンドのオーディションを受けることになる――。

 というのが、長らくパンク・ロックの「正史」だった。そしてこの「俺はピンク・フロイドが嫌いだ」Tシャツはピストルズのバンド内で流行。スティーヴ・ジョーンズも着たし、ポール・クックの着用姿は「アナーキー・イン・ザ・UK」のMVで見てとれる……のだが、去る2010年、衝撃的なニュースが世界を駆け巡る。なんと「ジョン・ライドンは『本当はピンク・フロイドが嫌いじゃなかった』」というのだ!

 この特ダネをモノにしたのは、ウェブサイト「ザ・クワイータス(The Quietus)」。同サイトの編集者であるジョン・ドーランが、姉妹紙のザ・ストゥール・ピジョンのためにおこなったインタヴューの席で「事件」は起きた。その詳細を、2010年2月17日付でクワイータスが報じて、騒ぎの震源地となった。

 インタヴューの最中に、ライドンがポロリとこぼしたのだという。「『ザ・ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン(邦題『狂気』・73年、『名盤100』にランクイン)』は好きだった。でもシド・バレットがいた時代のほうが俺にはぴんとくる。いろんな音楽を聴きながら育ったんだよね」とのことで……じゃあなぜ「I HATE」なんて書いたのかというと、当時(70年代中期)のピンク・フロイドの仰々しさが嫌だったのだ、と。尊大そうな感じや、それを「ありがたがる」世間の風潮を彼は嫌っていた。だからあくまで、あのTシャツは(マルコム・マクラーレンではないが)表現の一手段だった。さらには、実際に会ってみたらピンク・フロイドのメンバーは全然偉そうじゃなくて、いい人たちだった、ともライドンは言う。そして彼はこのインタヴューの2年前の08年、ピンク・フロイドのロサンゼルス・ライヴにて「ステージで共演しないか?」と持ちかけられていた、のだそうだ。いっしょに「ザ・ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン」をやらないか? もちろんライドンが歌って、2万人の前で……という、その状況にライドンがひるんでしまったせいで実現はしなかったのだが、なおも彼は「スタジオなら、共演もよかったかな」などとぬけぬけ語っているのだった。

 と、そんなクワイータスの内容を英高級紙のザ・ガーディアンが引用して翌日に記事化して配信、そこから全世界に激震が走った。「いまさら、なにを言うのだ」と。とくに「パンク・ロックを知っている」人々のあいだに衝撃が……だがこれも、じつはライドンの「よくある」ちゃぶ台返しのひとつでしかなく(続きはのちほど)――。

アイドルはキャプテン・ビーフハート 

 気を取り直して、また話を戻そう。そもそもの「ライドンの音楽趣味」の話題だ。

 音楽的に、最大の驚きをもって迎えられるべきが、ライドンのアイドルがキャプテン・ビーフハートだったことだ。フランク・ザッパの親友であり、マジック・バンドを率いて活躍した、アンダーグラウンドなれど「破格の」芸術的ロック世界を構築したシンガー・ソングライターであり、そのほかいろいろの「アーティスト」が彼だ。米西海岸をベースに60年代後半から活動し始めた彼は、サイケデリック全盛期のシーンのなかで、デルタ・ブルースから地続きの太く濃いロックを、ジャズや即興的な前衛音楽、リズミカルなスポークン・ワードのあいだを言ったり来たりしながら、発信し続けた。

 そう「ブルース」を。とくにビーフハートの、太く塩辛いダミ声は、いかなる形であろうが、歌のなかにブルース由来の波打つ「激情」を叩き込むことにかけて天下一品だった。そして、歴史に残る一大アヴァン・ロック大作が69年のサード・アルバム『トラウト・マスク・レプリカ』だった(『名盤100』にランクイン)。

 というアーティストを好むライドンに「かけらほどの」ブルース魂もない、というこの一点を、僕はとても面白く思う。これこそが「パンク」ではないか、と。さらに興味深いのが、このビーフハートを、クラッシュのジョー・ストラマーも大変に好きだった、という事実だ。ライドンとストラマー、同じ時代に至近距離で活躍しながらも、初期の対バン以上の接点はほとんどなかった(86年の映画『シド&ナンシー』の音楽をストラマーが手がけたときには、ライドンがメディア上で彼を非難したが)この2人が、なんと「キャプテン・ビーフハート好き」という点でつながるのだから、世の中わからない。

「ビーフハートの傑作である『トラウト・マスク・レプリカ』はロックのあらゆる規則を破っていた。ひとつだけ破っていない例外があるが、それは聴き手を感動させるということだ。ぼくが『トラウト・マスク』の影響が聴きとれるということを口にしたら、ストラマーは物思いにふける様子で、「16歳のときに、そのレコードばかり聴いてたんだ――一年間ね」と言っていた。クラッシュはそのビーフハートの焼けつくようなヴォーカル、ギターの不協和音、メロディの逆転、リズムの葛藤から成る美学を取りこんで、断じて前衛とは思えないものにしてしまった。クラッシュの手になると、その美学が明確に直截にしゃべりだし、ロックがただもう何年も待っていた約束のようなサウンドになるのだ」

グリール・マーカス『ロックの「新しい波」 パンクからネオ・ダダまで』三井徹・編訳/晶文社・1984年

 たしかに、ときに「吠え盛るトドか、回転する電気ドリルか」と評されたストラマーのヴォーカル・スタイルには、ビーフハートの「塩辛道」からの継承が見え隠れしている。またライドンのトリックスター的な声色芸にも、ビーフハートの別の一面(なにかと「突拍子もない」ことが得意)がよくあらわれている、のかもしれない。

 ジョー・ストラマーは、1952年8月生まれだ。だから彼が16歳のときというと、68年から69年だ。『トラウト~』は69年6月にアメリカで、同11月にイギリスでリリースされた。だからこのころ、ストラマーはビーフハートを聴きまくっていたわけだ。

 対してライドンは、1956年生まれ。68年には、ティーンになる直前の12歳だった。だからもしかしたら、彼にとってはここらへんが「本格的にロックに目覚めた」時期だった可能性がある。プリティ・シングスの出世作『S.F.ソロウ』は68年発表で、カンのデビュー作『モンスター・ムーヴィー』は69年だったからだ。

最初の刷り込みの重要性

 三つ子の魂なんとやらじゃないが、どうやらポップ音楽の世界でも「最初の刷り込み」は、ことのほか重要であるようだ。すでに記したが、僕自身、我が身を振り返って、強くそう思うところもある。ライドンの幼馴染みであるジョン・グレイの発言によると、彼らは9歳のころからレコードを買い始めたのだという。これは65年ごろにあたり、つまりはザ・フーが最初に大ヒットを飛ばし始めた時期に符号する。だからもしかしたら、ライドンにとってのモッド・ポップとは「幼すぎるころに聴いて、卒業してしまったもの」だったのかもしれない。ビーフハートやジャーマン・ロックに、すでに耳が「上書き」されたあとの若者が75年当時の、つまりハタチ前後の彼だったのだから。

 目を転じて、ラモーンズの面々の生まれ年も点検しておこう。以下、年長者より順に――ギターのジョニー・ラモーンが48年生まれだから、たとえば彼の12歳時点というと、60年になる。トミーが49年生まれ、61年に12歳。ジョーイは51年生まれ、63年に12歳。ディーディーが一番年下で52年生まれ、64年に12歳だった。つまり彼らのデビュー時の「ふた昔以上前」の音楽趣味とは、これもまた「自分がポップ音楽を聴き始めたころ」の流行の再現という側面もあったのかもしれない。

 三つ子の魂の、最初の「刷り込み」をとてもとても大事にし続けていて、だからこそ「ひと昔(以上)前」の流行をいま現在に転生させてくることになる――そんなメカニズムが、パンク・ロッカーには顕著だった、のかもしれない。言うなれば、ひとり時間差リヴァイヴァルだ。「ガキのころ仰ぎ見ていた、あいつらみたいに」キメてみようとするような姿勢が、彼らの瞬発力の源となっていたのではないか。こうした「個人的理由」が動機のなかに色濃く内在していたところが、パンクをして「そのほかの」リヴァイヴァル・ムーヴメントとは、明らかに一味違うものにしていたのかもしれない。

【今週の7曲】

The Who - Substitute

ザ・フーの代表曲のひとつであるこのポップなナンバーを、セックス・ピストルズは好んでよくライヴ演奏した。労働者階級の若者のピュアな心情を歌った詞に、感情移入していたのかもしれない。

Dave Berry - Don't Gimme No Lip Child

極初期ピストルズ練習曲のひとつにして、いわくつきの(本文参照)モッドなR&Bナンバー。いかにこれをライドン(ロットン)がイヤミたっぷりにカヴァーしたかは……ググって確認してみてください。

Sex Pistols - Holidays In The Sun

これぞ「ヴィシャスとウェラーの対決」を生んでしまった1曲。というか「パクリすぎでしょう……」の有様はイントロを聴けばすぐわかる。しかしシングル・カットもされた、ピストルズ屈指の人気ナンバー(邦題「さらばベルリンの陽」)。

The Jam - In the City (Live)

そして「パクられてしまった」のがこのイントロ。ザ・ジャムのデビュー曲を当時のライヴ映像で。勢い全開、見たとおりの「短気の王」ポール・ウェラーはやはり喧嘩も上等だったことが、各種証言からも明らかに。

Can - Mushroom (1971) HQ

少年ライドンが愛重した『タゴ・マゴ』より1曲。これぞ西独「クラウト・ロック」の暁光。のちのPiLのサウンド・メイキングにかなり参照されたのでは、と思える質感のトラックの上で吠えるダモ鈴木! 

NEU! - Hero

75年のアルバム『ノイ!75』から。ベルリン時代のボウイと日本の一風堂を思わせるハンマー・ビートのトラックに、かなりロットン調のヴォーカル――というか、もちろんこれらの比喩は全部「逆」で、こっちが原点。そして後続組の大いなる「ネタ」になった――そんなジャーマン・ロック至宝バンドの1曲がこちら。

Captain Beefheart And His Magic Band - Veteran's Day Poppy

ライドンとジョー・ストラマーの2人が惚れ込んだ、「鬼才」キャプテン・ビーフハートが生んだ一世一代の怪盤『トラウト・マスク・レプリカ』より、ド爆裂系のクロージング・ナンバーを。破調のブルース、ドシャメシャの純情。

(次週に続く)

川崎大助(かわさきだいすけ)
1965年生まれ。作家。88年、音楽雑誌「ロッキング・オン」にてライター・デビュー。93年、インディー雑誌「米国音楽」を創刊。執筆のほか、編集やデザイン、DJ、レコード・プロデュースもおこなう。著書に長篇小説『東京フールズゴールド』(河出書房新社)、『日本のロック名盤ベスト100』(講談社現代新書)、『教養としてのロック名盤ベスト100』『教養としてのロック名盤ベスト100』(ともに光文社新書)、評伝『僕と魚のブルーズ ~評伝フィッシュマンズ』(イースト・プレス)、訳書に『フレディ・マーキュリー 写真のなかの人生 ~The Great Pretender』(光文社)がある。
Twitterは@dsk_kawasaki


 

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