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笑いとサルのマウンティング行為の関係―僕という心理実験27 妹尾武治

トップの写真:ビッグバン直後に誕生した最初の分子「水素化ヘリウムイオン」が発見された惑星状星雲NCG 7027 © Hubble/NASA/ESA/Judy Schmid

妹尾武治
作家。
1979年生まれ。千葉県出身、現在は福岡市在住。
2002年、東京大学文学部卒業。
こころについての作品に従事。
2021年3月『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。~心理学的決定論〜』を刊行。
他の著書に『おどろきの心理学』『売れる広告7つの法則』『漫画 人間とは何か? What is Man』(コラム執筆)など。

過去の連載はこちら。

第3章 愛について①――笑いと孤独

志村けんと北野武

志村けんが、生前のインタビューで「どうしてコント一筋でずっと笑いを続けられるのですか?」という質問に対して以下のように回答している。
 
ある母子家庭の親子から一通の手紙が届いた。「志村さんのコント番組の1時間が、1週間で1番の救いになっています。コント番組を見ていれば、少なくともその1時間は辛いことを忘れられ、そして次の1週間また頑張ろうと思えます。」
 
志村は真剣な顔でこの言葉にとても勇気づけられたと答えている。
 
彼は、明るさ・生きる活力を与えていることに自身の仕事のやりがいを感じていた。彼は街で人間観察を行うのが趣味だと答えており、人というものの理解に異常なほど執念を見せていた。平素寡黙であり、独身を貫いたことも決して偶然ではないだろう。
 
北野武が第54回ヴェネツィア国際映画祭にてグランプリを獲得した、映画『HANABI』。主人公の中年男性(北野武自身が演じている)は、病気で余命幾ばくもない妻(岸本加世子)と、途中会話らしい会話をほとんどしない。彼はパトカーを模した車を自作し、銀行強盗を行い金を用立てる。その金を使って、妻と旅行に出る。ラストシーンで、妻を射殺し自分も同じ拳銃で自殺する。妻は、最期の言葉で夫に「ありがとう。」と告げる。

英語字幕でそれは”Thank you for everything”と記載される。その「ありがとう」には全てが詰まっている。笑いを極めた人間が表現した「愛」とは、泣いている人にただ静かに寄り添うことだった。映画のコピーも “そのときに抱きとめてくれるひとがいますか” だった。
 
志村と北野には、この“寄り添う技術”があるからこそ50年もの間、日本の笑いの表看板に立っていたのだと思う。私たちは無自覚的にであっても、二人からのメッセージ「君のそばにいるつもりだ」と言う声を聞き続けてきたのだと思う。

不幸の意味

劇団ひとり監督の映画『浅草キッド』には、深見千三郎とビートたけしの師弟関係を描いた作品だ。人を笑わせる芸人が受け継いできた「温もり」が描かれている。それを継承し、尾藤武を演じ続けた彼が東京オリンピックで、日本を代表する“芸人”に選ばれたことは「必然」だったと思う。
 
萩本欽一は、人生で幸運と不運は同じ数起こると言う。だから「不運が起これば、しめしめと思うようにしている」という趣旨のことを繰り返し述べている。しめしめと思うのは、彼の理論で行けば不幸を積めば反動で幸運が起こるはずだからだ。私はその理論をこう解釈する。「不運を積めば人に寄り添う技術が向上し、それはやがて自分自身を幸福に導く。」

幸運と不運は結局のところ人間には左右出来ないものだ。それらは表裏であり、考え方次第で、ほぼ同義なのだろう。
 
失恋の経験が有れば、失恋した友人の気持ちに寄り添えるだろう。親を失った人は、親を失った友人の気持ちがわかるはずだ。もちろん、常に朗らかで一緒にいると元気をもらえる人はとても素敵だろう。だが、泣いている時に静かに隣に居てくれる人が必要な時も多いと思う。
 
「くよくよするな」と言われても無理な時が多い。何も言わず、静かにそばに居てくれる人がありがたい時がある。そして、それは誰よりも辛い気持ちを多く持っている人にこそ出来る仕事だ。笑いを提供したいなら、孤独に向き合わねばならない。深見、萩本、北野、志村、上島。皆「ひとり」を選んだ。(だが実際は、自分自身に孤独に追いやられたのだと思う。"Imperfect" なこの世界で“いつか見つける”と完璧を求め続け、わめきちらす。そういう自分が、これ以上人を傷つけないために孤独が選択された。だからこそ笑わせねばならないのだ。)
 
「ひどい目」にあって来た人は、その価値を信じて欲しい。辛い思いをしている最中に、寄り添う技術が向上している。「しめしめ。」とほくそ笑んだって良い。それがあなたに起こった(起こっている)不幸の意味だ。(心理学的決定論は、あなたに寄り添うためのものだ。いつか傷が癒えた時、あなたたちは必ずより強く、自分の青い意志で人生を選択し始めるはずだ。だから今はただ休めば良い。)

笑いとマウンティング行為

私は笑顔が苦手だ。他人が笑っていると自分を嘲笑しているように感じるためだ。電車に乗っていて女子高生たちが笑うと、醜い自分を嘲っているように感じてしまう。それが病気故であることはもちろん自覚している。誤解を含めて、幸せな笑顔の何十倍もの「自分へのあざけりの笑顔」を見てきた気がする。(『問わず語りの神田伯山』で、笑い屋の重藤くんがバチボコ嫌われているのも(という、ていなのも)、この辺りと関係があるのかもしれない。)
 
人は理解が難しいものをまずは笑って、下におこうとする。そうしないと身の危険があるためだろう。個性をまず笑う。その笑いをグッとこらえて、対象に対して「なんで?」と言う気持ちを持ち、じっと静かに見つめ質問する。
 
「なんで?」
 
反対に、会話中相手が笑っていないと不安に思うという人もいる。そんな人は、いわゆる「笑うべき場所」(話のオチ)で必ず義務的に笑う。これは女子高生に笑われることが怖いのと実は同義で、自分を常に下に置いて笑ってもらいたいのだ。相手に上を譲ろうとしているのに、その場所に行こうとしない相手が怖いのだろう。

インド出身のアメリカの神経科医・心理学・神経科学者で、カリフォルニア大学サンディエゴ校の神経科学研究所長の、ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドランは、笑いの源泉はサルのマウンティング行為と関連があるのではないかと仮説を述べている。

サルは不要な喧嘩を避けるため、頻繁に序列の確認(マウンティング行為)を行う。その際に、笑いに似た「ハッハッハ」という発声をしながら歯を見せるような行動をすることがある。これが笑いの起源ではないかと彼は考えている。つまり笑いの本質には他者を低く見たり、自分を低く見せたりすることと関連があるというのだ。

この仮説が正しいかどうかは、今後科学的な検証がもっと必要で、断言は禁物だ。しかし実際のところ、僕たちは誰でも、笑いの持つ表裏の魔に本能的に気が付いている。それがあるからこそ救われ、それがあるからこそ苦しむのだと。

笑いとは、地球上で一番苦しんでいる動物が発明したものである
フリードリヒ・ニーチェ

(続く)


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