川瀬和也×古田徹也の哲学夜話①|悩むことができるというのが道徳的な贈り物
こんにちは。光文社新書の永林です。川瀬和也著『ヘーゲル哲学に学ぶ 考え抜く力』の刊行記念対談イベントが、去る1月28日、本屋B&Bさんで開催されました。イベント冒頭、ヘーゲル研究者である著者の川瀬さんは「私がずっと研究を続けてきたヘーゲルは、とくに弁証法というキーワードが有名だと思います。その弁証法というものを、現在の社会人基礎力の1つにも数えられている『考え抜く力』と関連付けながら、考えてみようということにチャレンジしたのが、この本です」と語りました。
今回の対談のお相手は、著書多数の売れっ子哲学者でウィトゲンシュタインの研究者、古田徹也さんです。川瀬さんと古田さんとは旧知の仲。超多忙の古田さんにイベント登壇のお願いをすると、二つ返事でお引き受けくださいました。
古田さんは『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)を上梓したばかりで、今回のイベントは「W刊行記念」に。テーマは「未来を選びとるための哲学の話」です。新型コロナウイルスの感染状況が悪化し、直前にオンラインのみに変更となってしまったのが残念でしたが、あんまりにも!勉強になる内容だったため、一部を抜粋してnote記事に残しておくことに。それでは、お2人の深く、優しく、そして日々の生活に役立つ哲学トークをお楽しみください。
登壇者紹介
未来を選びとるための哲学の話 〈前編〉
ウィトゲンシュタイン流の思考は、実はヘーゲル的⁉
古田 一見すると、川瀬さんのご本と僕の本は、だいぶ隔たりがあって――川瀬さんの本がヘーゲル哲学について学んでいるのに対して、僕の本はこの辺りにある『いつもの言葉』について扱っていて、テーマとしては隔たりがありそうなんですけれど、今回、川瀬さんのご本を読んでみると、思いの外、共通性があるというのが驚きでした。今回はその驚きも含めながら、お話をしたいと思っています。
川瀬 私は、これまでの古田さんのお仕事を拝見してきて「繋がるところは見つけられるんじゃないか」とずっと思っておりました。私は今回の本の中で「弁証法」や「考え抜く」ということが、「どっちつかずの状態に耐える」と、そういったことに関わっていて、「簡単に選んでしまわずに、立ち止まって悩んだりすることが重要だ」ということを強調しました。「それがヘーゲル哲学の特徴とも言えるんじゃないか」と書いたのですが。
じつは、古田さんの本の中でも「言葉を選びとる」といったなかで「立ち止まる」という表現が出てきました。このあたりが、私のテーマと、古田さんが取り組まれているテーマとの繋がるところになるのかな、と。なので、私自身は、古田さんと非常に面白い話ができるんじゃないかと思い、この会を楽しみにしていました。
古田 今回の本で川瀬さんは「これがヘーゲル哲学の肝なんだ」というように、ヘーゲルの思考法をはっきりと打ち出されています。それを読んで「そうか、自分の哲学をやるときの進め方って、じつはヘーゲル的だったんだ!」と。それは、たいへんな驚きでした。ひいては、僕自身が多くの部分でバックボーンにしているウィトゲンシュタインの考える筋道というのも「思いの外、ヘーゲル的なんだ」という発見もあって。それは非常に面白かった。
古田 たとえば『ヘーゲル哲学に学ぶ 考え抜く力』の104ページで、ここでは「自然科学主義」と「独立主義」に関してですが……
古田 今回の話のテーマ、実質的にはこの「スッキリしない思考」の取り柄というか、「スッキリしない思考」の重要性というか、有用性というか、それを確かめるというのが、差し当たり大事なポイントになるのかな、と思うんです。スッキリしない、どっちつかずの道を行くっていうことの重要性ですよね。ほかのところも、川瀬さんのご本の紹介がてら拾ってみると、たとえば237ページですね……
古田 さらには261ページ……
古田 これは、はからずも今回の僕の本ともかなり噛み合っていると思っているんです。つまり、一般原則というのを立てて、そこからいわば天下り的に、問題をそこに当てはめて済ます、という姿勢を批判する点で共通している。言葉の問題でいうと、とりあえず常套句を使って済ます。あるいは、「とりあえず前例がこうだから」と、前例を踏襲して済ます。あるいはまた、基準を立てて、その杓子定規な基準で済ます。こうした姿勢に対する批判という共通性ですね。
たとえば、僕の本でカタカナ語とか交ぜ書きの問題を扱いましたが、「とりあえず交ぜ書きは全部やめる」とか「カタカナ語の使用は全部停止する」とか、あるいは、「ジェンダーバイアスを助長するような言葉はすべて控える」とか。そういう、その都度の問題の複雑さとか多面性を捨象して、なにか、一般原則を立ててそれで済ますような、そのこと自身の問題があるんじゃないかと論じました。その部分と重なるところがあると思いながら、川瀬さんのご本を読んでいました。
すぐに結論が出ない苦しみに耐えた人だけが、全く新たな発想を生み出すことができる
古田 どっちつかずを耐えるとか、両極端のいずれにも立たないで、スッキリしない思考というのを引き受けていくというのは、「これはキツい」という意見がありそうですよね。ご本のなかでも257ページに書かれてますよね。
古田 これと同じようなことを、ウィトゲンシュタインが言ってるんですよね。改めて詳しくは紹介しませんが、ウィトゲンシュタインが弟子のノーマン・マルコムに送った手紙では、まさに同じようなことを言って弟子を諭している。「その不快さに耐えて考え抜くことしかない」と。「なにか安易な一般原則に飛びついて、あるいは、安易な常套句に飛びついて、それで物事を単純化して済ませてはいけない」というようなことをね。
川瀬さんはさらに262ページでも書かれているんですが……
古田 まさにこれが、川瀬さんが今回のご本に込めた、ビジネスの力になる思考、ある種、核心の部分だと思うんですけど。それでお聞きしたいのが……、本当に苦しいだけなんだろうか、と(笑)。
確かに川瀬さんはそうおっしゃっているし、ウィトゲンシュタインも同じようなことを言っているんだけれど。同時になにかこう、こういう思考の面白み、みたいなものがあるんじゃなかろうか、とも思っていて。我々は「哲学は苦しい、苦しい」とよく言うんだけれど、なにか面白いときもあるような気がする。そのあたり、どうですか?
川瀬 はい、そうですね……、確かにこの本のなかでは「どっちつかずの状態や考えというのは苦しいことなんだけれど、そこに意味があるんだ」ということを、何度も繰り返して書いています。そうは言っても確かに、古田さんが言われるように面白いところもありますし、私は哲学を仕事にするぐらいですので、楽しいというと語弊があるかもしれませんが、哲学は興味深いとか、面白いなとずっと思うからこそ、仕事として続けられているというのはもちろんあるんですけれども。
ただ、教員になって授業をしたりとか、哲学について、哲学者以外の方と話したりする場面を経験するなかで「こういうことを本当に楽しいと思えるのは哲学者だけなのかな」と思うことが時折ありまして(苦笑)。私が少なくとも哲学がとても好きだったりとか、あるいはずっとこういう訓練を受けて、そういった思考法に慣れ親しんでいるので、楽しめているのかな、と思ったりもします。
悩むことができるというのが、道徳的な贈り物
川瀬 たとえば、哲学や、倫理学の入門の授業などで、まったく初めて哲学に触れる学生たち、200人近い学生に向けて授業をすることがあるんですけれども、もちろん「面白かった」と言ってくれる学生はいるんですが、毎年1〜2人は「こんなこと考えてなにになるんだ?」という学生もいて。
古田 あははは。
川瀬 それは別にその学生が斜に構えているわけではなくて。本当にちょっと怒っているようなコメントをくれる学生というのがいるんですよね。そういう意見に触れると、考え続けることってすごく苦しいし、すごく不安になる人というのが実際にいるんだなと。
古田 その不安というのはどういうものなんですかね? 哲学的思考のなにが、そういった不安や苛立ちを駆り立てるんでしょうか?
川瀬 それまで自分が「これが正しい」と信じてやってきた「指針」のようなものが揺さぶられるようなところがあるのかな、と想像しているんですけれど。どうしてもそういう点はあるのかな、と。でも、それが重要なことだと私は思っているので。
この本のメッセージもそうですけど「不安ならやらなくていいよ」とは思わない。ただ、もう少しその苛立ちといったものに、寄り添ってみたいなというふうには思います。これまで正しいと思ってきた、これに従ってやってきたらうまくできていた、当然正しいと思っていた、ということが「じつは違うんじゃないの?」と投げかける、哲学自体がそういう学問でもあるので。
そこで今回、とくに、ビジネスパーソン向けに構想した本なので、日ごろ、そういった思考法に慣れていない方が多く読まれるとすると、とくにそういったところに寄り添った書き方にしたいなと思いました。「それは苦しいんだ、苦しいんだけれど、それによって前に進める」といった書き方をした部分はあります。でも、古田さんもご本の最後のところで「これは贈り物なんだ」と書かれていますよね?
古田 ああ、「疑い」とか「迷い」とかが、ですね。
川瀬 そうです、「悩むことができるというのが道徳的な贈り物だと、作家のカール・クラウスは言っている」と。この言葉はすごくいいな、と思いました。単に「楽しいんだよ」ということでもないし、苦しいだけのことでもなくて。その苦しいなかに得られるものがあるというのが、それこそ「しっくりくる言葉」だなと思いながら、拝読しました。
古田 難しいですよね。でも、視点はよく分かる。つまり、哲学の入門時というのは、自分の土台が崩れるような、そういうある種の常識みたいなものを疑って、別の見方、多面的な見方に切り替えて、考えていくということをするわけですが。それを、わりと面白がって、初めから食いつくことができる、つまり哲学にハマりやすい人もいれば、それこそ不安に陥ったり、あるいは苛立ったり、「これをやってなんの意味があるんだ?」ってことを思う人もいて。むしろ、そういう人に届いて欲しい、という狙いが川瀬さんのご本にはあったということなんですね。
まったく余談ですが、ヘーゲルの研究をしている人って、ある種のホスピタリティというと変なんですが、「これは当然、面白いんですよ」という感じよりも、もっとこう丁寧に、「わかってもらおう」という姿勢でいる人が多い気がします。川瀬さんをはじめとして、とくに最近はそういう方が出てきたように思います。それは、ヘーゲルは放っておいても読まれる、という感じではなくなってきたということなんでしょうか?
川瀬 そうですね、確かにそれはあるような気がします。逆に昔のヘーゲルの研究者が書くものって、本当にヘーゲルがわかってる人にしかわからないような書き方をしていたりするので。でも、あの時代は皆がヘーゲルを読んでいたから、そういう書き方にもなるんだろうな、とも思います。一読しても、普通に読んだらわからないような、この本の中にも途中で引用しているものも出てきますけど、ほとんど暗号みたいだったりして(笑)。
それを、本腰入れて読もうという方は、なかなかいないのかなって思うので。そこは、もうちょっと噛み砕いてと言いますか、いま多くの皆さんが考えているような問題に少しでも近づけて、あるいは関連付けることができると、そこからスッと入っていけたりもするのかなと思ったりもします。
古田 確かに今回のご本、いくつか暗号解読のようなこともされていますね。引用も、たしかに、それだけ読むとまったく意味がわからない。これはそもそもなにを言っていて、勘所がどこにあるのかっていう、そういった暗号解読も川瀬さん、されていますよね。
◆後半記事👇 に続く
協力/本屋B&B
構成/仲本剛