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日本以上に「自画自賛」が好きなタイ人が考えている、自国の魅力(15回)

【お知らせ】本連載をまとめた書籍が発売されました!

本連載『「微笑みの国」タイの光と影』をベースにした書籍『だからタイはおもしろい』が2023年11月15日に発売されました。全32回の連載から大幅な加筆修正を施し、12の章にまとめられています。ぜひチェックしてみてください!

タイ在住20年のライター、高田胤臣がディープなタイ事情を綴る長期連載『「微笑みの国」タイの光と影』。
近年は「日本はスゴイ!」と自画自賛するテレビ番組や書籍が巷に溢れていますが、タイの方がそういうコンテンツは多いそう。その背景には、教育によって培われる強烈な愛国心があります。今回はタイ人の口癖のようなお国自慢の裏側を除くことで、タイ社会の機微に迫ります。

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微笑んでいないタイ人たちがタイの魅力を語るとき

当連載の最初の話に戻るが、タイ人はタイという国を誇りに思い、タイ人の優良な部分を堂々と外国人に語り、そしてそのひとつとして「タイは微笑の国」と信じている。これまでの連載の中でボク自身が直接見てきたタイ人やタイという国の一部を垣間見てくださった読者ならもうおわかりかと思うが、その微笑には、タイ人の性格のよさを表す意味合いはほとんどない。まったくないとはいわないが、基本的にはタイ人の処世術のひとつに過ぎない。

タイは人間関係が複雑でシビアだ。国王と下僕、富裕層同士の人間関係、金儲けへの貪欲さなど、単純に年齢や社会的地位の上下関係だけでなく、前後左右、全方向からの人間関係のがんじがらめだ。その中でいかに生き抜き、周りを出し抜いて優位に立つか。そういう環境だから、とりあえず「ワタシはアナタの敵ではありません」という意味合いを持って微笑んできた経緯がある。

警察署に交通違反の罰金を払いに来てこの笑顔。さすが微笑の国。

そもそも、「タイ人」とひと口にいっても、人種的にはタイ族(正確にはタイ・レック族)だけでなく、今や中華系も多いし、南部にはマレー系、北部の山岳には複数の少数山岳民族が暮らしているわけで、単一民族ではない。一般タイ人が「タイ人はいい人」というときは、こうした背景は特に複雑に考えず、全般的なタイ人を指す。たとえば華僑は今でこそ国籍取得は難しいが、1800年代から太平洋戦争の少しあとくらいまではタイ政府の同化政策によって、移民の国籍取得が今ほど難しくなかった。1970年代にタイに来た日本人でさえも国籍取得はそれほど難しくなかったくらいだ。だから、見た目は完全に中国人(漢族)でも、タイ人と言えばタイ人ではある。国籍保有するタイ人とか細かいことまで考えず、ただただ全般的なタイ人を彼らは指している。

ただ一方で、たとえば山岳民族などはわりと最近まで差別的な扱いを受けてきたこともあって、一般的なタイ人が「タイ人は……」と語り始めることに違和感を持つ人もいる。北部の中心地であるチェンマイは今や、市街地などでも普通に少数民族出身者が働いている様子を見かける。大卒の子も増えたし、バンコクにやってくる人もいる。ただ、2000年代初頭においてもタイ族や中華系タイ人は少数民族を下に見ていた。

ひとつ例をあげると、飲食店やバーなどの従業員にひとりでも山岳民族を雇うと、古参のタイ族らは辞めていってしまったという。今はそんなことはないようだが、当時は山岳民族の方が給料も安かったのもあって経営者が雇うと、タイ族などの連中は一緒に働きたくなくて去っていくのだそうだ。そうなると、その店は山岳民族出身者のみしか働けなくなる。外国人相手の店なら問題ないが、タイ人相手だと客離れも起こるので、ある意味北部ならではの経営の難しさがあったようだ。

余談だが、山岳民族の子たちは日常的には自分の部族の言葉を使うので、タイ語は普通に話せるものの発音が稚拙に聞こえる。そのため、女性は話し方が結構かわいくて、ボクはむしろ好きだったりする。

ただ、バンコクの人でさえこういった事実を知らない。タイのマスコミは臭いものには蓋をする傾向があって、闇の部分は一切紹介しないからだ。ある種、日本の部落差別と似たように、社会的なタブーになっている部分、あるいはそうした意識がタイ人の中にあるのではないか。そして、いじめと同じで、いつか自分が同じ立場に立たされる可能性もあるので、自分に関係ない間はこのことについて語ることは控える、といった感情があるのかもしれない。

一般的なタイ人はこういう気質だからこそ、なおのこと自画自賛が増えるのかと思う。連載開始の辺りでも書いたが、ある意味、小学校の標語と同じだ。本当は裏の部分があって、しかもそれが相当強いクセであるとすれば、なおのこといいように語って自分自身を取り繕う。そんなところなのかとボクは思っている。

タイ北部のバー。従業員に山岳民族出身者が少なくない。

日本以上の「お国自慢」番組

タイは王国であり、なにもかもが国王と王室のものだ。土地も公務員もそして国民も、すべてが国王の所有物である。今でも王室不敬罪が存在し、国王と王室に対する悪口は厳禁だ。社会主義国でもないのにこの法令があることで共産主義国のような状態になっているともされ、昨今はこの法令の撤廃を求めた若い活動家を中心に反政府運動が激化している状況でもある。

とにかく、タイ人はタイという国が好きで、誇りに思っている。いわゆる愛国心が強いのだ。これは一般的な日本人にはあまり見られない傾向なのではないか。アメリカ人もなんだかアメリカ万歳という感じの人が多い印象だが、タイもそれに近いものがある。王室を誇りに思うのか、タイという国自体をそう思うのかは見ていてよくわからなくなることもあるが、王国であるため、タイという国を誇るイコール国王を誇ることでもある。

たとえば、映画館では本編が始まる前に国王賛歌が流れ、起立してそれを見なければならない。朝8時と夕方6時には国旗の上げ下げが行われ、公共施設では同時に国歌が流れるので立ち止まって拝聴しなければならない。このとき、可能であれば国旗がある方向に立つのだけれども、バンコクの場合はどこで上がっているのかわからないので、歩いていたままの方を向いているのでも構わない。映画館では、かつては外国人でも立つように命令されたものだが、街中での国旗掲揚・降納のときは立ち止まらなくてもあまり怒られることはない。

夕方6時に国旗降納に合わせて整列をする寺院の人々。
バンコクのルンピニー公園で国歌が流れるものの、立ち止まる人もいれば友人と話している人、止まらない人などがいた。

よく日系企業駐在員などから「タイ人は挨拶をしない」といった不評を聞くが、それは単純に舐められているだけ。タイ人は目上の人にはしっかりとワイ(合掌)をして挨拶をする。それがタイ社会の礼儀なのだが、ある意味シビアなのは、目下の者には自分から挨拶しないのが徹底されているところだ。部下や年下から挨拶をされないのは舐められているに過ぎないので、もしこれを読んでいるタイ在住者の方がそういう扱いを受けているとすれば、周囲には言わない方が無難だ。自分の無能をさらけ出していることになる。

このワイはまず幼稚園で叩き込まれる。いくら礼儀とはいえ、未就学児に挨拶を強要する大人はいない。特にタイ人(というか日本以外のアジア人は全般的にそうだと思うが)は子ども好きなので、多少の無礼は許される。それが幼稚園に入ると、まずは先生に挨拶をすることから教わる。ここでワイを憶え、大人になるにつれて誰に挨拶をするべきかも学んでいくのだ。

中華寺院で子どもが厄払い中。ワイ(合掌)や仏教儀礼などは学校や寺院で教わってくる。

もちろん日本でも同じではあるが、いくらタイとはいえ、礼儀は自然発生したものではなく、学校や社会の中で教育されていくものだ。それでいうと、愛国心もそう。日本では太平洋戦争の教訓からか、日本という国を褒め、誇りに思うという教育は少ない。近年はテレビ番組で日本好きの外国人を登場させるという手法で日本人の自画自賛が増えているが、現代日本人の根底に愛国心がそれほどないので、そういった番組はファンでもない限りうすら寒く感じてしまう。

一方でタイはどうかというと、テレビ番組で自国を褒める展開は日本以上に多い。ちなみにボクも何度かタイのテレビに出たことがある。救急車のボランティア隊員になっていたので、まさに「タイ好き外国人がこんなところにも!」といった感じでニュース番組に出たりした。そして、こういった内容はタイ人にはかなり好まれる。やっぱり愛国心が強いからだ。

まだ会社員のころ、ボランティアでテレビインタビューに出た。

一般のタイ人は学校でみっちりと愛国心を叩き込まれ、タイがいかに素晴らしい国であるかを学んでいく。かつて華僑は同化政策でタイ国籍を与えられる条件としてタイの教育を受けることが義務づけられたのだが、それはこうしたタイへの愛国心、忠誠心を持たせるためだ。だから、マレーシアやシンガポールの華僑・華人と違い、中華系タイ人は中国の文化を強く継承していないのである。

強い「愛国心」が育つことの良し悪し

では、どのように愛国心を育てるのか。タイでは小学校から仏教の授業があって、仏教神話や仏教のいろいろを学んでいく。タイはかつてはアニミズム(精霊信仰)があって、日本人のように森羅万象に神が宿ると信じられてきた。そこに、国民の統一のため仏教が取り込まれた。今もタイの仏教界の最高峰はタイ王室とされるし、国民の約94%は仏教徒だ。そうなると、仏教がタイ国民をまとめるなにかしらの手段として今でも利用されていると考えるべきだろう。

ただ、タイ王室や政府としても、仏教を利用していることをそこまで露骨に出すわけにはいかない。あくまでも宗教であり、国民の反乱を押さえるために穏やかにいてもらうための手段なのかと思う。では、愛国心をもっと直接的に育てるのはなにかといえば、王室だ。やっぱりタイ王国イコール国王陛下なので、国王のこれまでの行いや王室ことについて学校で教えるのが手っ取り早い。

国王陛下の素晴らしい部分を知ることで、自分はそんな国の民であることに誇りを持つ。これのよい面として、団結力が生まれる。たとえばタイでは洪水などの水害が毎年各地で起こるのだが、仏教の教えも相まって、その際の救援物資や直接的に支援をするボランティアがあとを絶たない。2004年のスマトラ地震の津波被害でも、何千人というボランティアがプーケットなどに駆けつけている。この団結力が再び誇りに結び付き、「タイ人はいい人」、「タイは微笑の国」と(大してそうでもないのに)普遍的な事実のようにタイ人がみな口にする要因となっていてる気がする。

他方で悪い部分もある。国王陛下という「父親」に抱かれた国でもあるので、悪いことをしてもいつか許してもらえるという考えが根底にあるのではないか。タイでは1970年代や80年代なども現在と同じく政変が多かったが、その時代には陸軍が市民に向けて発砲したりなど、とんでもない事件が何度も起こっている。そうした際に国王陛下が仲裁に出てきたことによってすぐに騒乱が治まったこともありタイ人の中ではなおのこと「なにかあっても国王陛下が言ってくれたら大丈夫」という思いが強まったのだと思う。実際、2006年以降の騒乱の中でもタイ人から「国王が出てくれば安心。まだ出てこないということは、まだいける」というような声も多数あった。

大きな問題は、この「国王陛下」がラマ9世王、すなわち前国王のプーミポンアドゥンヤデート王であったことだ(崩御されて今はラマ10世王になっている)。ラマ9世王は在位期間が70年(1946年~2016年)と、世界的に見ても長かった。そのため、平均寿命が日本人よりも短いタイ人のほぼすべてにとって、国王が代替わりすることは初めての経験だ。「国王陛下は素晴らしい」という言葉が指すのは、常にラマ9世のことであった。国王はなによりも上にある存在なので、現国王が皇太子だったころは、毎日の王室ニュースの中で(タイではどのニュース番組も必ず一定時間、国王と王室の活動などを報道しなければならない)その動向などが国民から注目はされていたものの、教育現場でもあくまで皇太子ではなくラマ9世王の人となりを取り上げ、敬うように言われてきた。

だが、そんなラマ9世王が崩御されてしまった。日本も今や生活スタイルや世界情勢などと比べて教育制度や内容が旧態依然となっているが、タイも大きな変革が必要になるのかもしれない。実際、政府や王室に対して不敬罪の撤廃を求める声を上げる若者が反政府活動をしているので、タイ人の中でもいろいろと大きな変化が出てきている。これからはタイも「愛国心」の定義そのものが変わってくるに違いない。

タイ人から本音を聞くことは至難の業

愛国心や礼儀が学校で教え込まれるということは、結局は早い段階でタイ社会の仕組みを暗に教え込まれているようなものだ。人間関係が複雑で、下が上にたてついてはいけない。能力があって上に這い上がっていけそうでも、出る杭は打たれる。そんなタイでは、タイ人からいろいろと本音を聞くことは難しい。

タイは共産主義国ではないのに、私服警官が市街地の至るところにいて市民の活動や言動を見張っている。街中に溶け込んでいるので、タイ人でも見分けがつかないほど。日本でいう公安のような部門が各警察署にあって、そこの警官が市街で普通に生活しているのだ。ボクは救急車のボランティアをしていたので、傷害や発砲事件の被害者搬送時にそういった刑事らと話をしたことがあるが、びっくりするくらい普通の雰囲気を出している。近所のおじさんみたいな感じで、よれよれのTシャツにサンダル履き。それでも拳銃をズボンに忍ばせているのだから怖い。そんな人がいるくらいなので、おいそれと本音を話せない。

あらゆる場面で人間関係が複雑に入り組んでいるタイ社会の中で彼らは自分の発言がどう広まり、どれがどこでどう影響するかわからないことをよく知っていて、そもそも下手な発言はしない。よほど信用できる人でない限り、本音を話したりしないのだ。後述するように、それこそメディアの取材などではそう簡単に本音を出さないのもある種、タイ人の国民性のようなものだ(一方では「外国人だから大丈夫」と、外国メディアや観光客には本音をペラペラ話すタイ人もいるけれど)。先の王室不敬罪に関しても、前国王が崩御されて昔ほど王室の吸引力がなくなっていることもあってか、国民の中には王室を支持しない人もいる。そういった人たちは友人間では王室についてのゴシップを話したりするのだが、絶対的に信頼できる人以外とは一切そのことを口にしない。そういう点から見ると、ボクの感覚では、ネットなどへの投稿はタイ人の方が日本人より上手な気がする。無益な炎上などをあまり見たことがないのだ。

日本人ジャーナリストの通訳として取材に同行したことも何度かある。その中で、さえない記者ほどしょうもない質問をする。「タイのどこそこで日本人が活躍していますが、どう思いますか」とか。日本人からそう訊かれたら誰だって「すごいですね」くらいしか言いようがないでしょうに。もっとちゃんとした記者やジャーナリストからは、そういったどうしようもない質問ではなく、核心を突いた質問などが出てくるわけだが、これはこれでタイ人はまともな回答をしない傾向にある。本音ではなく、なんというか教科書に載っているような、当たり障りのない、ステレオタイプな答えを口にすることが多い。

タイはボクのようなライター稼業をする人が少ない。旅行記事だとかブログなどはいっぱいあるが、ちゃんと取材して商用記事を作る人が少ない。なぜなら、タイ語ができない人が多いからだ。タイ語ができれば独自に取材できるが、そうでない場合、通訳をみつけなければならない。多くの場合、日本語ができるタイ人の通訳を探すのだが、大手の新聞社などそれなりにノウハウがあるところを除いて、まともな通訳を得られないという問題に直面する。

取材をして、仮に対象者が本音をバシバシ言ってくれたとしても、通訳がタイにとってよくない、あるいは自分(通訳者)がなにか問題に巻き込まれるかもしれないと思うと、意図的にその部分を変えてくることがある。対象者も記者も通訳がどう言っているか互いにわからないので、そのまま取材が進んでしまう。そういう難しさがある。

これはタイ人が人間関係の機微を深く理解しているからだ。機微そのものというか、下手なことを口にしたら自分に危険が及ぶことをよく理解しているのだと思う。だからこそ、外国人に対してはいかにタイ人が優れていて、タイがいい国かを説く。一緒になって「そうだそうだ」と納得していれば関係も円滑になる。現実がそうではないと知っていても、あえて言い続けているのではないだろうか。

MtFの自由から見るタイの個人主義の真相

日本人だけでなく多くの外国人が、タイはニューハーフが多い国だと思っている。性同一性障害者(GID)のことで、身体は男性に生まれ心は女性の場合はMtF(エム・ティー・エフと読む)、女性に生まれ男性の心を持つ場合はFtMと英語圏では呼ばれる。

世界的に見て、MtFはFtMよりも生まれる人数が多いとされるが、原因はまだ解明されていない。また、社会的な教育や活動の中で発生する性別の役割に従ったまま生きているGIDもいるため、自身がそうとは気がつかずに生涯を全うする人もいる。これによって、世界的にどの国でも自国にGIDが具体的に何人存在するかは把握できていない。あくまでも何万人にひとりという統計があるだけだ。

日本は戸籍の性別を変更できるので、その人数は把握できるが、先述の通りすべてではない。タイは戸籍変更はまだ認められていないので、GIDの人数は一切不明だ。ただ、医師の見解によると、確率で判断すればタイよりも日本の方がGIDの絶対数は多い、という。

実際は日本の方がGIDが多いのにタイの方が多いと錯覚するのは、目に見える数が違うからだ。FtMはボーイッシュな恰好をする女性にも見えるので目立たないが、MtFは服装や立ち居振る舞いでわかりやすい。また、日本だとファッションや行動でMtFを表に出す人はわりとナイト・エンターテインメントに従事しているケースが多い一方、タイでは普通に会社員や商業施設の従業員、工場勤めなどもいる。タイはGIDがどこにでもいるので、外国人にはたくさんいるように見えてしまう。

MtFが多いように見えるタイで行われる、MtFの世界一決定戦の控室。2012年度はこのフィリピン人MtFが世界一になった。

これは日本人からすると、逆に日本社会に問題があると気づかされる。個人が自分の信条に従った生き方をすることがタイでは許容されて、日本では差別されるからだ。タイ人は自分の自由を阻害されることが嫌いで、だから他人の自由も侵害することはない。そのため、GIDも自由に生きられる。

しかし、である。

ここでも本音と現実に大きな乖離がある。多くのMtFはタイは自由であると語りたがるが、現実は必ずしもそうではない。根気よく聞きだしていくと、GIDたちには彼らなりに息苦しいタイ社会がある。もちろん多くのタイ人は彼らに対して後ろ指を指したり、とやかくいうことはない。ただ、中には差別的な発言や行動を取る人もいる。電車やバスに乗っているときなど、突然知らない人から罵倒されたり、身体を触られたりすることがほぼ毎日のように起こるのだという。大半のMtFが体験する人生においての最初の差別や冷酷な目は父親からだったりもする。

タイは車が左側通行だったり、わりと英国文化の影響を受けているところがある。そのため、実は服装のいわゆるTPOは日本以上に厳しい。タイは南国なので、外国人はついついどこでもリゾート気分でタンクトップやハーフパンツで歩いてしまうものだが、実はタイ人の特に保守的なお年寄りからするとかなり許せない部分もあるようだ。愛国心だけでなくそういうマナーも相まって、タイ人は外国人を見下す傾向にあるのかと思う。だから、タイは完全な個人主義というより、ある程度社会に見合った範囲内で個人の主張が許される国なのかなとボクは見ている。

ただ、個人の自由が大切にされるがゆえ、その「タイ社会に見合った範囲」の個人差が大きいのも現実。タイは多民族国家でもあるので、そのあたりを変に統一することも難しい。だからこその仏教ではあるが、南部はイスラム教徒も多いわけで、ひと言でタイ人をまとめるのも困難だ。

そういう点では、タイ人っていい人でしょう? だとか、タイは過ごしやすいいい国だよなあ、と外国人に同意を求めるのは、彼らもそう思いたいし、簡単に総括できないこの国をそれでもなお、叩き込まれた愛国心からヨイショしたいがゆえなのだろうなとボクは思う。

とはいえ、的外れなことでは外国人からも同意を得られないので、ある程度は真実味があることを挙げないとならない。実際、困った人を助けたり、災害時には自分の仕事をほっぽり投げてボランティアに行ったり、年中暑いので果物や野菜は豊富で食べるには困らないし、いい国、いい人なのは間違いない。そして、意味があるかないかは別にして、実際に微笑むのだから、微笑の国で間違いもない。こういう掴みどころがあるようでないようで……というところが、タイ人とタイという国の魅力でもある。

書き手:高田胤臣(たかだたねおみ)
1977年5月24日生まれ。2002年からタイ在住。合計滞在年数は18年超。妻はタイ人。主な著書に『バンコク 裏の歩き方』(皿井タレー氏との共著)『東南アジア 裏の歩き方』『タイ 裏の歩き方』『ベトナム 裏の歩き方』(以上彩図社)、『バンコクアソビ』(イーストプレス)、『亜細亜熱帯怪談』(晶文社)。「ハーバービジネスオンライン」「ダイアモンド・オンライン」などでも執筆中。渋谷のタイ料理店でバイト経験があり、タイ料理も少し詳しい。ガパオライスが日本で人気だが、ガパオのチャーハン版「ガパオ・クルックカーウ」をいろいろなところで薦めている。

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